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第18話 書き損じの「エ」

 翌日から、書庫の長机は、作戦室になった。


 机の上に、並べられたもの。母の手紙。「エ」の字の紙。クラリッサの手紙。マルゴの「お客様」の手紙。貸金庫の名義変更通知。ロゼリアの手紙と、その嘘の解説の覚書。大司教の書状の写し。そして、移送通知の公文書。


「まず、敵の手続きの全体図を、描く」


 アルヴェインさまが、大きな紙に、線を引いた。


「君を消すための、紙の手続きは、二本ある。一本目、教会の『移送』。君の身柄を、静修院へ。二本目、伯爵家の『記録抹消願』。君の戸籍と、相続権を、紙の上から消す。——この二本は、別の手続きに見えて、実は、繋がっている」


「繋がって、いる……?」


「順番だ。考えてみてくれ。なぜ、君の父は、君が忘れられるのを待たずに、急いで抹消願を出す?」


 私は、机の上の、貸金庫の通知を見た。


「……相続、ですか」


「そうだ。君は、メルローゼ家の長女だ。呪いがどうあれ、戸籍が残っている限り、君には、相続権がある。祖母君の遺した財産も、君の名義のままだ。だが——もし君が、戸籍から消える前に、静修院という密室に入れば?」


 ぞくり、とした。


「外から見えない場所で、本人の『同意書』は、いくらでも、作れる。財産の譲渡も。相続の放棄も。……つまり、移送が先で、抹消が後。教会は君の最後の石まで汲み上げ、伯爵家は君の財産を回収する。二本の手続きは、一つの絵だ。——絵を描いたのが誰かは、書状の署名を見れば分かる」


 ガリウス大司教。


 父は、絵の中の、駒の一つに過ぎないのかもしれなかった。娘を消す駒を、進んで引き受けた、ということが、免罪になるわけでは、ないけれど。


「そこで、母君の空欄だ」


 アルヴェインさまは、図の、抹消願の線の上に、ばつ印を、書いた。


「抹消願は、家族全員の署名が要件。母君の署名は、ない。おそらく父親は『妻は病で署名不能』という診断書をつけて、強行する。それに対して、こちらは、母君の手紙を出す。日付入りの、理路整然とした、自筆の手紙だ。署名『不能』ではなく、署名『拒否』。意思能力が、ある証拠だ」


「でも……手紙一通で、足りるでしょうか。あちらには、お医者さまの診断書が」


「いい質問だ。足りない。だから、揃える」


 彼は、指を、折った。


「刺繍。柱の傷。これらは、手紙の記述と一致する物証だ。それから、マルゴの家計帳。使用人が忘れても、帳面には『お嬢様の冬服、仕立て直し』の記録が残っているはずだ。君が、いた、という記録。君の歳のぶんだけ。——紙は、忘れない」


 モリスさんが、頷いて、付け加えた。


「王都の、仕立て屋。靴屋。本屋の、配達記録。お嬢様が十七年、生きてこられた跡は、王都中の商家の帳面に、散らばっておりますでな。……それを、集めて、束ねるのが、われらの、お家芸というもので」


「忘れられた人を、世界に返す仕事と——同じ、ですね」


 言ってから、気づいた。


 同じ、なのだ。ベルタ婆さんの粥の記録を探したのと、同じ手つきで、この人たちは、今度は、生きている私を、世界に、繋ぎ止めようとしている。


「一つ、白状しておく」


 ふいに、アルヴェインさまが、言った。


「私は、君を守っているのでは、ない」


「……え?」


「守る、というのは、力のある者が、弱い者の前に、立つことだ。私のしていることは、違う。私はただ——覚えているだけだ。君がいたことを。君が今、いることを。記録と記憶で、世界に対して、言い張り続けているだけだ。それは盾でも剣でもなく……ただの、執念だ」


 彼は、図面の上の、自分の書いた線を、見ていた。


「三百年、私はそれしか、できなかった。娘たちが消えていくのを、覚えていることしか。……だから君も、私に守られていると、思わなくていい。君は、私の執念の隣で、君自身の戦いをしている。対等だ。それだけは、間違えないでくれ」


 守られていると思うな、と言う人の声が、こんなに、何かを守る形をしていることを、私は、知ってしまった。


「アルヴェインさま」


「なんだ」


「では、対等な者として、申し上げます」


 私は、母の「エ」の字の紙を、手に取った。


「この紙は、お渡しします。証拠として、使ってください。母の夜の数を、無駄にしないでください。……ただし、写しを取って、原本は、いつか、私に返してください。これは——いつか、母に、見せるんです。霧が晴れた日に。『あなたの書いた字が、私を、助けました』って」


 アルヴェインさまは、紙を、受け取った。


 両手で。帳面を扱うモリスさんと、同じ手つきで。世界で一番、大事な記録を扱うように。


「確かに、預かった。……写しは今夜、私が、自分で取る。一画も、違えずに」


 この人の「一画も違えず」は、誇張ではない。本当に、一画も違えないのだ。


 母の震えた線の、震えまで、この人は、覚えてくれる。


お読みいただきありがとうございます。


二本の手続きは、一枚の絵でした。描いたのは、大司教。

反撃の設計図が、引かれました。武器は、王都中の帳面に散らばった「いた」という記録。


「私は、守っているのではない。覚えているだけだ」

——三百年の執念の、告白でした。


次回、第19話「記録抹消願」。

王都の動きが、加速します。元婚約者の、あの報せも。


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