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第17話 宛名のない手紙

 その手紙は、宛名が、なかった。


『星灰の塔気付』


 それだけ。差出人の欄には、メルローゼ家の家紋の封蝋。けれど、署名の場所には、母の名前ではなく、ただ、こう、あった。


『あの子の、母より』


 広間の机で、私は、しばらく、封を切れなかった。


 ハンナさんが、そっと、肩に手を置いてくれた。テオが、椅子を寄せて、隣に座った。モリスさんが、ペンを置いた。アルヴェインさまは、暖炉のそばに、立った。皆、いてくれた。一人で読まなくて、いいように。


 封を、切った。


『この手紙を、誰に宛てて書いているのか、わたくしには、もう、分かりません。


 おかしなことを書くと、お思いでしょう。けれど、どうか、最後まで読んでください。これは、頭のおかしくなった女の手紙ではなく——頭が、勝手に書き換えられていく女の、抵抗の記録です。


 わたくしには、娘が、二人、いたはずなのです。


 下の娘のことは、覚えています。聖女になった、自慢の娘です。けれど、上の娘のことを、思い出そうとすると、霧がかかります。名前が、出てきません。顔が、出てきません。


 でも、確かに、いたのです。


 その証拠も、あります。わたくしの部屋の、針箱の底に、子供の刺繍が、一枚、隠してありました。桃色の糸で、星の模様。下手くそで、一生懸命な、星の模様。下の娘は、刺繍を、しません。なら、これは、誰が縫ったのです?


 子供部屋の、柱の傷。背丈を測った跡が、二人分、あります。「ロゼリア、五歳」の隣に、もう一つ、高いほうの傷。名前の場所だけ、ナイフで、削られています。削った男を、わたくしは知っています。わたくしの夫です。


 夫は、わたくしに、書類を出させようとしました。「記録抹消願」というのだそうです。家族全員の署名が要るのだと、ペンを、握らせられました。


 わたくしは、書きませんでした。


 何度、説得されても。何度、怒鳴られても。先週からは、食事を、別にされています。それでも、書きません。


 だって、おかしいではありませんか。

 思い出せない子の名前を、消すための紙に、どうして、署名などできましょう。

 思い出せないなら、なおさら、消してはいけないのです。思い出せる日のために、紙のほうは、残しておかなくては。


 夜ごと、わたくしは、机に向かいます。

 霧の向こうの名前を、呼ぼうとして、ペンを動かします。

 エ、まで書けるのです。エ、の次の字が、どうしても、出てきません。

 今夜も、紙の上は、エ、エ、エ、ばかりです。


 ねえ。

 あなた。わたくしの、上の娘。

 この手紙が、あなたに届いているのなら。


 お母さまは、覚えていられなくて、ごめんなさい。

 でも、忘れることに、同意だけは、していません。

 最後の最後まで、しません。


 それだけは、霧より、深いところに、書いておきました。


 あの子の、母より』


 手紙の最後の頁に、別の紙が、一枚、折り込まれていた。


 広げると——「エ」の字が、埋め尽くしていた。


 エ。エ。エス。エ。途中まで書いて、力尽きた線。何度も、何度も。紙の裏まで、インクが、滲んでいた。一枚の紙の上で、母が、霧と戦った、夜の数だけ。


 私は、声を、上げて、泣いた。


 この塔に来てから、初めて。たぶん、生まれてから、初めて。子供のように、しゃくり上げて、泣いた。母は、私を忘れていなかった。覚えてもいられなかったけれど——忘れることに、同意して、いなかった。


 あの最後の朝、私が「裏切られた」と思った人は、ただ一人、署名を、拒んでいた。


 ハンナさんが、私を、抱きしめてくれた。テオが、私の袖を、ずっと、握っていた。



   ◇



 どれくらい、泣いただろう。


 気がつくと、机の向こうに、アルヴェインさまが、膝をついていた。床に膝をついて、私と、目の高さを合わせて、彼は、待っていた。


 そして、私の頬に残った涙を——


 手袋を、外した手で、拭った。


 素手だった。三百年の番人の、素手の指だった。あの几帳面な人が、手袋を外して、椅子の背にかける、その手順さえ忘れたように、床に、落としていた。


「……エステル。よく、聞いてくれ」


 彼の声は、低く、確かだった。


「この手紙は、悲しみの手紙ではない。——武器だ」


「ぶ、き……?」


「記録抹消願は、家族全員の署名を、要件とする。母君は、署名していない。それを、本人が、日付入りの手紙で、証言した。物証の刺繍と、柱の傷の記述つきで」


 灰色の瞳が、まっすぐに、私を見た。


「君の父親の手続きは、欠陥品だ。母君が、霧の中で守り抜いた、その空欄一つで——崩せる」


お読みいただきありがとうございます。


宛名のない手紙でした。

署名の場所には、『あの子の、母より』。


「忘れることに、同意だけは、していません」

「エ」の字で埋まった紙が、母の、夜の数です。


そして番人は、初めて、手袋を外しました。


次回、第18話「書き損じの『エ』」。

涙のあとの、反撃の設計図です。


ブックマーク・評価・感想、何卒、お願いいたします。

針箱の底の、桃色の星の刺繍に、☆ひとつ、お力添えを。


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