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第16話 三つ目の石

 三つ目の石は、雨の日の午後に、消えた。


 劇的な瞬間では、なかった。書庫で、帳面を写していて、ふと、手首が軽くなった気がして——見ると、もう、黒かった。


 九割がた消えていた石の、最後の一割。社交界の輪。私と踊った人。私の噂をした人。夜会の隅で、壁の花だった私に、一度だけ「綺麗な色のドレスですね」と言ってくださった、名前も知らない誰か。


 その全員の中から、今、私は、いなくなった。


「……モリスさん」


「は」


「記録を、お願いします。本日、十四時頃。第三石、消灯」


 自分の声が、他人のように、落ち着いているのが、不思議だった。モリスさんは、私の顔を、じっと見て、それから、静かに、ペンを動かした。


「——書き留めて、おきました」



   ◇



 その数日後、王都から、二通の手紙が届いた。


 一通目は、社交界で唯一、友人と呼べた人——子爵家のクラリッサからだった。彼女は、友人の輪。四つ目の石。まだ、私を覚えてくれている人。


 でも、封を開けて、指が、止まった。


『親愛なる——』


 宛名の続きが、なかった。


 書き出しの「親愛なる」の先が、インクの染みで、ぐしゃりと、潰されていた。そして、本文。


『ごめんなさい。あなたに手紙を書こうとして、ペンを持ったら、あなたの名前が、出てこなかったの。おかしいでしょう? 毎週、文を交わした仲なのに。顔は、覚えているの。声も。あなたの笑い方も。なのに、名前だけが、霧がかかったみたいに。


 ねえ、わたし、怖いの。先週は、あなたの名前を呼べたのよ。来週のわたしは、あなたの顔を、覚えているかしら。


 だから、忘れる前に、書いておくわ。

 あなたは、わたしの、一番の友達。

 夜会で、誰もわたしの話を聞いてくれなかったとき、最後まで聞いてくれた人。


 もし、いつか、わたしがあなたを忘れて、道で他人みたいにすれ違っても——どうか、軽蔑しないで。わたしの中の、わたしの知らないところに、あなたはきっと、いるから』


 名前から先に、忘れられていく。


 呪いの定めが、こんなに、優しくて、こんなに、残酷な形で、目の前にあった。クラリッサは、忘れまいと、戦ってくれている。戦って——負けかけている。彼女のせいでは、ないのに。


 二通目の手紙は、商会の、事務的な通知だった。


『メルローゼ伯爵家のご依頼により、王都の貸金庫の名義を変更いたしました。旧名義人の記載は、ご依頼により、抹消いたしました』


 旧名義人。


 私の、祖母が私に遺してくれた、小さな貸金庫。その名義から、私の名前が、消された。依頼主は、父。


 忘れられるのを、待ちきれない人が、いる。


 呪いが消すより早く、ペンで消そうとする人が、私の、父であるということ。



   ◇



 夕食の席で、私は、ほとんど、食べられなかった。


 皆、何も訊かなかった。ハンナさんは、黙って、私の好きな芋のスープを、よそい直してくれた。テオは、自分の星菓子を、一つ、私の皿に、移した。


 夜、自室の窓辺で、クラリッサの手紙を、もう一度、読んだ。


 扉が、叩かれた。


「……入っても、いいか」


 アルヴェインさまだった。手に、湯気の立つカップを、二つ、持っていた。


「ハンナが、持っていけと。蜂蜜入りの、ミルクだ」


「ふふ……子供みたい」


「効能に、年齢制限はない」


 彼は、カップを、窓辺の机に置いた。そして、出ていくかと思ったら——少し迷ってから、壁際の椅子に、座った。


「クラリッサ・エルムウッド子爵令嬢」


「……どうして、お名前を」


「君の入塔時の記録にある。文通相手として、君が、申告した。……手紙の相手の名前は、こちらでも、記録しておくのが、規則だ」


 彼は、自分のカップを、両手で、包んだ。


「その人が、君を忘れていく途中だということは、封筒の宛名の筆跡の乱れで、見当がつく。……つらいのは、どちらだと思う。忘れられる側か。忘れていく側か」


「考えたことも、ありませんでした。忘れていく側のつらさなんて」


「彼女は今、世界でいちばん、君の呪いの近くにいる健常者だ。記憶が削られる感触を、自覚しながら、削られている。……手紙を、書いてやるといい。彼女がまだ、君の顔を覚えているうちに。『忘れても、いい』と、君の側から、言ってやるといい」


「忘れても、いい……」


「ああ。その許しは、呪いには、なんの効果もない。だが、彼女のこれからの人生には、効く。——忘れたことを、許されていると知っている者は、忘れた自分を、憎まずに済む」


 私は、手紙の上の、潰れたインクの染みを、撫でた。


 この人は、三百年、これを見てきたのだ。忘れられる娘たちだけじゃなく、忘れていく人たちのことも。井戸の周りの、全員の痛みを。


「アルヴェインさま」


「なんだ」


「あなたは、優しい方ですね」


「……数字の話しか、していない」


「はい。あなたの数字は、いつも、優しいんです」


 彼は、答えなかった。ただ、ミルクを、一口、飲んだ。


 雨は、夜半に、上がった。


お読みいただきありがとうございます。


三つ目の石が、消えました。残りは、四つ。

クラリッサの手紙は、書いていて、いちばん、つらい回でした。

忘れていく側にも、痛みがあります。


「忘れたことを、許されていると知っている者は、忘れた自分を、憎まずに済む」


次回、第17話「宛名のない手紙」。

今度は——母から、届きます。


ブックマーク・評価・感想、何卒、お願いいたします。

蜂蜜入りのミルクに、☆ひとつ、お力添えを。


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