第66話 掃除屋
御門を除き、その場にいた隊員たちの顔には絶望が張り付いていた。
傀儡鐘は、ゆるりと首を巡らせるように鐘を揺らす。
――ゴォォォン。
響いたのは、先ほどまでとは違う。
どこか荘厳で、本来あるべき鐘の音だった。
御門は全身を強張らせ、身構える。
だが――何も起きない。
(なんだ……?)
その瞬間だった。
「くくく……あははははっ!」
一人の隊員が、不意に笑い出した。
それにつられるように、他の隊員たちも、ぽつり、ぽつりと笑い始める。
その光景は、あまりにも異様だった。
片桐もまた、その場に座り込み、声を上げて笑い始める。
そして――。
御門は、目を疑った。
片桐が腰の刀を抜き放ち、その刃を自らの首へと添えた。
「なっ……!」
そして、御門は理解した。
――これが、本来の傀儡鐘の呪い。
他の隊員たちも、笑いながら首を爪で掻きむしり血を流す者、額を何度も地面へ打ち付ける者と、次々に異常な行動を取り始める。
周囲に響く笑い声に紛れ、御門は気づいていなかった。
自分自身の口角も吊り上がり、喉から笑い声が漏れ出していることに。
咄嗟に口元を押さえようとする。
だが、腕は思うように動かない。
自らの意思とは無関係に、腕は懐の短刀を取り出していた。
(だめだ……霊力の操作すらできない……)
唯一自由の利く視線が、片桐を捉えた。
視界は徐々に赤く染まり始めていた。
片桐は耳が聞こえないことが幸いしたか、他の隊員と違いわずかに抵抗しているが、その瞳からは血の涙が流れている。
きっと、自分も同じ姿なのだろう。
御門はそう理解した。
他の隊員たちの中には、すでに動かなくなっている者もいた。
それでもなお、短刀を握る自身の腕だけは止まらない。
切っ先はゆっくりと、自らの胸へ狙いを定めていく。
(ああ……ごめんなさい……)
その言葉を声にすることすらできないまま、御門はそっと瞳を閉じた。
徐々に笑い声が減っていく。
隊員たちは、もう笑うことすらできなくなっているのだと嫌でもわかってしまう。
やがて耳に届く笑い声は、自身のものだけとなる。
身体の感覚は、すでに失われていた。
(私が最後ですか……)
今、御門の胸を支配しているのは、死への恐怖ではなかった。
信じて任せてくれた結城への罪悪感。
隊員たちを守ることができなかった無力感。
そして、最後の最後まで足掻いてくれた喜林寺の関係者や被害者たちへの、拭いきれない申し訳なさ。
それらが、御門の胸を強く締め付ける。
せめて最後くらいは――。
御門は心の中で、全員への謝罪を繰り返し続けていた。
――だが。
いつまで経っても、意識が途切れることはなかった。
御門は薄く瞼を開く。
そこには、一人の女が立っていた。
女の顔には生気はなく額には黄色の札が貼られており、金色の瞳で御門を見つめ、短刀の柄尻を人差し指と親指だけでつまみ、その動きを止めていた。
そして突如、御門と女の間へ、横から一人の男がひょいと顔を割り込ませてきた。
「や!君は陰務省の人だよね?」
その男は、黒い長袍をまとい、頭には見慣れない黒い独特の帽子を被っていた。
「んー、笑うばかりで話せないのか……」
男は困ったように眉を寄せて少し考え込むと、すぐにぱっと顔を上げた。
「そうだ!目は動くみたいだから、『はい』なら右、『いいえ』なら左を見てね。わかった?」
そう言って、男は御門の瞳をじっと見つめる。
御門は視線を右へ動かした。
「うんうん。それで、君は陰務省の人で、今はピンチってことでいい?」
御門は再び、視線を右へ動かした。
男は御門の視線を確認すると、ゆっくりとその場から身を引いた。
そして、静かに口を開く。
「漿、あれを破壊して」
男の言葉に、御門は一瞬焦りを覚えた。
だが、声は出せない。
身体も、自らの意思では一切動かせない。
傀儡鐘は、今まで破壊できなかったのではない。
――破壊しなかったのだ。
その理由は、傀儡鐘の内に囚われているであろう数多の魂。
もし、その魂が一斉に解き放たれれば、どれほどの災厄が生まれるのか想像もつかない。
だからこそ、陰務省は破壊ではなく、封印という手段を選び続けてきた。
それにもかかわらず――。
男はまるで大したことでもないかのように、飄々と「破壊」と口にした。
そして、男の言葉とともに、一人の少年がどこからともなく姿を現した。
今も御門の短刀を止めている女と色違いの装束。
額には黄色い札が貼られ、女と同じで顔に生気はなく、瞳は金色に輝いている。
「燈はそのままでね」
男の指示に、漿と燈は小さく頷いた。
漿は傀儡鐘へ向かって静かに歩き始めた。
御門はその背中を見つめ――息を呑む。
(あれは……)
漿の全身を包み込む力。
最初は霊力だと思った。
だが、違う。
肌を刺すような不快感。
触れたもの全てを蝕むような禍々しさ。
御門は、その力を知っていた。
(……呪力)
呪具や呪物が宿す、呪いそのものの力。
生きた存在が身に纏うなど、それは呪われている証。
だが、それ以上に御門を戦慄させたのは――その量だった。
漿の周囲の空気は、黒く揺らいでいる。
溢れ出る呪力が陽炎のように景色を歪ませ、地面には細かな亀裂が走っていた。
(これほどの呪力……)
御門は今まで数多の壱災位と対峙してきた。
だが、そのどれとも比較にならない。
一人の少年が纏うには、あまりにも異常。
漿は何も言わない。
ただ、傀儡鐘だけを見据えながら、さらに一歩を踏み出した。
傀儡鐘は鐘を鳴らす。
ゴォォォン――。
一直線に放たれた音の刃が、地面を抉りながら漿へ迫る。
しかし、漿に避ける様子はない。
そう思った刹那。
漿の姿が、ふっと消えた。
御門の瞳が見開かれる。
次の瞬間には、漿はすでに音の刃の内側へ入り込んでいた。
一切の予備動作がない。
身体が僅かに傾いたと思えば、そこにはもう拳がある。
――轟ッ!!
拳が遅れて出た傀儡鐘の右腕へ叩き込まれる。
鈍い破砕音とともに腕が弾け飛び、後退する。
だが、傀儡鐘は倒れない。
再び鐘を鳴らす。
ゴォォォン――。
二撃。
三撃。
無数の音の刃が山肌を切り裂きながら漿へ襲い掛かるが、漿は避けない。
黒い呪力が全身を覆う。
音の刃が漿へぶつかるたび、黒い火花のように呪力が弾け散る。
漿は止まらない。
ただ真っ直ぐ歩く。
一歩。
また一歩。
その姿は、迫り来る激流を真正面から押し返す巨岩のようだった。
御門は息を呑む。
(攻撃を……呪力だけで押し潰している……)
やがて漿は傀儡鐘の眼前まで辿り着く。
傀儡鐘が残った腕を振り上げる。
その腕が振り下ろされるよりも早く。
漿の左手が鐘を掴んだ。
細い首ごと、乱暴に持ち上げる。
傀儡鐘は暴れる。
鐘を鳴らす。
だが、漿は表情一つ変えない。
そのまま右拳をゆっくりと握る。
黒い呪力が拳へ集まり、空気さえ軋み始める。
「終わり」
小さく呟き。
拳を振り抜いた。
――ドゴォォォンッ!!
山が揺れた。
拳は鐘を真正面から貫き、その衝撃が全身へ伝播する。
鐘。
胴。
脚。
残っていた腕。
すべてが内側から爆ぜるように砕け散った。
破片が雨のように降り注ぐ。
その中で。
漿は砕けた鐘の欠片を一つ掴む。
じっと見つめる。
何の感情も浮かべないまま。
ぱき。
乾いた音とともに。
最後に残っていた鐘の欠片までも、粉々に砕け散った。
山には静寂だけが残る。
御門は言葉を失っていた。
傀儡鐘を破壊できなかったわけではないにしろ、陰務省が長年、封印という方法しか選べなかった壱災位呪物。
その存在が。
ほんの数十秒で、この世から消え去った。
その時、男は砕け散った鐘へ一瞥だけ向けると、肩を竦めて小さく笑った。
「うん、やっぱり壊した方が早いよね」
男は振り返りながら声をかけた。
「燈、もう手を離していいよ」
その一言で、燈は短刀の柄を摘んでいた手を離し、静かに男のもとへ歩いていく。
途端に御門は全身から力が抜け、その場に膝から崩れ落ちた。
視線を向けると、男は戻ってきた漿と燈の頭を、まるで子どもをあやすように優しく撫でている。
その光景を見た瞬間、御門は思い出した。
――なぜ、傀儡鐘を破壊してはならなかったのか。
次の瞬間。
耳を劈くような絶叫が、辺り一帯へ響き渡る。
御門は思わず耳を塞ぎ、その場にうずくまった。
(やはり……壊すべきではなかった……!)
傀儡鐘があった場所では、巨大な黒い靄が渦を巻いていた。
それは、呪力の塊。
先ほど燈が放っていた呪力にも圧倒されたが、それすら霞むほどの、膨大な数の魂が生み出す呪いだった。
しかし、男はその光景を前にしても表情ひとつ変えず、渦巻く呪いへと平然と歩み出した。
燈と漿は、静かにその背中を見つめていた。
男は懐へ手を入れると、しゃらり、と澄んだ音を響かせながら、紅い糸で紡がれた一本の銅銭剣を取り出した。
それを胸の前へ掲げ、静かに唱え始めた。
「天清く、地安らかなり。陰陽その位に帰し、五行その理を正す」
男はそのまま、渦の中心へ向かって歩み続ける。
その足取りは独特で、禹歩を思わせるものだった。
その歩みに合わせて言葉が紡がれてゆく。
「迷える魂は天へ還り、彷徨う魄は地へ眠れ。穢れは理に背くことなく、あるべき道へ帰るべし」
やがて渦の中心へ辿り着くと、男は銅銭剣を天高く掲げる。
「――急急如律令」
唱え終えた瞬間、男は銅銭剣を地面へ突き刺した。
それと同時――辺りに響き渡っていた絶叫は、嘘のように消え去った。
巨大な黒い渦もまた、夜の闇へ溶け込むように徐々に霧散していく。
その光景を前に、御門はただ言葉を失った。
御門は、この男の存在を知っていた。
だが――ここまでの存在だとは、露ほども思っていなかった。
男は御門のもとへ歩み寄ると、静かに手を差し出す。
「自己紹介が遅れましたね。私は、樒と申します」
――掃除屋・樒。
裏の世界で、その名を知らぬ者はいない。
道士にして、屍である僵尸を従える者。
その噂が絶えることはない。
しかし、その正体を知る者は、ほとんど存在しなかった。
御門は、差し出された白い手を静かに見つめた。
「最近は物騒ですからね。陰務省の方とは、ぜひ仲良くしたいものです」
その声に、御門はゆっくりと顔を上げる。
樒と視線が交わった、その瞬間。
背筋を、冷たいものが駆け抜けた。
「以後、お見知りおきを」




