第65話 侵食
御門は体勢を立て直した。
鋭い眼光で、豹変した傀儡鐘を睨み据える。
周囲では、先ほどの鐘の音を受け、立ち上がることすらできない隊員も少なくなかった。
「動ける者は、負傷者を退避させてください!」
即座に指示を飛ばす。
その場に残ったのは、御門。そして、決して軽傷ではないうえ、耳も聞こえなくなった片桐。さらに、軽傷で済んだ隊員が数名。
もはや、部隊としての機能は死んでいる。
御門は傀儡鐘への警戒を緩めることなく、周囲へ視線を巡らせ、思考を巡らせた。
片桐はもちろん、自身も先ほどの鐘の音で、防御したにもかかわらず少なくないダメージを負っていた。
そして、重傷を負った隊員たちがいたのは、自分たちの近く、もしくはその延長線上。
対して、軽傷で済んでいる隊員は、傀儡鐘を左右から挟む位置にいた。
(姿だけではない……力の使い方が変わった……)
その時、不意に傀儡鐘が頭部である鐘を大きく後ろへ反らした。
御門は咄嗟に声を張る。
「左右へ避けろ!」
叫ぶと同時に右へ体重をかけようとした、その時。
左横で動かない片桐が視界の端に映った。
「くっ……!」
御門は迷わず片桐へ体当たりするように飛び込み、そのまま二人は地面を転がった。
ゴォォォン――。
御門は急いで顔を上げ、片桐を見る。
咳き込んではいるものの、無事だ。
その姿を見て安堵した瞬間、右足に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
視線を落とすと、右足の裾と靴が裂け、血が滲んでいた。
(咄嗟だったせいで、霊力の巡りが甘かった……)
片桐も御門の足に気づくと、苦々しく歯を食いしばる。
「すみません……!すみません……!」
片桐はただ、謝罪の言葉を繰り返すことしかできなかった。
御門は立ち上がると、右足を引きずりながら片桐へ歩み寄り、その腕を引いた。
(自分の負傷では笑っていたくせに……)
心の中でそう呟きながら、片桐を立ち上がらせる。
そして、片桐の目を真っ直ぐ見つめ、分かりやすく口を動かした。
「大丈夫」
そう伝えるように。
片桐は一瞬俯いたものの、すぐに顔を上げ、刀を構え直した。
御門としては、この場から退かせたい。
だが、今ここで退けと言ったところで、片桐が聞くはずもないことは分かっていた。
それに――片桐へ告げた「大丈夫」という言葉に、嘘はない。
御門は一度邪念を振り払い、静かに傀儡鐘を見据える。
片桐とのやり取りの最中も、一瞬たりとも警戒は解いていない。
豹変した傀儡鐘。
そして、このわずかな攻防だけで、御門の中にはすでに次の一手が組み上がっていた。
御門は一瞬で周囲の状況を把握する。
先ほどまで自分がいた場所は、かまいたちで斬り裂かれたかのように、地面が一直線に抉られていた。
(音の指向性だけではない……性質そのものも変わっている)
そして、自身の右足。
次に同じように避けることは叶わないだろう。
――しかし、問題ない。
そもそも、御門の戦闘スタイルは、その場から動かないことを前提としている。
傀儡鐘の鐘の音に指向性が生まれたことは、むしろ好都合だった。
全方位へ無差別に放たれるのであれば、防ぐしかない。
だが、狙いが定まるのであれば――誘導できる。
「総員!密集隊形を維持!私の指示で回避してください!」
隊員たちは互いに肩を寄せるように集まる。
傀儡鐘が、ゆっくりと鐘をその方向へ向けた。
(私の読み通りなら……)
ゴォォォン――。
鐘が鳴る。
音の刃が一直線に走る。
「右!」
隊員たちは一斉に右へ飛び退いた。
地面だけが深々と抉られ、一直線の傷跡が残る。
御門は静かに頷く。
(やはり、人の姿を見ているのではない。より多くの生命に反応している)
御門は片桐へ視線を向ける。
片桐も御門を見る。
耳は聞こえていない。
御門は大きく、はっきりと口を動かした。
「お願いします」
御門は懐から十数枚の護符を取り出し、片桐へ渡した。
片桐はひとつ大きく頷き、護符を握り締めて駆け出した。
その姿を確認し、御門は隊員へ向き直る。
「片桐さんが陣を完成させるまで持ちこたえます!」
再び鐘が鳴る。
「左!」
隊員たちは泥を跳ね上げながら飛び退く。
片桐はその陰を縫うように走り、一枚、また一枚と護符を設置していく。
誰も反撃しない。
ただ、生き延びる。
それだけが役目だった。
三枚。
四枚。
五枚。
順調だった。
その時。
一人の隊員が足を取られた。
「しまっ――」
倒れ込む。
その瞬間だった。
傀儡鐘の細い腕が、ゆっくりと持ち上がる。
御門の瞳がわずかに見開かれた。
(腕……!?)
鐘ではない。
初めて見る動きだった。
だが、驚いたのは一瞬。
御門の指はすでに護符を掴んでいる。
「縛」
放たれた護符が一直線に飛び、傀儡鐘の肘へ貼り付いた。
淡い光が弾ける。
振り下ろされようとしていた腕が、一瞬だけ止まる。
「今です!」
隊員は転がるように離脱した。
直後。
護符が黒く染まり、灰になって崩れる。
拘束時間は、ほんの一瞬。
それでも十分だった。
御門は静かに息を吐く。
(腕でなにを……ですが、その程度ならやられる前に対処できます)
片桐は止まらない。
六枚目。
七枚目。
八枚目。
そのすぐ側を流れてきた音の刃が掠める。
肩口から血が散る。
片桐は血に濡れた肩を押さえることもなく、護符を置き続ける。
御門は隊員たちの位置を確認しながら、次の指示を飛ばそうとした。
その時だった。
傀儡鐘が、不意に動きを止める。
鐘がゆっくりと天を仰ぐ。
「……?」
御門の胸を嫌な予感がよぎる。
「総員!」
叫んだ、その瞬間。
ゴォォォォォン――――ッ!!
これまでとは比べ物にならない轟音が、山全体を震わせた。
一直線ではない。
四方八方。
空気そのものが暴れ狂う。
木々が軋み、岩肌が砕け、地面が蜘蛛の巣状にひび割れる。
「ぐあっ!」
「がっ……!」
隊員たちは次々と吹き飛ばされ、木や岩へ叩きつけられた。
御門も護符を前へ放つ。
「護――」
展開しかけた結界ごと押し潰され、数歩後退する。
右足へ激痛が走る。
口の中へ鉄の味が広がった。
鐘の音が止む。
山は静まり返った。
誰も立ち上がらない。
御門の表情が強張る。
「……総員」
返事はない。
(失念していた……私が……)
喉が乾く。
視線を巡らせた、その時。
一人の隊員が刀を杖代わりに立ち上がった。
額から血を流しながら、それでも傀儡鐘を睨んでいる。
続いて、もう一人。
肩を押さえながら立つ。
さらに一人。
足を引きずりながら前へ出る。
誰一人、逃げようとはしなかった。
その瞳から、戦意だけは消えていない。
御門はゆっくりと息を吐いた。
胸を締めつけていた焦りが、静かに消えていく。
(……そうですね、あなたたちは)
小さく口元が緩む。
「まだ、終わっていません」
その一言で十分だった。
隊員たちは無言のまま頷く。
誰も言葉を返さない。
返す余力すら残っていない。
それでも全員が、自らの持ち場へ戻っていく。
片桐もまた、背中から木へ叩きつけられていた。
肩から流れる血はさらに増えている。
それでも護符を握り締めたまま立ち上がり、何事もなかったかのように設置を再開した。
御門はその背中を見届ける。
(私も応えなければ)
静かに護符を握り直した。
隊員たちはとにかく必死だった。
しくじれば、片桐の動線が崩れ、御門の計画は終わる。
誰もが、それだけは理解していた。
最後の一枚。
片桐は滑り込むように地面へ護符を叩きつけ、指先へ霊力を流し込んだ。
淡い光が地中を走る。
四方へ。
そして中央へ。
離れていても分かる。
陣が繋がった。
片桐は御門を見る。
そして、小さく親指を立てた。
御門は静かに頷く。
「ありがとうございます」
その一言だけだった。
右手へ護符を三枚。
左手へ二枚。
御門は一息に放つ。
護符は陣の要へ吸い込まれるように貼り付き、地面へ刻まれた術式が一斉に輝き始めた。
円が浮かぶ。
文字が走る。
四方の護符を結ぶ光が幾重にも重なり、傀儡鐘を閉じ込める巨大な結界を形作る。
御門は次々と護符を放つ。
一枚。
二枚。
三枚。
そのたびに結界は厚みを増し、光の杭が地面から突き上がる。
杭と杭を結ぶように白い縄が張られ、さらに無数の封印文字が空中へ浮かび上がった。
まるで神域そのものが、この一帯へ降り立ったかのようだった。
隊員たちは戦うことも忘れ、その光景を見つめる。
誰も声を出さない。
ただ、確信していた。
(副長なら、封じられる)
御門は最後の護符を指先で弾いた。
護符は傀儡鐘の胸元へ貼り付く。
「――封じます」
印を結ぶ。
地を巡る光が一斉に収束した。
光の縄が締まる。
杭が沈む。
封印文字が傀儡鐘へ刻み込まれていく。
細い腕は動かない。
鐘も鳴らない。
御門はゆっくりと息を吐いた。
(終わりです)
その時。
カラン。
鐘の中から、小さな音がした。
御門だけが顔を上げる。
違う。
鐘本体ではない。
鐘の内側。
首の奥から。
何かが、笑ったような気がした。
ぞくり、と背筋が粟立つ。
次の瞬間。
ゴォン。
鐘が鳴る。
だが、音だけ。
誰も傷つかない。
静寂。
あまりにも静かな鐘の音だった。
御門の視線が結界へ向く。
そして。
息を呑んだ。
結界を構成する護符の一枚が、ゆっくりと墨を垂らしたように、黒く染まり始めていた。
それは護符から護符へ。
糸を伝うように、黒が這う。
次の瞬間。
黒は地面へ刻まれた陣へ流れ落ちた。
白く輝いていた術式が、一筋、また一筋と黒く染まっていく。
「そんな……」
御門は反射的に更に霊力を流し込む。
だが、反応はなかった。
流し込んだ霊力さえも、黒へ溶けていく。
「……違う」
御門は首を振る。
「違います」
ただ抵抗しているのではない。
破壊でもない。
侵食。
術式そのものが、呪われていく。
黒は止まらない。
陣を巡り。
四方へ立つ光の杭を染め。
杭と杭を結ぶ白い縄を腐らせ。
宙に浮かぶ封印文字を、一文字ずつ塗り潰していく。
まるで、この封印という概念そのものを否定するように。
「副長……」
隊員の一人が掠れた声を漏らす。
御門は答えられなかった。
答えられるはずがない。
目の前で起きている現象は、自身の知る術理のどこにも存在しなかった。
(あり得ない)
壊されることはある。
力で破られることもある。
だが。
ここまで丹念に組み上げた陣を、内側から喰い潰すなど経験がない。
(そんなものは……本当に零災位……)
ぱき。
小さな音が響く。
最初の光の杭へ亀裂が走った。
続いて一本、また一本と砕け散る。
張り巡らされていた白い縄が力なく垂れ下がり、やがて音もなく霧散した。
「まさか……」
御門は無意識に一歩後ずさる。
止めなければ。
そう思う。
だが、止め方が分からない。
術を知る者ほど、未知への恐怖は大きい。
そして――。
最後の陣の筋が黒へ呑まれた。
静寂。
誰も動かない。
誰も声を出せない。
傀儡鐘は、ただそこに立っていた。
何一つ変わらない姿で。
ゆっくりと。
首だけが、ゆっくりとこちらを向く。
目などない。
それでも確かに、見られていた。
カラン。
鐘の奥で、また何かが小さく鳴った。
御門の背筋を、言いようのない悪寒が駆け抜ける。
(……終わる)
その確信だけが、脳裏を支配した。
そして。
傀儡鐘が、静かに天を仰ぐように鐘を逸らす。
その場にいた誰もが、本能で悟っていた。
次の一音で。
この場に残る者は、誰一人として立ってはいられないことを。
御門は静かに護符を握り締めた。
――それでも。
諦めるという選択肢だけは、なかった。




