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神も人も〜人に砕かれた神の核を巡る、現代妖異譚〜  作者: 佐藤 潮


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第62話 瓦解

黒杖家本家――当主座敷。


静まり返った部屋に、液体が滴り落ちる音だけが響く。


畳には、まだ染み込みきっていない鮮血が広がり、赤黒い水溜まりを作っていた。


生臭い血の匂いが室内を満たし、重苦しい空気が肌にまとわりつく。


その真ん中に一人の男が佇んでいた。


「な、棗様……」


震える声が静寂を破る。


「これは、一体……」


恐る恐る部屋へ足を踏み入れた男は、目の前の光景に身体は震え、目を見開いた。


——————————————————


白依たちは夜桜へ戻ると、裏口から店内へ入った。


カウンターには蘭丸。


ソファ席では岩倉が酒を飲み、隣では焔羅が尻尾を揺らしている。


白依と哀に気付いた焔羅は、勢いよく立ち上がった。


「主!哀殿!」


嬉しそうな声を上げ、一目散に駆け寄ってくる。


足元まで来ると、哀はその場へしゃがみ込み、持っていた紙袋を開けた。


「ただいま、焔羅」


紙袋の中から団子や焼き菓子を取り出す。


「お土産、買ってきたよ」


「おお!」


焔羅の耳がぴんと立つ。


「感謝する!」


嬉しそうに尻尾を大きく振る姿に、哀も自然と笑みを浮かべた。


その様子を見ていた蘭丸も、カウンターから少しだけ身を乗り出す。


「おかえりなさい」


穏やかな声が店内へ響く。


岩倉はそんな光景を眺めながら、口元をわずかに緩めた。


何も言わず酒を一口あおり、その平和な空気を静かに味わっていた。


そんな穏やかな空気を切り裂くように、蘭丸の携帯電話が鳴った。


蘭丸は画面を一瞥し、そのまま耳へ当てる。


「はい」


穏やかな笑みを浮かべていた表情が、すっと消えた。


——————————————————


陰務省本部――総監室。


緋珠は机に突っ伏したまま、一枚の書類を指先で摘み上げ、気だるそうに目を通していた。


「んー……なんだか騒がしいような……」


ぼんやりと呟いた、その時だった。


バンッ!!


激しい音を立てて扉が開く。


「っ!」


反射的に背筋を伸ばした緋珠は、慌てて姿勢を正した。


「し、仕事してるからね!ほんとだよ!」


誰にも聞かれていない言い訳を、なぜか必死に並べ立てる。


入ってきた相楽だった。


相楽は何も言わずに、規則正しい足音を響かせながら机へ近付いてくる。


その無言の圧力に、緋珠の頬がぴくりと引き攣った。


どこか怯えたような表情で相楽を見上げる。


やがて相楽は机の前で立ち止まり、一台のタブレット端末を静かに置いた。


緋珠は恐る恐る視線を落とし、画面を確認する。


その瞬間、緋珠の目がわずかに鋭くなった。


「これは……」


緋珠は確認するように、タブレット端末へ注視した。


表示されていたのは、簡潔な報告書だった。


御三家・黒杖家当主、黒杖道玄死去。

これに伴い、序列一位、滅儀・黒杖棗が当主代理に就任。


読み終えた緋珠は、ゆっくりと顔を上げる。


「……本当なの?」


「詳細まではまだ不明ですが、この報告内容に関しては隠密部隊からも裏は取れています」


相楽は淡々と答えた。


「現在、黒杖家はかなり慌ただしい状況です。情報統制も十分に機能していません。その影響で、うちの各部署も走り回っています」


「なるほど、だから騒がしかったのね」


緋珠は小さく納得すると、再び端末へ目を落とす。


画面には、何度見ても同じ報告が映し出されていた。


(……あのクソジジイが、そんな簡単にくたばるか?)


胸の内でそう呟き、緋珠は細く目を眇めた。


「それと……」


相楽は机に置かれたタブレット端末を操作し、別の資料を表示させた。


「現在、タイミングの悪いことに、福島県の喜林寺にて保管されていた壱災位呪物が暴走しました」


画面には現地の写真や報告書が次々と映し出される。


「住職の尽力によりまだ犠牲者は出ていないものの、直ちに再封印が必要とのことです」


緋珠は相楽の報告を聞きながら、端末に表示された詳細へ静かに目を通していく。


端末には、呪物の概要が記されていた。


【傀儡鐘】


人を狂気へ誘い、自害へと追い込み、その魂を集め続ける呪物。


取り込んだ魂の数だけ呪いは増幅し、放置すれば被害は際限なく拡大する。


数百年前から喜林寺に存在し続けており、これまで幾度となく調査や対処が試みられたが、移動も破壊も叶わなかった。


そのため現在まで、封印という形で管理され続けている。


「内容と場所を考えれば、本来は黒杖家へ投げるべき案件だけど……」


緋珠はそう呟き、相楽へ視線を向ける。


相楽は小さく首を振った。


「今は、それどころではないでしょう」


「……だよねー」


緋珠は肩を落とし、困ったように苦笑した。


「さて、と……どうしよっかなー」


緋珠は椅子の背にもたれ、天井を見上げながら思案する。


しばらくの沈黙の後、相楽が口を開いた。


「ここはやはり、制縛部隊を出すべきでは?」


その言葉に、緋珠は相楽へ視線を向ける。


「うーん……」


歯切れの悪い返事。


相楽はわずかに眉を寄せた。


「何か問題でも?」


「いや、問題ってほどでは――」


コンコン。


その時、不意に部屋の扉がノックされた。


緋珠と相楽は一瞬だけ視線を交わす。


そして緋珠が、いつもの気の抜けた口調で応えた。


「どーぞー」


「失礼します」


扉が開き、一人の男が姿を現す。


制縛部隊長――結城一だった。


緋珠は机の上に置かれていたタブレット端末を、さりげなく裏返しにした。


「結城隊長がわざわざここまで足を運ぶなんて珍しいね。どうしたの?」


結城はわざとらしく肩をすくめ、穏やかな笑みを浮かべる。


「いえいえ。なにやら本部が騒がしいようでしたので、様子を伺いに来ただけですよ」


一度言葉を切ると、眼鏡を指で押し上げた。


「それに、なぜか私のところへ情報が届くのが遅いことが、しばしばありましてね」


「それはいけないねー」


緋珠は軽い調子で笑う。


「組織っていうのは、風通しが良くないとねー」


そのやり取りを見つめる相楽は、どこか胸の奥に引っ掛かるものを覚えていた。


互いに笑みを浮かべながら交わす会話。


だが、その空気はどこか歪で、探り合っているようにも見える。


「えっと、総監」


相楽が静かに口を開く。


「緊急案件ですし、ここでお願いしては?」


その言葉に、緋珠のまつ毛がわずかに揺れた。


しばらく無言のまま結城を見つめると、大きく一つ息を吐く。


「……そうね」


緋珠は端末を再び表に返し、数回操作してから相楽へ手渡した。


相楽はそれを受け取り、結城へ差し出す。


そして、現在の状況を簡潔に説明し始めた。


結城は相楽から説明を受け、タブレット端末へ一通り目を通した。


「ふむ……黒杖家当主が死去……」


小さく頷き、静かに口を開く。


「とりあえず現場には、御門を向かわせますか」


「あら」


緋珠が首を傾げる。


「結城隊長は行かないの?」


「私は別にやることがありますので」


結城は穏やかな笑みを崩さない。


「心配は無用ですよ。御門はまだ若いですが、副隊長として十分育っています」


そう言って端末を相楽へ返した。


「とにかく、現状は把握しました」


軽く一礼する。


「では私は、これで失礼します」


踵を返し、扉へ向かう。


その手がドアノブへ伸びた瞬間――。


「結城隊長」


緋珠の声が背中へ飛ぶ。


結城は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。


「なにか?」


「……いや、なんでもないわ」


短い沈黙。


結城は緋珠を静かに見つめたまま、眼鏡を指先で押し上げる。


「……そうですか」


それだけ言い残し、静かに総監室を後にした。


結城は、廊下を歩いていた。


ひとつ角を曲がったところで、不意に足を止めた。


誰もいない廊下。


結城はゆっくりと目を閉じ、小さく息を吐く。


「……もう少し、慎重に動きますか」


誰に聞かせるでもない独り言。


そう呟くと、再び静かに歩き始めた。


——————————————————


福島県――郊外に佇む喜林寺。


そのさらに奥深く。


山々に囲まれたその麓は、燃え盛る篝火に赤く照らされていた。


「もっと護符を持ってこい!」


「おい!しっかりしろ!」


「応援はまだか!?」


怒号が飛び交い、人々が慌ただしく駆け回る。


絶え間なく唱えられる読経。


それに重なる男たちの怒鳴り声。


混沌とした喧騒が、夜の山中へ響き渡っていた。


袈裟をまとった和尚は、頑強な造りの蔵の前で、井形に組まれた護摩木の炎を前に読経を続けていた。


燃え盛る炎が夜を赤く染める。


だが、その額には大粒の脂汗が滲み、頬を伝って落ちていく。


蔵の分厚い壁と重い扉を隔てているにもかかわらず――。


ゴォン……。


ゴォン……。


腹の底まで響くような重い鐘の音が、外へと漏れ続けていた。


(……わしの力では、焼け石に水か)


胸中でそう呟いた、その時だった。


「あひゃ……うひ……ひゃはははははは!」


背後から甲高い笑い声が響く。


人の笑い声。


だが、その響きは明らかに正気ではなかった。


和尚は振り返らない。


いや、振り返れなかった。


(ついに……飲まれる者が出たか)


読経を止めることなく、背後の対処を周囲へ委ねる。


「おい!誰か、こいつを運び出せ!」


「今行く!……って、おい!あいつどこへ行く気だ!」


「誰か止めろ!」


怒号が飛び交う。


和尚も一瞬だけ気を取られかける。


だが次の瞬間、その視界に飛び込んできた光景に思考が凍り付いた。


一人の和装姿の男が、和尚のすぐ脇を駆け抜ける。


そのまま迷うことなく――


燃え盛る護摩木の炎へと身を投げた。


「なっ!」


井形に組まれていた護摩木が、大きな音を立てて崩れ落ちる。


火の粉が夜空へ舞い散った。


その瞬間――。


和尚の読経も止まった。


「あひゃひゃひゃひゃ!俺もすぐに行くぞ!ひゃひゃひゃひゃ!」


崩れ落ちた護摩木の下敷きになり、全身を業火に焼かれながらも、男は狂ったように笑い続ける。


肉の焼ける臭い。


弾ける火の粉。


耳を塞ぎたくなるような哄笑。


あまりにも異様な光景に、その場にいた誰もが動きを止めた。


誰一人として、言葉を発することができなかった。


和尚は我に返ると、乱れた呼吸を整え、再び読経を始めようとした。


しかし――。


もう遅かった。


辛うじて保たれていた均衡は、すでに瓦解していた。


ゴォン――。


先ほどよりも一段と重く、大きな鐘の音が山中へ響き渡る。


「全員!即時この場から離れ――!」


和尚は振り返り、周囲へ必死に指示を飛ばした。


だが、その声は最後まで届かなかった。


ゴォォォン!!


今日一番の轟音。


鐘の音は和尚の叫びを飲み込み、辺り一帯を震わせる。


直後――。


ミシッ。


バキ、バキバキ……。


乾いたひび割れる音が、蔵全体から響き始めた。


和尚はゆっくりと振り返る。


視界に映った蔵には、無数の亀裂が走っていた。


その光景を見た瞬間、全身を悪寒が駆け抜ける。


「はは、しまいじゃ……もう……」


絶望を滲ませた呟き。


そして――。


ゴォォォン!!


鐘の音が鳴り響く。


それを合図にしたかのように、頑強な蔵は轟音とともに崩れ落ちた。

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