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神も人も〜人に砕かれた神の核を巡る、現代妖異譚〜  作者: 佐藤 潮


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第61話 黄昏時

「突然すみません」


女は柔らかな笑みを浮かべたまま言った。


「僕も、少し驚いています」


そのまま焦点の合わない瞳を、白依たちではなく、その後ろへとゆっくり流す。


白依と哀は互いに一瞬だけ視線を交わした。


女の言葉の意味が分からない。


女はわずかに目を細め、静かに口を開く。


「もうじき、日が暮れますね」


その言葉に、白依と哀は振り返った。


沈みゆく夕日。


陽はすでに半分ほど姿を隠し、赤く染まっていた空は、ゆっくりと群青へ溶け始めている。


「こういった時間を、黄昏時といいます」


女の声が、少しだけ低くなる。


「異形の者の時間です」


その一言に、白依と哀は再び女へ視線を向けた。


だが、その表情に変化はない。


穏やかな笑みを浮かべたまま、静かにそこへ立っているだけだった。


――次の瞬間。


バチンッ。


耳を打つ大きな音が展望台に響き渡る。


同時に、館内の照明が一斉に消えた。


哀は咄嗟に身を低くし、周囲へ鋭く視線を巡らせた。


その瞬間、ある違和感に気付く。


(停電?……にしては静かすぎる)


足音がない。


話し声も聞こえない。


展望台に確かにいたはずの人々の気配が、一切なかった。


哀は小さく呟く。


「そういえば……ここへ来てから、一度も人の話し声を聞いていない……」


背筋を冷たいものが走る。


すぐに白依へ声を掛けようとした、その時だった。


「ここは今日、臨時休業していて、人は誰もいないはずなんですよね」


女は相変わらず穏やかな笑みを浮かべたまま言った。


「……え?」


その言葉に、哀は思わず声を漏らす。


女は静かに続けた。


「ですが、たまにあなた方のように紛れ込んでしまう方がいるんです」


一拍置いて、そっと微笑む。


「まるで――呼ばれたように」


白依は何も言わず、ただ静かに女を見据えていた。


そして、短く問い掛ける。


「お前もか」


端的な問い。


女は小さく首を横へ振った。


「いえ」


少しだけ考えるように間を置き、柔らかく笑う。


「僕は……ボランティア、といったところでしょうか。最近は多いので」


その時だった。


――どん。


背後のガラスが、鈍い音を立てた。


続けて、


――どん、どん。


音は一枚だけでは終わらない。


まるで波紋が広がるように、館内を囲むガラスへ次々と伝播していく。


どん。


どん、どん、どん。


重い衝撃音が四方から響き、展望台全体がわずかに震え始めた。


「思っていたより、面倒そうですね」


女は意に介した様子もなく、小さく息を吐く。


その瞬間だった。


ぞわり――。


哀の全身を、粟立つような感覚が駆け抜けた。


肌が総毛立つ。


本能が危険を告げ、身体が強張る。


だが、哀はすぐに意識を切り替えた。


身体の内を巡る霊力へ。


霊力の流れを掴んだ、あの感覚を思い出す。


呼吸を整え、霊力を全身へ巡らせる。


(大丈夫……)


震えを押さえ込みながら、自分へ言い聞かせる。


(今までとは……変わるんだ)


冷静さを取り戻した哀は、慎重に周囲へ視線を巡らせた。


展望台は一周できる円形のフロア。


その奥――薄暗い通路の先で、何かが蠢いた。


鳴り止まない打音。


そして、何か巨大なものが床を引きずるような音。


ずる……ずる……。


低く湿った呻き声のようなものまで混じっている。


哀は息を潜め、目を凝らした。


その姿を捉えた瞬間――。


「――っ」


声すら出なかった。


そこにあったのは、巨大な手。


展望フロアの幅いっぱいを埋め尽くすほどの、おぞましい巨腕がこちらへ這い寄ってきていた。


だが、それは一つの手ではない。


近づくにつれ、その正体が見えてくる。


無数の顔。


絡み合う腕。


折り重なる脚。


人の身体の部位が幾重にも積み重なり、ひとつの巨大な”手”を形作っていた。


指先が床を掴むたび、不気味な音が館内へ響く。


哀は思わず白依へ視線を向けた。


白依もまた、反対側の通路を静かに見据えている。


その先にも――。


同じく巨大な手が、ゆっくりとこちらへ迫ってきていた。


その瞬間、白依は何も言わず哀の前へ一歩踏み出した。


まるで哀を背で隠すように。


「白依様……?」


白依は怪異から目を離さないまま、小さく言う。


「下がっていろ」


その声は静かだった。


だが、有無を言わせない響きがあった。


(私はまた……)


哀は唇を噛み締め、必死に逃走経路を探した。


エレベーター。


――停電した今、動くはずがない。


非常階段。


――巨大な手が迫ってくる、その先だ。


逃げ場がない。


じわりと焦りが胸を締めつける。


そんな中――。


女は白杖で床を確かめながら、迫り来る巨大な手へ向かって歩き始めた。


「……!」


哀が思わず息を呑む。


女は足を止めることなく、巨大な手との中間辺りまで進むと、静かに振り返った。


「大丈夫ですよ」


穏やかなその声に、白依と哀は女を見る。


女はまるで世間話でもするような口調で話し始めた。


「ここは過去に一度、取り壊されて建て直されたそうです」


白杖を軽く床へ触れさせながら続ける。


「理由はガスによる殺傷事件。その時は数十人もの方が犠牲になったとか」


巨大な手はなおも迫っている。


それでも女の口調は変わらない。


「その影響で、建て直された後も心霊スポットとして有名になりました。実際に霊の存在も確認されていたそうですが……そのほとんどは無害な霊だったそうです」


一度言葉を切る。


「ですが、ここ最近の怪異の活発化が原因かは分かりませんが、どうやら集合霊となってしまい……人を襲うようになったようですね」


まるで調査報告を読み上げるような淡々とした声音。


そして、巨大な手を見据えたまま、小さくため息をつく。


「集合霊の場合は、少し言葉を選ばないといけないのが面倒です」


女は、すっと笑みを消した。


先ほどまでの柔らかな雰囲気が静かに薄れ、その場の空気がわずかに張り詰める。


「ですが――亡き者なら、この言葉で通じるでしょう」


哀は思わず口を開いた。


「あなたは、何を……?」


女は答えない。


代わりに、人差し指をそっと自身の唇へ当てた。


静かに。


そう告げるように、哀を制する。


そして、両手で白杖をゆっくりと持ち上げ、下ろす。


白杖の先端が床へ触れる。


――トン。


澄み切った音が、静まり返ったフロアに響き渡る。


その瞬間。


ガラスを叩いていた鈍い音が止んだ。


幾重にも重なっていた呻き声も。


迫り来る巨大な手さえ、一瞬動きを止める。


まるで、この空間だけ時が止まったかのような静寂。


そして女は、静かに口を開いた。


「――還りなさい」


その声音は、とても不思議だった。


まるでフロアを風のように吹き抜けていくその声は、今にも消えてしまいそうなほど静かで。


それでいて、揺るぎない力強さを秘めている。


耳ではなく、魂へ直接響くような声。


哀は思わず息を呑んだ。


「……っ」


我に返った哀は、慌てて左右の巨大な手へ視線を向ける。


その瞳が大きく見開かれた。


「崩れて……」


巨大な手が、音もなく崩れ始めていた。


人の顔が。


腕が。


脚が。


手を形作っていた無数の部位が、剥がれ落ちるように分離していく。


剥がれた部位は黒い霧へと姿を変え、そのまま空気へ溶けるように消えていった。


やがて巨大な手は、その形を保てなくなり、跡形もなく崩れ去る。


静寂だけが残った。


白依はその光景ではなく、ただ女を見つめていた。


「……言霊か」


女の顔には、いつの間にか笑みが戻っていた。


「そうです」


あまりにも自然に。


隠すこともなく、すんなりと認める。


その返答に、哀はさらに目を見開いた。


(言霊……それに……)


言霊を扱える人間は限りなく少ない。


そして、言霊といえば真っ先に思い浮かぶのは、御三家の一角――言祝家。


哀は思わず問いかける。


「あなたは……何者ですか?」


その問いに、女は「あ」と小さく声を漏らした。


「そういえば、まだ名乗っていませんでしたね」


申し訳なさそうに笑う。


そして白杖を軽く握り直し、静かに頭を下げた。


「僕は、悠吃といいます」


その時、悠吃の携帯電話が鳴った。


悠吃は小さく微笑む。


「ちょうどですね」


そう呟くと、白杖を軽くつき直した。


「では、僕はそろそろ帰ります」


白依と哀へ軽く会釈をし、そのまま歩き出す。


「僕は階段で降りますが、もうすぐエレベーターも使えるはずです」


振り返ることなく、穏やかな声だけが届く。


「あなた方は、そちらでお帰りください」


それだけを言い残し、悠吃は静かに去っていった。


白杖の音だけが、規則正しく響いていく。


――コツ。


――コツ。


やがてその音も遠ざかり、悠吃の姿は見えなくなった。


すると、悠吃の言葉どおりだった。


館内の照明が、一斉に灯る。


止まっていたエレベーターの表示灯にも明かりが戻り、機械音とともに再び動き始めた。


白依は悠吃が去っていった方向を見つめたまま、静かに口を開く。


「あの女は、目が見えていないのか」


「多分……そうだと思います」


哀はそう答えた。


だが、その声はどこか上の空だった。


頭の中では、先ほどからひとつの人物像だけが何度も浮かんでは消えている。


女。


言霊。


そして、盲目。


さらに――悠吃という名。


ここまで特徴が重なる人物を、哀は一人しか知らなかった。


九州・大分に本家を置く御三家。


言祝家。


その序列一位。


爆鳴・言祝 悠吃。


(どうしてここに……)


哀の胸に疑問が渦巻く。


(それになぜ、家名を名乗らなかったのか)


言祝家の者であることを隠す理由。


それとも、何か別の意図があるのか。


答えは分からない。


そして、もう一つ。


哀の視線が隣に立つ白依へ向く。


(このことを今……)


小さく唇を噛む。


(白依様に、お伝えすべきなのか……)


考え込んでいた哀の意識を、不意に白依の声が引き戻した。


「哀」


「っ」


次の瞬間、軽く腕を引かれる。


そこでようやく、哀は自分が立ち止まったままだったことに気付いた。


「す、すみません!」


慌てて頭を下げる。


白依はそんな哀を見つめる。


「具合が悪いのか?」


白依の静かな問いに、哀は顔を上げた。


「い、いえ!大丈夫です!」


慌てて首を横に振る。


「少し考え込んでしまっただけです」


その言葉を聞いた白依は、特に深く追及することはなかった。


「なら、戻るぞ」


ただそれだけを告げると、踵を返し、エレベーターへ向かって歩き出した。


哀は小さく息を吐き、その背中を追った。


歩きながらも、哀の頭の中では様々な思いが巡っていた。


鍛錬を積んだ。


それでも、いざという時には何もできなかった。


結局、また守られるだけだった。


そして――言祝悠吃。


しかし、考えても、考えても。


答えは最後まで何も出なかった。

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