第59話 出発
哀はベッドの上で坐禅を組んでいた。
目を閉じ、呼吸はゆっくりと、深く。
その流れを乱さないよう、一つひとつ意識する。
指先、手首、腕、肩、全身へと意識を巡らせる。
髪の一本に至るまで、自分の身体を感じ取るように。
静かな時間だけが流れていく。
やがて、哀はゆっくりと目を開いた。
「……全然、眠れなかった」
ぽつりと零す。
その目の下には、うっすらと隈が残っていた。
昨日は結局、何度目を閉じても眠れなかった。
明日のこと。
白依との約束。
そして、確かに掴んだ霊力の感覚。
考えれば考えるほど目が冴え、気づけば朝になっていた。
「でも……」
哀は、自分の両手へ視線を落とす。
そっと手を握り、ゆっくりと開く。
身体の内側へ意識を向ける。
まだ曖昧ではある。
けれど、昨日までとは違う。
そこには確かに、自分の中を流れる何かがあった。
「だいぶ分かってきた」
その言葉とともに、哀の表情には少しだけ自信が浮かんでいた。
しかし、その表情はすぐに曇った。
「焔羅……」
哀は小さく呟き、部屋を見渡した。
いつもなら、焔羅は哀の足元で丸くなって眠っている。
朝になれば、一番に「おはよう」と声をかけてくれる。
けれど今日は違った。
昨日、一階で別れてから部屋へ戻ってきていない。
焔羅は誰よりも白依を慕っている。
それでも、自ら身を引いた。
そのことを思うと、複雑な気持ちになった。
哀は枕元に置いていた携帯を手に取り、時刻を確認した。
画面に表示された時間を見て、小さく息を吐く。
「顔洗って、ゆっくり支度しようかな」
そう呟くと、ベッドから降りて部屋を後にした。
身支度を済ませ、一階へ降りる。
店内はまだ静かだった。
ソファには蘭丸が腰掛け、ゆっくりと煙草を燻らせている。
煙が細く立ち上り、静けさの中に溶けていった。
蘭丸は哀の姿に気づくと、ふっと笑みを浮かべる。
「おはよう、哀ちゃん」
「おはようございます」
哀もぺこりと頭を下げた。
蘭丸は煙を吐きながら、どこか楽しそうに哀を見る。
「良かったわね」
「え?」
「昨日、ちゃんと誘えたんでしょ?」
その言葉に、哀の頬が少し赤くなる。
「は、はい……」
その反応だけで十分だった。
蘭丸はくすりと笑う。
「もう出るの?」
「いえ」
哀は首を横に振った。
「お昼前くらいに出られたらとは思っているのですが……」
少しだけ視線を逸らす。
「白依様次第ですね」
蘭丸は肩を竦める。
「それくらい、言ったらいいのに」
「いいんです」
哀は優しく微笑んだ。
「私が白依様に合わせたいだけですから」
その返答に、蘭丸は思わず額へ手を当てる。
「全く……」
呆れたように笑う。
「あなたたちは本当に……」
言葉の続きを飲み込みながら、煙草を灰皿へ押し付けた。
その表情は、どこか微笑ましいものを見るような優しい笑みだった。
その時、階段から足音が聞こえた。
白依も一階へ降り、一瞬だけ蘭丸の足元へ視線を向けた。
「し、白依様。おはようございます」
哀は少し緊張した声で挨拶をする。
「お早いですね」
それに白依は少し首を傾げた。
「お前が明るいうちに出ると言ったんだろ」
「あ……そ、そうですね」
哀は思わず苦笑いを浮かべる。
そんなぎこちない二人のやり取りを聞いていた蘭丸が、くすりと笑った。
「お互い準備終わったなら、もう出れば?」
その言葉に、哀は白依を見る。
「えっと、白依様はもう……」
「出れるぞ」
短い返事。
「では、行きましょうか」
「ああ」
二人は並んで歩き出す。
裏口の扉が開き、朝の光が店内へ差し込んだ。
そして、そのまま二人は外へ出ていく。
扉が静かに閉まる。
店内には蘭丸だけが残ったように思えた。
「焔羅ちゃん」
蘭丸がソファにもたれながら声をかける。
「もう出てきたら?」
すると、ソファの影からもぞもぞと焔羅が姿を現した。
「……うむ」
どこか気まずそうに耳を伏せている。
蘭丸は思わず吹き出した。
「わざわざ隠れる必要なくない?多分、白依ちゃん気づいてたし」
「う、うむ……」
焔羅は頬を掻き、小さく頷いた。
「今日は、我のことを気にせず行ってほしいのだ」
その声には、少しだけ寂しさが滲んでいた。
それでも、その表情に後悔はない。
蘭丸はそんな焔羅を見つめ、ふっと微笑んだ。
「あの子たちも、あなたも不器用過ぎね……」
呆れたような口調だった。
けれど、その声音はどこまでも優しかった。
互いを思うからこそ、遠慮してしまう。
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白依と哀は、店の裏手に停められた車へ乗り込んだ。
哀は足早に助手席へ回り、ドアを開けた。
「どうぞ」
そう言って白依を促す。
白依は何も言わず車へ乗り込んだ。
それを確認すると、哀は慌ただしく運転席へ回り込み、そのまま席へ腰を下ろした。
扉が閉まり、車内は静かな空間に包まれた。
哀はシートベルトを締めながら、小さく笑う。
「なんだか、懐かしい感じがしますね」
ふと、そんな言葉が口をついた。
白依がちらりと哀を見る。
その視線に気づいた哀は、慌てて言葉を続けようとした。
「えっと、その……」
けれど、その前に白依が口を開く。
「そうだな」
思いがけない返答だった。
短い一言。
それだけなのに、どこか柔らかい響きがあった。
哀は思わず目を瞬かせる。
(今の声……)
初めて聞いたような声音だった。
怒っているわけでも、呆れているわけでもない。
ただ穏やかで、少しだけ懐かしむような声。
哀はそっと横目で白依を見る。
そこには、いつもと変わらない無表情がある。
それでも、先ほどの声だけは確かに違っていた。
哀は自然と頬を緩める。
そして、キーを回した。
エンジン音が静かに響く。
姿勢を正し、ハンドルを握る。
「では、出発します」
「ああ」
短いやり取りを交わし、車はゆっくりと走り出した。
賑わう名古屋の街並みを抜け、二人を乗せた車は穏やかに道を進んでいく。
しばらく車を走らせると、街の喧騒は次第に遠ざかっていった。
高い建物は減り、窓の外には穏やかな景色が広がる。
白依は静かに窓の外を眺めていた。
いつもなら、ここで焔羅が何かを話し始める。
その賑やかさがない。
白依と二人きり。
そして、この静かな沈黙。
哀には、その静けさが少しだけ落ち着かなかった。
意を決して口を開く。
「えっと……今日はありがとうございます」
白依は窓から視線を外し、哀を見た。
その視線だけで、哀の身体はぴくりと反応してしまう。
「なにがだ?」
「いえ、その……」
哀は少し照れたように笑う。
「私との時間を作ってくださって」
白依は少しだけ目を伏せる。
「別に、誰のためとかはない。ただ……」
そこまで言って、言葉が止まる。
静かな沈黙が車内を包んだ。
哀はその続きを待ったが、白依は何も言わなかった。
空気が重くなる前に、哀は慌てて笑顔を作る。
「あ、あの!」
少し明るい声で話題を変えた。
「今日は、白依様が少しでも懐かしい気持ちになれるような場所を選んでみたんです」
ハンドルを握りながら、小さく笑う。
「なので、楽しみにしていてください」
その言葉に、白依は何かを言いかけるように口を開く。
けれど結局、その言葉は飲み込み、再び窓の外へ視線を向けた。
「……そうか」
短い返事。
それだけだった。
そこから再び会話は途切れた。
けれど、不思議と居心地の悪い沈黙ではなかった。
車や人の数が、徐々に増えてきた。
目的地が近づいているのだろう。
哀は周囲を確認しながら口を開く。
「この近くで車を停めます」
そう言って近くの駐車場へ車を入れ、静かにエンジンを切った。
「少々お待ちください」
哀はそう言い残すと、慌ただしく車を降りる。
そのまま後方のトランクを開け、ごそごそと何かを探し始めた。
白依は助手席に座ったまま、その様子をバックミラー越しに黙って見ていた。
やがて、助手席側のドアが開いた。
そこには、どこか得意げな表情を浮かべた哀が立っていた。
両手には、大きな麦わら帽子。
サングラス。
そして、一本の日傘。
「日光対策です!」
哀は満面の笑みで差し出す。
「ぜひ!」
白依はしばらくその三点を見つめた。
それから、哀を見る。
「いらん」
「……え」
哀の笑顔が固まる。
「で、でも……」
白依は何も答えず車から降り、空を見上げた。
雲の切れ間から、柔らかな陽光が降り注いでいる。
以前なら、それだけで皮膚が痛み、目を開けていられなかった。
だが――。
「……」
何もない。
眩しさはある。
けれど、それだけだった。
少し前から。
正確には、鷹宮櫻佳との戦い以降。
白依の身体には、少しずつ変化が現れていた。
その一つが、この日光への耐性だった。
哀はそんな白依を、不安そうな表情で見つめている。
「本当に……大丈夫なんですか?」
その声には、心配が滲んでいた。
「ああ。それで、どこへ行くんだ」
白依が空から視線を戻し、哀へ尋ねた。
哀は我に返ったように頷くと、手に持っていた麦わら帽子や日傘を急いでトランクへ戻した。
「少し歩いたところです!」
トランクを閉め、笑顔で振り返る。
「行きましょう!」
「ああ」
二人は駐車場を後にした。
歩みを進めるにつれ、人の数が徐々に増えていく。
様々な人が行き交い、賑やかな声が辺りに響いていた。
哀は人波を避けながら歩くが、次々と押し寄せる人に思うように進めない。
「す、すみません……」
何度も小さく謝りながら前へ進む。
その時だった。
白依の手へ、小さな温もりが触れた。
「あ、こちらです!」
目的の道を見つけた哀が、咄嗟に白依の手を取った。
哀は気づいていないのだろう。そのまま白依の手を引き、人混みを抜けていく。
白依は抵抗することなく、その後ろ姿を静かについていった。
やがて人波を抜けた。
哀が足を止め、振り返る。
「着きました!」
その言葉に白依は前を向く。
そして、目の前に広がる光景を見て、わずかに目を見開いた。
目の前には、整えられた石畳の道がまっすぐ伸びていた。
道の脇には白い砂利が敷き詰められ、その先には趣ある平屋が軒を連ねている。
等間隔に植えられた松や桜の木々が風に揺れ、穏やかな空気を運んでいた。
喧騒に包まれていた街並みとはまるで別世界。
時間だけがゆっくり流れているような場所だった。
「ここは、昔ながらの街並みを残しているんです」
哀が嬉しそうに微笑む。
白依は静かに辺りを見渡していた。
「平安時代とまではいきませんが……」
哀は少しだけ照れたように頬をかく。
「ここなら、少しは懐かしい気持ちになれるかなって……」
そう言って、白依の様子を窺うように見上げた。
実際、白依は千年前に生きていたとはいえ、その頃の世界を広く知っているわけではない。
白依の知る景色は、生まれ育った村と、じじいが暮らしていたあの山。
それが世界の全てだった。
だから、この街並みが当時のそのままだとしても白依には分からない。
それでも――。
白依の胸の奥には、じんわりと温かなものが滲んでいた。
それはきっと、この場所が昔ながらの景色を残しているからではないのだろう。
まるで、未だに触れている哀の手の温もりが、胸の奥で静かに広がり続けているようだった。




