第58話 想い
「哀殿。その、鬼屠士?の時雨とはなんだ?」
焔羅が不思議そうに首を傾げた。
哀は少し考え、言葉を選ぶ。
「えっと……大正・帝都三大災事って知ってる?」
焔羅は素直に首を横に振った。
「知らぬな」
哀は静かに話し始めた。
「大正時代に関東大震災が起きたの。その時の帝都でも甚大な被害が出て、十数万もの命が亡くなった」
焔羅は何も言わず、耳を立てて聞いている。
「表向きは、大きな自然災害として歴史に残ってる」
「表向き?」
焔羅が首を傾げる。
「そう」
哀は小さく頷いた。
「その歴史の裏には、怪異の存在があったの」
焔羅は思わず息を呑み、続きを待った。
「地震そのものは、確かにただの自然災害だった」
哀はゆっくりと言葉を続ける。
「でも、その影響で各地の地脈が裂けたの」
「地脈が……」
「その裂け目から、推定零災位相当の怪異が帝都の北、西、東に一体ずつ現れた」
「さ、三体も……」
焔羅の声が震える。
零災位。
その言葉がどれほど異常なのか、焔羅にも理解できるようになっていた。
「各地へは、大勢の高災位保持者が部隊を組んで鎮圧へ向かった」
哀の表情が少し曇る。
「でも、東へ向かった部隊は怪異に敗れて……全滅したの」
室内が静まり返る。
「その時に現れたのが、時雨宗一郎さん」
哀は先ほど宗一郎と目が合った時のことを思い出す。
あの静かな眼差し。
長い年月を生き抜いてきた者だけが持つ重み。
「高災位保持者の部隊でも敵わなかった怪異を、たった一人で討った」
焔羅は思わず目を見開く。
「一人で……?」
「うん」
哀は頷いた。
「その怪異の名は、楼屍鬼」
その名を口にするだけで、空気が少し重くなるようだった。
「楼屍鬼を討ち果たしたことから、時雨宗一郎さんは『鬼屠士の時雨』と呼ばれるようになったの」
焔羅はしばらく言葉を失っていた。
やがて、小さく呟く。
「そんな者が……」
哀も静かに頷く。
「まさか、まだ存命だったなんて……私も驚いた」
話に区切りがつき、蘭丸が感心したように哀へ声をかけた。
「感心ね。よく勉強してるわ」
それに哀は少し視線を落とす。
「いえ……」
小さく首を横に振った。
「私には、知識くらいしか身につけられるものがなかったので……」
その言葉は、どこか自分を卑下しているようにも聞こえた。
蘭丸は困ったように眉を下げる。
哀が、今までどんな扱いを受けてきたのか。
詳しくは知らない。
それでも、これまでの事や、今の一言だけで十分伝わってきた。
だが、哀はすぐに表情を和らげる。
「でも、今は」
少しだけ笑みを浮かべた。
「岩倉さんや栖原さん、夜桜の皆さんのお陰で、色んなことを知って、身につけていけるので……感謝してます」
その言葉が終わると同時に、背後から豪快な声が響いた。
「おう!ならよかったぜ!」
哀が振り返る。
階段を上がってきたのは、岩倉と栖原だった。
岩倉は相変わらず大きく笑っている。
栖原はそんな岩倉を見て、小さくため息をついていた。
哀は少し照れたように頭を下げる。
「ありがとうございます」
「礼なんていらねぇよ」
岩倉は照れ隠しなのか頭を掻きながら笑う。
「少しでも目標に近づくってのは嬉しいもんだよな!」
その言葉に、哀は力強く頷いた。
「はい」
その光景を見ていた蘭丸の口元は、自然と少し緩んでいた。
少し前まで、自分には何もないと言っていた少女。
その少女が今は、誰かへ感謝を伝え、自分から前を向こうとしている。
その変化が、蘭丸には少しだけ嬉しかった。
そこで蘭丸は、何かを思いついたように手を叩いた。
「そうだわ!」
その声に、その場にいた全員の視線が集まる。
蘭丸は哀を見て、にこりと笑った。
「ここ最近、哀ちゃんたちも白依ちゃんも頑張りっぱなしだし、少しお出かけしてきたら?」
「え?」
突然の提案に、哀は目を瞬かせる。
「いい息抜きになると思うの」
蘭丸は少しだけ真面目な表情になった。
「特に、白依ちゃんにとってね」
哀はその言葉を聞き、少し考え込む。
やがて、おずおずと口を開いた。
「でも、白依様にはお忙しそうですし……」
視線が自然と下がる。
「私はまだまだ鍛錬を積まないと……」
そんな哀へ声をかけたのは、栖原だった。
「ボスも言ってたでしょ」
腕を組みながら、穏やかに言う。
「息抜きも大切よ」
哀は返事に困り、隣にいる焔羅を見た。
焔羅は少しだけ目を伏せる。
何かを考えるように黙り込んだあと、真っ直ぐ哀を見た。
「哀殿!」
「う、うん」
「主と二人で行くといい!」
「え?」
思わぬ返答に、哀は驚く。
「焔羅は?」
「すまぬが、我は遠慮するぞ」
焔羅は首を横に振った。
「今は鍛錬を続けたい」
その言葉に、哀は少し困ったように笑う。
「なら私も……」
「哀殿」
焔羅が、その言葉を遮る。
「蘭丸殿も言っていたが、これは主のためでもあるのだ」
その表情は真剣だった。
「最近の主は、特に何を考えているのか読めない……主から流れてくる感情はぐちゃぐちゃだ」
焔羅は少しだけ寂しそうに耳を伏せる。
「だからこそ、今一番傍にいるべきなのは哀殿だと思う」
その言葉に、哀は何も返せなかった。
白依のことを思うと、胸が締め付けられる。
けれど、自分から誘っていいのか。
迷惑ではないのか。
そんな迷いが、まだ残っていた。
未だ決めきれない哀へ、蘭丸が優しく声をかける。
「多分、白依ちゃんはもうすぐ戻るわ」
蘭丸は笑みを浮かべた。
「戻ってきたら、哀ちゃんの部屋へ行かせるから」
その言葉に、哀は慌てて両手を振る。
「い、いえ!それなら私が出向きますので!」
「いいから、ね?」
蘭丸はやんわりと微笑む。
「それまで部屋で休んでなさい」
その穏やかな押しに、哀は観念したように小さく頷いた。
「……はい」
そう返事をすると、哀はぺこりと頭を下げ、そのまま二階への階段を上がっていった。
その背中を、蘭丸たちは静かに見送っていた。
蘭丸はカウンターから少し身を乗り出し、残っていた焔羅へ問いかけた。
「よかったの?」
焔羅が顔を上げる。
「あなたも一緒に行けばいいのに」
その言葉に、焔羅は少しだけ目を伏せた。
尻尾も、いつもより静かだった。
「ああ……」
小さく頷く。
「哀殿にも言ったが、今の主は哀殿と過ごすのがいいと思う……」
その声には、どこか寂しさが滲んでいた。
焔羅だって、本当は白依の傍にいたい。
一緒に出掛けたい。
けれど今は、それ以上に白依には哀が必要だと思っていた。
白依から流れてくる感情の中で、時折、暖かいものが混じる時がある。
その全ては、哀が傍にいる時だった。
だからこそ、今は自分が割って入るべきではない。
焔羅はそう考えていた。
蘭丸はその答えを聞くと、ゆっくりと身体を起こした。
「そう」
短い一言だった。
だが、その声には焔羅の想いを理解したような優しさが込められていた。
焔羅は何も言わず、小さく頷く。
その視線は、哀が上がっていった二階へと向けられていた。
そして、焔羅はくるりと振り返り、岩倉を見た。
「すまないが、もう少し付き合ってもらえるか?」
その目には、先ほどまでの迷いはなかった。
岩倉は歯を見せて笑う。
「ああ、構わねぇぜ」
その返事を聞いた焔羅の耳が、ぴくりと立った。
栖原はそんな二人を見て、小さく首を振る。
「まったく……」
呆れたようにため息を吐く。
だが、止めようとはしなかった。
焔羅が自分で考え、自分で決めたことだと分かったからだ。
「無茶はしないようにね」
それだけ言い残す。
「うむ!」
焔羅は元気よく返事をすると、岩倉と並んで地下への階段を下りていった。
二人の足音が、少しずつ遠ざかっていく。
栖原もまた、その場を後にする。
「私は裏で薬の整理でもしてくるわ」
そう言って店の奥へ消えていった。
静かになった店内には、蘭丸と呉代だけが残る。
蘭丸はカウンターへ肘をつき、小さく息を吐いた。
呉代はそんな蘭丸を見て、静かにグラスを磨き始める。
店内には、グラスを拭く柔らかな音だけが静かに響いていた。
しばらくして、店の裏口から白依が帰ってきた。
足音は静かだった。
依頼帰りとは思えないほど表情に変化はなく、そのまま店内へ入ってくる。
「白依ちゃん、おつかれさま」
蘭丸が、いつものようににこやかに声をかけた。
それに対し、白依は普段通り短く返す。
「ああ」
それだけ言うと、足を止めることなく二階への階段へ向かう。
「白依ちゃん」
蘭丸が呼び止めた。
白依は階段の手前で足を止め、半身だけ蘭丸へ向ける。
「なんだ。次の依頼か」
「違うわ。哀ちゃんの部屋に行きなさい」
あまりにも唐突な言葉だった。
白依はわずかに眉をひそめる。
「……なぜだ」
先ほどより少しだけ低い声で問い返す。
蘭丸は肩を竦め、にやりと笑った。
「いいから」
そして、人差し指を立てる。
「あと、明日は依頼おやすみね」
そう言って、軽くウインクをした。
白依は蘭丸をじっと見つめる。
何か企んでいる。
それだけは分かった。
だが、これ以上問答を続けても答えは返ってこないだろう。
そう判断すると、小さく息を吐いた。
「……そうか」
短く返事を残し、再び階段を上がっていく。
「あ、ちゃんと部屋に入る前にノックはしなさいねー」
返事のないその背中を見送りながら、蘭丸は満足そうに微笑んだ。
呉代はそんな蘭丸を見て、小さく笑う。
「どうなりますかね」
蘭丸は静かに頷いた。
「さあ、どうかしらね」
そう呟くと、二階へ続く階段へ優しい視線を向けた。
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哀はベッドに腰掛け、一人悶々としていた。
「蘭丸さんはああ言ってたけど……」
小さく呟く。
「やっぱり迷惑なんじゃ……」
勝手に独り言が零れていく。
白依を誘う。
ただ、それだけのこと。
前にも一度、白依と服を買いに出かけたことだってある。
なのに、どうしてこんなにも緊張するのだろう。
「そもそも、どう切り出したら……」
哀は頭を抱えた。
頭の中で、何度も会話を繰り返す。
『白依様、一緒にお出かけしませんか?』
――いや、今それは急すぎる。
『たまには息抜きでも……』
――そんなこと興味ないかも。
『蘭丸さんに言われたので……』
――それじゃ命令みたいだ。
考えれば考えるほど、どんどん迷走していく。
「うぅ……」
小さく唸りながら、ベッドへ倒れ込む。
そして最後には――。
『断る』
白依がいつもの無表情でそう言う姿を勝手に想像してしまう。
「うぅぅぅ……」
枕へ顔を埋め、恥ずかしさと不安で身をよじる。
そんなことを何度も繰り返していた、その時だった。
こんこん。
部屋の扉がノックされた。
「っ!」
哀の身体がびくりと跳ねる。
心臓が、一気に早鐘を打ち始めた。
(白依様だ!)
慌てて乱れたベッドを整え、髪を手で撫でつける。
深呼吸を一つしてから、扉を開けた。
目の前には、白依。
赤い瞳と視線が重なった瞬間、さっきまで一人で悶えていた自分を思い出し、頬が一気に熱くなる。
「……?」
白依は、そんな哀を少し訝しげに見ていた。
「あ、あの、とりあえずこちらにお座り下さい」
哀は慌てて部屋へ招き入れる。
白依をベッドへ座らせると、自分はその前の床へ正座しようとした。
すると。
「お前も、ここに座れ」
白依が、自分の隣へ視線を向けながら促す。
「い、いえ、私はここで……」
哀は、しどろもどろになりながら遠慮する。
白依は何も言わず、ただじっと哀を見つめた。
その視線に耐え切れなくなり、哀はおずおずとベッドへ腰掛ける。
白依との距離は、肩が触れそうなほど近い。
それだけで鼓動が早くなった。
「それで、一体なんだ」
白依が率直に問う。
哀は頭の中で考えていた言い回しを必死に探した。
遠回しに。
自然に。
迷惑にならないように。
けれど。
その瞬間、それらは全部頭から消えてしまった。
「白依様」
哀は意を決して口を開く。
「明日、私とお出かけしませんか?」
言ってしまった。
気づけば、一番ストレートな言葉が口から出ていた。
白依は小さく息を吐く。
その反応に、哀の心臓がぎゅっと縮こまる。
「あ、あの!」
哀は慌てて両手を振った。
「白依様はお忙しそうですし、お疲れでしょうから!それに、お昼ですと陽の光もあまりよろしくないですよね!」
言葉が止まらない。
「なので、その……全然断っていただいて構わないのですが……」
ようやく話し終える。
部屋が静かになった。
白依は何も言わない。
やっぱり迷惑だった。
そう思った、その時。
白依は静かに立ち上がった。
「明日だな」
短く言う。
「構わん」
「……え?」
哀は目を丸くした。
白依はそれ以上何も言わない。
扉へ向かい、そのまま部屋を出ていく。
扉が閉まる音が響く。
一人残された哀は、しばらく固まったままだった。
「……え?」
もう一度、小さく呟く。
それから、じわじわと頬が緩んでいく。
「……夢かな」
その声は、誰にも聞こえないくらい小さかった。




