第57話 流れるもの
蘭丸は、普段の軽い調子で宗一郎へ問いかけた。
「まあいいわ。そういえば宗さんは、神の核って知ってる?」
その瞬間。
宗一郎の手が止まった。
グラスの中で氷を転がしていた指先が、ぴたりと動きを止める。
そして、静かに蘭丸の瞳を見つめた。
呉代は、その場の空気が変わったことに気づいた。
先ほどまでの懐かしむような穏やかさが、薄く削がれていく。
代わりに、言葉にできない重さがカウンターの上へ降りた。
「久世」
宗一郎が、低く呼ぶ。
「あまり、その話題を軽々しく振るものではないぞ」
その声は荒くない。
だが、確かな警告があった。
宗一郎は目を細める。
「それに、わしにカマかけは不要だ」
そう言って、グラスに口をつけた。
蘭丸は表情を崩さなかった。
いつもの笑みを薄く浮かべたまま、宗一郎を見返す。
「ごめんなさいね」
声だけは柔らかい。
「でも、今はその情報が必要なのよ」
宗一郎は答えない。
蘭丸は続けた。
「宗さんは、やっぱり知っているのね」
短い沈黙。
グラスの中で、氷が小さく鳴った。
やがて、宗一郎は静かに口を開く。
「神の核と言えば、千年前の“神伐討癸”のことだろう」
その言葉に、蘭丸の目がわずかに細まる。
「まあ、今では知っている者は少ないだろうがな」
宗一郎は淡々と言った。
だが、その声の奥には、遠い過去を知る者だけが持つ重みがあった。
蘭丸は静かに、その言葉を咀嚼する。
千年前。
それは、白依の情報にもあった。
白い童。
平安の時代。
もし宗一郎の言う“神伐討癸”が、その時の出来事を指すのなら。
そこに、今求めている情報があるかもしれない。
蘭丸はカウンターに置いた指先を、わずかに動かした。
「……神伐討癸」
その名を、確かめるように呟いた。
——————————————————
哀は目を閉じ、自身の中にあるであろう霊力を探した。
黒守環が発動した時の感覚。
左手から何かが抜けていくような、あの感覚。
(どこ……一体どこに……)
気持ちだけが焦っていく。
焦れば焦るほど、意識は散らばり、掴めそうだったものが遠のいていく気がした。
哀は一度、目を開け、隣にいる焔羅を見た。
焔羅もまた、哀と同じように目を閉じていた。
普段はゆらゆらと揺れている青紫色の炎が、今は妙に落ち着いている。
呼吸も静かだ。
小さな身体の内側に意識を向け、真剣に妖力を巡らせようとしているのが分かった。
「おお」
岩倉が感心したように声を漏らす。
「ワンコ、なかなか飲み込みが早ぇな」
その声に、焔羅がゆっくりと目を開けた。
「ふぅ……」
息を吐く。
少し息切れしているようだった。
「これは、炎を出すより疲れるし難しいぞ」
焔羅は自分の前足を見下ろす。
「この状態で動くのは……」
「まあ、慣れるまではしんどいだろうな」
岩倉は頷く。
「だが、慣れればさっきの露乃みたいに動ける。息ひとつ乱さず、汗ひとつかかねぇくらいにな」
それを聞いた焔羅の目が、少し輝いた。
「おお……!」
そして、すぐにまた目を閉じる。
先ほどよりも気合いの入った顔で、再び集中し始めた。
哀はその会話を聞きながら、胸の奥へ押し寄せる不安を感じずにはいられなかった。
焔羅は進んでいる。
少しずつでも、既に掴みかけている。
なのに自分は。
また、分からないまま立ち止まっている。
また、できないまま置いていかれる。
そんな考えが頭をよぎる。
無力感が、胸の奥に重く沈んだ。
それでも、哀は拳を握った。
駄目だ。
そこで止まってはいけない。
できないと決めつけてはいけない。
哀はもう一度、目を閉じた。
あの時の感覚。
自分の中から流れ出たもの。
消費されたもの。
それは確かにあった。
ならば、探せるはずだ。
掴めるはずだ。
哀は浅くなりかけた呼吸を整え、意識を左手へ向ける。
焦るな。
怖がるな。
止まるな。
自分にそう言い聞かせながら、哀は再び集中を深めていった。
岩倉は、目を閉じて集中する哀を少し見つめた。
それから、木箱に座る栖原へ顔を寄せる。
「おい、露乃」
小声だった。
だが、それに対して栖原は、とてつもなく怪訝な顔を向けた。
「なによ。急に囁いてこないでよ、気持ち悪い」
「いや、ひでぇな」
岩倉は思わず顔をしかめる。
「じゃなくて」
すぐに表情を戻し、哀の方へ視線を向けた。
「このままだと、嬢ちゃんが進まねぇ」
栖原も哀を見る。
哀は目を閉じたまま、必死に何かを探っていた。
だが、その表情は硬い。
呼吸も少し浅くなっている。
集中しているというより、焦りに呑まれかけているようにも見えた。
岩倉は小さく息を吐く。
「手を貸してやったらどうだ?」
栖原はすぐには答えなかった。
ただ、目を閉じている哀を見つめる。
白依の傍にいるために強くなりたいと願う子。
けれど、今はまだ自分の中にあるものすらうまく掴めずにいる子。
栖原は軽く腕を組む。
「……手を貸すって言っても、霊力の感覚は本人が掴まないと意味がないわよ」
「そこをなんとかしちまうのが、''元''祓医部隊長の腕ってやつじゃねぇの?」
「調子のいいこと言って」
栖原は呆れたように返した。
けれど、完全に拒むつもりはないらしい。
「分かったわ」
岩倉がにやりと笑う。
「助かる」
「勘違いしないで。ただ焦れったいだけだから」
「分かってるって」
栖原は岩倉の横を通り過ぎ、哀の前へ歩いていく。
哀はまだ目を閉じたまま、栖原に気づいていない。
眉間に力が入り、両手は固く握られている。
栖原はその様子を見て、小さく息を吐いた。
今の哀に必要なのは、無理に霊力を探させることではない。
すでに霊力が流れている瞬間を、自覚させること。
(少し強引だけど許してね)
栖原はそのまま、腰を少し落とした。
右の拳を軽く握る。
そこへ、必要最低限の霊力を集める。
空気が僅かに張り詰めた。
次の瞬間。
栖原の拳が、哀へ向けて放たれた。
「っ――」
咄嗟の出来事に、哀の身体が跳ねる。
逃げることも、避けることもできない。
だが、拳が哀に触れる直前。
左手の《黒守環》が、淡く反応した。
見えない膜のようなものが哀を包み、栖原の拳を受け止める。
「そのまま目を閉じて集中しなさい」
栖原の声が響いた。
「今、その《黒守環》にあなたの霊力が流れているはずよ」
哀は、はっとする。
言われるがまま、目を閉じた。
恐怖に意識を向けるのではなく。
拳に怯えるのではなく。
左手へ。
黒守環へ。
そこへ流れているものへ。
集中する。
すると、じんわりとした感覚があった。
熱いような。
冷たいような。
不思議な感覚。
それは身体の奥から滲み出し、肩へ、腕へ、手首へ、指へと流れていく。
そして、黒守環へ注がれていた。
(あった……これが私の……)
哀の胸の奥で、何かが弾ける。
今まで掴めなかったもの。
分からないと思い込んでいたもの。
それが、確かに自分の中にあった。
そう思った瞬間、その感覚が少しずつ輪郭を持ち始める。
ぼんやりとした霧ではなく。
確かに流れるものとして。
自分の内側にある力として。
哀はゆっくりと目を開けた。
目の前には、拳を突き出したままの栖原がいる。
二人の目が合った。
栖原は哀の表情を見て、わずかに口元を緩める。
「上手くいったようね」
そう言って、栖原は拳を下ろした。
哀は自分の左手を見る。
黒守環は、まだ微かな熱を帯びている。
その奥で、自分の霊力が静かに揺れているのを感じた。
「……私の霊力……確かに感じました」
掠れたような声で、哀は呟いた。
栖原は、静かに頷いた。
「その感覚を忘れないうちに続けなさい」
その声に、哀は顔を上げた。
「は、はい!」
返事には、先ほどまでとは違う力があった。
哀は先程の感覚を逃さないよう、ゆっくりと呼吸を整え、目を閉じた。
栖原はその様子を見届けると、岩倉の傍へ戻る。
岩倉は少し感心したように腕を組んでいた。
「さすがだが、思ったより力技だな」
「……あんたに言われたくないわよ」
栖原が半眼で返す。
岩倉は一瞬きょとんとしたあと、豪快に笑った。
「違ぇねぇ!」
「笑ってんじゃないわよ」
栖原は小さくため息を吐く。
だが、その目はどこか柔らかかった。
哀が、ようやく自分の力を掴み始めた。
その事実に、少しだけ安堵しているようにも見えた。
それから少しして、哀と焔羅に疲れが見え始めた。
哀は全身に汗をかいている。
額に張りついた髪を拭う余裕もなく、肩で息をしていた。
焔羅もまた、息が上がっている。
普段は揺らめいている青紫色の炎も、今はどこか弱々しく揺れていた。
それを見て、岩倉が手を叩く。
「よし!今日はこれくらいにしとくぞ!」
その声に、哀はほっと息を吐いた。
焔羅もその場に座り込み、大きく息を吐く。
「霊力や妖力を感じるのは、基礎の基礎だ」
岩倉は二人を見下ろしながら言った。
「今日はその感覚を掴んだはずだ」
哀は自分の左手を見た。
黒守環に流れた感覚。
身体の奥から腕へ、指先へと巡るもの。
まだ細く、頼りない。
けれど、確かに自分の中にあったもの。
焔羅も自分の前足を見下ろし、内側を確かめるように小さく息を整えていた。
「これからは鍛錬前にもやるが、日常生活でも意識してみろ」
岩倉は続ける。
「霊力も妖力も、常に流れているものだ。歩く時、物を持つ時、飯を食う時。何気ない動きの中で、自分の力がどう流れてるか感じるんだ」
哀は真剣な顔で頷く。
「はい!」
焔羅も胸を張った。
「分かったぞ!」
岩倉は満足げに歯を見せる。
「いい返事だ」
栖原は木箱に座ったまま、二人の様子を見て小さく息を吐いた。
「二人とも、終わったら水分を取ってしっかり休みなさい」
「はい」
「うむ!」
哀と焔羅の返事が重なる。
疲労はある。
身体は重い。
それでも、二人の表情には確かな充実があった。
昨日まで分からなかったものに、今日、少しだけ触れられた。
それだけで、前に進めた気がした。
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宗一郎はグラスを煽り、中身を飲み干した。
氷が、からりと音を立てる。
空になったグラスをカウンターへ置くと、宗一郎は静かに息を吐いた。
「わしが話せるのは、ここまでだ」
そう言って、席を立つ。
「あら、もう行くの?」
蘭丸が問う。
宗一郎は頷いた。
「ああ。要件は、ここに来る前に済ませた」
「要件?」
「ここには、ただ酒を飲みに来ただけだ」
「……そう」
蘭丸はそれ以上追及しなかった。
宗一郎もまた、詳しく語るつもりはないようだった。
だが、扉へ向かう前に、宗一郎は一度だけ足を止める。
「久世」
低い声で名を呼ぶ。
「一つ、これは忠告だ」
蘭丸の表情から、軽さが消えた。
「ここから先へは覚悟しろ」
宗一郎は静かに言う。
「影響を受けるのは、お前だけではない。むしろ周りの者かもしれないぞ」
そう言って、宗一郎は一瞬だけ呉代へ視線を向けた。
呉代の身体が、わずかに強張る。
蘭丸は何も言わなかった。
ただ、宗一郎の言葉を受け止めるように、静かに見つめていた。
宗一郎はそれ以上何も言わず、扉へ向かう。
木製の扉に手をかけた、その時だった。
階段の方から、足音が聞こえた。
地下から上がってきた哀と焔羅だった。
「ふぅ……疲れたね」
「うむ。だが、今日はかなり成長した気がするぞ!」
そんな会話をしながら上がってきた二人が、店内の空気に気づいて足を止める。
そして、哀と宗一郎の目が合った。
哀は、理由も分からず背筋が伸びた。
目の前の老人が何者かは知らない。
だが、その視線には不思議な重みがあった。
睨まれているわけではない。
値踏みされているわけでもない。
ただ、真っ直ぐに見られている。
それだけで、自然と姿勢を正してしまうような何かがあった。
宗一郎は静かに哀を見つめた。
そして、わずかに目を細める。
「……いい目だ」
「……え?」
哀が戸惑いの声を漏らす。
宗一郎は小さく首を振った。
「なんでもない」
それだけ言って、扉を開ける。
「では、また来る」
低い声を残し、宗一郎は夜桜を後にした。
扉が閉まる。
その音が消えたあとも、店内にはしばらく、老人の残した重い気配だけが残っていた。
哀は、宗一郎が出ていった扉を見つめていた。
そして、遠慮がちに蘭丸へ問いかける。
「あの、先ほどの方は?」
蘭丸は、宗一郎の置いたグラスを片付けながら口を開いた。
「彼は時雨宗一郎。長年、この世界の修羅場をくぐり抜けてきた人よ」
哀は、呟くように零した。
「時雨って……」
その声には、わずかな緊張が混じっている。
「まさか、あの“三大災事”の……」
蘭丸は、それを否定しなかった。
むしろ、静かに頷く。
「知っていたのね」
哀の喉が、小さく鳴る。
蘭丸は拭いていたグラスを棚へ戻した。
「そう、彼が“鬼屠士の時雨”よ」




