第56話 こんな感じ
ネオンが煌めく繁華街。
賑わう人々の声に、どこからか流れてくる音色。
その喧騒の中を、かつ、かつ、と下駄を鳴らして歩く一人の老人がいた。
ある者は足を止める。
ある者は、すれ違ったあとで思わず振り返る。
白に染まった髪と髭。
場にも、時代にもそぐわない袴姿。
そして、老人とは思えないほど鍛え上げられた体躯。
顔には深い皺が刻まれている。
だが、それ以上に目を引くのは、左目を走る大きな傷跡だった。
しかし、人々が視線を向ける理由は、その外見だけではない。
老人の纏う雰囲気。
それが、道行く者たちの本能的な警戒を強めていた。
目を合わせてはいけない。
関わってはいけない。
そう思わせる何かが、確かにあった。
老人はそのまま、繁華街の路地へと入っていった。
表通りの喧騒が、背後へ遠ざかる。
路地の先にあるのは、木製の扉と控えめな看板。
派手なネオンの並ぶ街中にあって、その店だけはどこかひっそりと息を潜めているようだった。
老人はおもむろに扉へ手をかける。
そして、迷いなく開いた。
「いらっしゃ――」
カウンターの中に立っていた蘭丸が、途中で言葉を止める。
すぐに、口元へ笑みを浮かべた。
「あら、宗さん。お久しぶりね」
カウンターには蘭丸と呉代がいた。
呉代は老人の姿を見るなり、わずかに背筋を伸ばす。
老人は何も言わず、蘭丸の正面のカウンター席へ腰を下ろした。
「いつものでいいの?」
蘭丸が聞く。
「ああ、頼もうか」
低く、落ち着いた声だった。
蘭丸は隣の呉代へ視線を向ける。
「呉代ちゃん、分かる?」
「は、はい」
呉代は少し緊張した様子で頷き、すぐに飲み物の準備を始めた。
老人は、その手元を静かに見つめる。
しばらくして、ふと口を開いた。
「大きくなったな」
その言葉に、呉代の手が一瞬だけ止まる。
蘭丸は小さく笑みを浮かべた。
「なに、じじくさいこと言ってるのよ」
老人もまた、わずかに目元を緩める。
「はは」
深く刻まれた皺が、柔らかく動いた。
「わしは立派なじじいだよ」
呉代が、老人の前にグラスを置いた。
「宗一郎さん、お久しぶりです。どうぞ」
「ありがとう」
宗一郎は短く礼を言い、グラスを手に取る。
そして、ゆっくりと中身を煽った。
氷が、からりと小さく鳴る。
「それで」
蘭丸がカウンター越しに宗一郎を見た。
「今日はどうしたのかしら?」
その問いに、宗一郎は少しだけ含みを持たせたように目を細める。
「ただ、久しぶりに顔を見せにな」
「こんなタイミングでね……」
蘭丸の声には、探るような響きがあった。
宗一郎はとぼけるように肩を揺らす。
「一体、なんのことだか」
そう言って、ふと床へ視線を落とした。
「何やら、下が騒がしいね」
蘭丸は少し肩を竦める。
「若い子たちが頑張ってるのよ」
その言葉に、宗一郎はわずかに口元を緩めた。
「そうかい」
それだけを言う。
それ以上、深く聞くことはなかった。
ただ、グラスを片手に、床の下から伝わるかすかな振動へ耳を澄ませるように、静かに目を伏せていた。
その時、地下では哀と焔羅が今日も訓練をしていた。
あれから数日が経ち、訓練の内容も実践的なものへ移っている。
部屋の中央には、哀と焔羅。
その周囲を、岩倉が駆けていた。
巨体からは想像できない速さだった。
床を蹴る音が重く響く。
だが、その動きは鈍くない。
むしろ、速い。
大きな身体が死角へ滑り込み、視線の端から消える。
哀は呼吸を整えながら、その気配を追った。
見失ってはいけない。
焦ってはいけない。
怖がって止まってはいけない。
岩倉の足運び。
肩の動き。
指先の角度。
そのすべてを拾おうと、哀は目を凝らす。
そして、僅かに視線が外れた隙をついて、クナイが飛んだ。
「右!」
哀の声が響く。
その声に合わせて、焔羅が即座に動いた。
青紫色の炎が揺らめき、哀の指示した方向に盾のように広がる。
次の瞬間、クナイが炎に弾かれ、床へ落ちた。
硬質な音が、地下室に響く。
岩倉が足を止めた。
「今のはなかなか良かったぞ!」
大きな声が部屋に響く。
「声も随分出るようになったし、わんこも炎のコントロールが良くなったな!」
歯を見せて笑う岩倉の言葉に、哀は焔羅と顔を合わせた。
焔羅の尻尾が、嬉しそうに揺れている。
哀の頬も、自然と緩んだ。
まだ怖い。
まだ身体が強張り、まともに動くことは出来ていない。
それでも、声は出た。
焔羅に届いた。
そして、焔羅はその声を信じて動いてくれた。
それが、哀には何より嬉しかった。
岩倉は、地面に落ちたクナイを拾い上げた。
それを手の中で軽く弄びながら、哀と焔羅へ歩み寄る。
「よし、形はできた。これからはもっと本格的な訓練を始めるか」
そう言って、岩倉は壁際に置かれた木箱へ視線を向けた。
そこには、栖原が腰掛けている。
「もう身体は完治したんだろ?」
訓練初日の一件から、栖原は毎回この場に顔を出すようになっていた。
監視。
本人はそう言わないが、岩倉も哀も焔羅も、それが目的だと分かっている。
栖原は木箱から降りると、哀の方へ歩いてきた。
「確認するわ」
「はい」
哀は素直に頷く。
栖原は哀の袖をまくり、以前痣があった箇所を見る。
指先で軽く触れ、反応を確かめる。
続けて肩、腕、脇腹、背中。
傷や腫れの残っていた場所を、ひとつずつ丁寧に見ていった。
最後に、哀の目を見る。
顔色。
呼吸。
力の入り方。
それらを確認してから、栖原は小さく頷いた。
「もう大丈夫そうね」
そう言って、哀に微笑みかける。
哀は少し驚いたように目を瞬かせたあと、深く頭を下げた。
「あの、ありがとうございました」
「ふふ、いいのよ」
栖原の声が少し柔らかくなる。
「でも、完治したからって無茶は駄目よ。分かった?」
哀は顔を上げ、しっかりと返事をした。
「はい」
「よろしい」
栖原は満足げに頷く。
そして、今度は岩倉へ視線を向けた。
「豪」
「お、おう」
「無茶は駄目よ」
まるで念を押すような声だった。
岩倉は頬を引きつらせながら、頭を掻く。
「分かってるって」
「本当に?」
「本当だって」
栖原はしばらく岩倉を睨んでいたが、やがて小さくため息を吐いた。
そして、再び木箱へ戻り、腰を下ろす。
「あ、監視は続くのか……」
岩倉がぽつりと零す。
その声に、哀は思わず苦笑いを浮かべた。
焔羅も小さく尻尾を揺らす。
「栖原殿が見ているなら安心だな!」
「お前はどっちの味方だよ、ワンコ」
岩倉がぼやく。
「哀殿の味方だ!」
焔羅は即答した。
岩倉は一瞬だけ目を丸くし、それから豪快に笑った。
「そりゃいい答えだ!」
地下室に、少しだけ和らいだ空気が流れる。
だが、岩倉の目はすぐに真剣なものへ戻った。
「じゃあ、始めるぞ」
哀と焔羅の表情も引き締まる。
ようやく、本当の意味での訓練が始まろうとしていた。
「俺たちのような、霊や妖、怪異と戦う人間は災位保持者と呼ばれている」
岩倉は、哀と焔羅を前にして言った。
「そうなれる人間には、災位の高低を問わず必要な要素が二つある」
そう言って、岩倉は指を二本立てる。
「ひとつは、大前提として霊や妖が見える目を持つこと」
岩倉の視線が、哀へ向く。
「これはクリアしてる」
哀は小さく頷いた。
黒杖家の血筋。
それが幸か不幸かは別として、哀には視る目があった。
霊も、妖も、怪異も。
普通の人間には見えないものを見てしまう目。
「そして、もうひとつが霊力を操る能力だ」
哀はその言葉に、少しだけ表情を引き締めた。
ある程度の知識はある。
実家にいた頃にも、何度も聞かされてきた言葉だった。
けれど、焔羅はよく分かっていないようで、首を傾げる。
「我もか?我は霊力を持っていないぞ?」
「ああ、これは人間の話だからな」
岩倉は焔羅へ視線を移した。
「ワンコなら妖力か。お前が纏ってるその炎も、妖力を消費してるんだろ?」
そう言われ、焔羅は自分の身体を包む青紫色の炎を見る。
そして、素直に頷いた。
「うむ。たしかに、大きく出すと少し疲れる」
「だろうな」
岩倉は頷き返す。
「人間が霊力を使って術や呪具を扱うように、妖は妖力を使って力を振るう。細かい理屈は違っても、根っこは似てる」
焔羅は真剣な顔で聞いている。
「つまり、我もそれを操れるようになればいいのか?」
「そういうことだ」
岩倉は歯を見せて笑った。
「力があるだけじゃ駄目だ。見えるだけでも駄目だ。持っている力を、必要な時に、必要な分だけ、必要な形で使えるようにする」
岩倉の声が、地下室に低く響く。
「まずは基礎として、霊力、妖力を用いた身体能力の向上だな」
岩倉がそう言うと、哀の胸に薄くなっていた不安がまた過ぎった。
霊力の使用。
それは、哀が最も不得手としてきたものだった。
一方で、焔羅はいまいち理解しきれていないようだった。
「それはどうするのだ?」
焔羅の問いに、岩倉は再び木箱に座る栖原へ視線を向ける。
「露乃!ちょっと来てくれ!」
「なによ」
栖原は面倒そうにしながらも、木箱から降りて傍まで来た。
岩倉は哀と焔羅へ向き直る。
「今から実践するから見てろよ」
そう言って、今度は栖原に向き直った。
「露乃、本気でいいぞ」
「……いいの?」
栖原が目を細める。
「ああ。俺がやるより分かりやすいだろ?」
「ふーん」
栖原は短く返す。
その声音に、岩倉の顔がわずかに引きつった。
それでも、哀と焔羅を見る。
「露乃の霊力を感じ取ってみろ」
そう言う岩倉の額には、うっすらと汗が滲んでいた。
栖原は腰を落とし、岩倉の前で構える。
小柄な身体。
細い腕。
一見すれば、岩倉の巨体をどうにかできるようには見えない。
だが、その瞬間、哀と焔羅は空気が変わったのを感じた。
栖原の身体の内側で、何かが巡る。
静かに。
けれど、確かに。
「いくわよ?」
「おう……」
岩倉が腹に力を込める。
次の瞬間。
栖原が大きく踏み込んだ。
「はっ!」
鋭い掛け声とともに、右の拳が岩倉の腹へ叩き込まれる。
「ぐっ……!」
鈍い音が響いた。
だが、それだけでは終わらない。
栖原の拳は止まらず、そのまま振り抜かれた。
岩倉の巨体が、宙に浮く。
そして、壁まで吹き飛ばされた。
背中が壁に叩きつけられ、地下室全体がびりりと震える。
「……」
哀は目を見開いた。
焔羅は口をあんぐりと開けたまま固まっている。
小柄な栖原が。
あの岩倉を。
拳一つで吹き飛ばした。
栖原は拳を下ろし、何事もなかったように息を吐く。
「こんな感じ」
壁際でずるりと崩れかけた岩倉が、腹を押さえながら親指を立てた。
「な……?分かりやすいだろ……?」
声は少し震えていた。
岩倉は少しふらつきながら、哀と焔羅の前へ戻ってきた。
片手で腹を押さえ、もう片方の手をひらひらと振る。
「とまぁ、霊力を用いれば、小柄な露乃でもこんなもんだ」
「す、凄いな……まるで、主みたいだ」
焔羅が目を丸くしたまま呟く。
焔羅はその光景を見ながら、ふと旧鞍瀬療養所でのことを思い出した。
自分の炎や突進を受けた男。
主の拳を受けた女。
それでも即座に死ぬことはなかった者たち。
あの時は、ただ頑丈なのだと思っていた。
だが、違う。
霊力を身体に巡らせていたのだ。
「だから、あやつらは……」
焔羅が小さく呟く。
それに岩倉は片眉を上げた。
哀は言葉を失っていた。
あの岩倉の巨体を、栖原が拳ひとつで吹き飛ばした。
体格差など関係ない。
霊力の扱い方ひとつで、身体能力はあれほどまで変わる。
「嬢ちゃんは霊力を」
岩倉は哀を見る。
「ワンコは妖力を。炎にするんじゃなくて、身体に巡らせるんだ」
「なるほど」
焔羅はすぐに目を閉じた。
自分の内側にある妖力を探り、それを動かそうとしているらしい。
青紫色の炎が、ほんのわずかに揺れた。
だが、哀はその場で固まっていた。
拳を握る。
変わると決めた。
できないと決めつけることは、自分の可能性を閉ざすことだと分かっている。
それでも。
哀はこれまで、何度も試してきた。
呪具を扱おうとした。
身体に霊力を巡らせようとした。
けれど、自分の霊力を感じ取ること自体が苦手だった。
掴もうとしても、霧のように指の隙間から抜けていく。
確かにあるはずなのに、形が分からない。
どう動かせばいいのかも分からない。
そんな哀の様子を見て、栖原が口を開いた。
「あなたはやらないの?」
「え、えっと……」
哀は慌てて顔を上げる。
「その、私は、自分の霊力を感じたり、操ったりするのが苦手で……」
その言葉に、栖原は少し不思議そうな表情を浮かべた。
「でもあなた、《黒守環》は使えてるじゃない」
「え……」
哀の目が見開かれる。
黒守環。
左手の中指に嵌められた指輪。
初めて発動した時のことを、哀は思い出した。
守られた感覚。
左手から何かが抜けていくような感覚。
身体の奥で、ほんの僅かに熱が動いたような感覚。
あれが。
あれこそが、霊力を消費した感覚だったのだ。
「……そう、か」
哀は小さく呟く。
今まで、分からないものを無理に探そうとしていた。
けれど、自分はもう一度、それを感じていた。
使えていた。
完全ではなくても、確かに。
哀は栖原へ向き直り、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。やってみます」
栖原は少し首を傾げる。
「よく分からないけれど、頑張りなさい」
「はい」
哀は顔を上げる。
そして、左手の黒守環へ意識を向けた。
あの時の感覚を思い出す。
抜けていくもの。
流れるもの。
消費されるもの。
それを、今度は自分の意思で掴むために。
哀はゆっくりと目を閉じた。




