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神も人も〜人に砕かれた神の核を巡る、現代妖異譚〜  作者: 佐藤 潮


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第55話 可能性

白依が二階へ上がってから、しばらくして。


店の扉が開いた。


入ってきたのは、呉代と烏丸だった。


「お疲れ様」


カウンターの中でグラスを拭いていた蘭丸が、二人へ声をかける。


「しばらく白依ちゃんと行動してみて、どうだった?」


軽い調子の問い。


だが、その目は笑っていなかった。


烏丸は少しの間も置かず、率直に言った。


「やはり、あの白いのは危険だ」


蘭丸も栖原も、何も言わなかった。


ただ、続きを待つ。


烏丸は腕を組んだまま、淡々と続ける。


「今回の悪霊は、災位でいうなら伍災位程度だった」


伍災位。


ある程度、経験を積んだ災位保持者であれば対応できないほどのものでもない。


「俺や呉代でも簡単に祓えるものだ」


烏丸の声に誇張はない。


事実だけを並べている。


「だが、あいつのは祓ったとは言えない」


栖原が頬杖をついたまま、眉をひそめた。


「じゃあ何よ」


烏丸は一度、わずかに目を伏せる。


その沈黙に、栖原の表情がさらに険しくなった。


「……あいつは悪霊そのものを吸収していた」


そこで、言葉を少しだけ濁す。


「ように見えた」


「柄にもなく歯切れが悪いわね」


栖原がそう言う。


烏丸は否定しなかった。


「霊が霊を喰って融合することは、珍しいが事例がある」


静かな声が、店内に落ちる。


「だが、あいつのは融合ではないだろう」


蘭丸のグラスを拭く手が、わずかに遅くなる。


烏丸は続けた。


「どちらかと言えば、霊が人間に憑依する現象を、人間側が先導して行っているようだった」


その言葉で、蘭丸の手が止まった。


栖原の眉間に、深い皺が寄る。


呉代は何も言わない。


ただ黙って立ち、烏丸の言葉を聞いていた。


あの廃ビルで見た光景。


白依の掌へ、霊が吸い込まれていく様。


それを思い出しているのか、呉代の表情は硬かった。


烏丸は蘭丸へ視線を向ける。


「あれを続けさせていいのか」


問いではあるが、ほとんど警告だった。


「俺には、時限爆弾のようにしか思えないが」


店内に沈黙が落ちる。


グラスの中の氷が、かすかに鳴った。


蘭丸は止めていた手を、ゆっくりと動かす。


乾いた布で、グラスの縁をなぞる。


蘭丸の中で、烏丸の報告は一つの疑問に形を与えた。


杣木邸で、白依にカマをかけた時のこと。


依頼そのものが、報酬になり得るのではないか。


あの時は、可能性の一つに過ぎなかった。


だが、烏丸の報告が正しいのなら。


白依は、霊を吸収して力を得ているのかもしれない。


祓うのではなく。


消すのではなく。


取り込む。


それが白依の力の一部だとするなら、怪異や悪霊に関わる依頼そのものが、白依にとっては対価になり得る。


あるいは。


霊以外でも可能なのか。


白依が何を取り込み、何を力に変えられるのか。


それはまだ分からない。


分からないからこそ、危うい。


蘭丸はカウンターに置いたグラスを見下ろした。


透明な表面に、店内の灯りが淡く揺れている。


それでも今は。


白依を追い詰めるべきではない。


問い詰めるべきでもない。


危険だと分かっていても、ただ遠ざければいい段階はもう過ぎている。


「そうね」


蘭丸は静かに口を開いた。


「依頼の内容と頻度を、少し考えるわ」


烏丸は何も言わなかった。


ただ、蘭丸の言葉を受け止めるように目を閉じる。


栖原は不満げに眉を寄せていたが、反対はしない。


簡単な問題ではないと分かっているのだろう。


呉代は、階段の方を見た。


その先にいるであろう白依を思う。


危険。


確かにそうなのだろう。


自分も、あの廃ビルで見た。


悪霊が白依の掌へ吸い込まれていく光景を。


あれは普通ではなかった。


見ていて、背筋が冷えた。


けれど。


ただ危険と切り捨てるには、白依はあまりにも痛々しく見えてならなかった。


哀の前で揺れた声。


焔羅の頭に置いた手。


岩倉へ向けた殺気。


そして、廃ビルで霊を呑む横顔。


どれも同じ白依だった。


強くて、危うくて、幼くて。


何かに恐れているのを隠しているような。


——————————————————


「よし!決めた!」


地下室に、岩倉の野太い声が響く。


「嬢ちゃんは見えているが動けねぇ」


岩倉はまず、哀を指す。


哀の肩が小さく揺れた。


次に焔羅を見た。


「ワンコは身体が先走っちまう」


焔羅は少しだけ気まずそうに耳を伏せた。


二人とも、何も言えなかった。


どちらも事実だったからだ。


哀は見えていた。


見えていたのに、動けなかった。


焔羅は守ろうとした。


けれど、考えるより先に身体が飛び出していた。


岩倉は二人を見下ろしながら、腕を組む。


「てなわけで、嬢ちゃん」


「は、はい」


「お前は普段通りの戦闘態勢のまま、動かなくていい」


「え?」


哀が思わず聞き返す。


岩倉は構わず続けた。


「その代わり、見えたことを声に出せ」


「見えた、こと……」


「そうだ」


岩倉は頷く。


「俺の腕が上がった。右肩が入った。足が踏み込んだ。クナイがどこに飛ぶ。何でもいい。見えたことを言葉にしろ」


哀は腰に差した木刀へ手を添えたまま、戸惑ったように岩倉を見る。


「それで、ワンコ」


「む」


「お前は嬢ちゃんの声に反応して、炎で防げ」


焔羅の耳がぴくりと立つ。


「炎で……」


「身体で突っ込むな。まず炎を使え。嬢ちゃんの声を聞け。自分の判断だけで飛び出すな」


岩倉は二人を交互に見る。


「嬢ちゃんは動けねぇなら、司令塔になれ」


哀の目が見開かれる。


「司令塔……私が……?」


「おう」


岩倉は当然のように頷いた。


「ワンコは先走っちまうなら、指示に従ってみろ」


焔羅が哀を見る。


哀もまた、焔羅を見た。


指示を出す。


それに従う。


そんなことが、できるのか。


そう思った瞬間、また胸の奥に不安が湧いた。


けれど、岩倉は逃がさない。


「なにも一人で全部やろうとする必要はねぇ」


その言葉に、哀と焔羅の視線が岩倉へ戻る。


「嬢ちゃん一人じゃ動けねぇ。ワンコ一人じゃ突っ込みすぎる」


岩倉はにやりと笑った。


「なら、今は二人で一人前になりゃいい」


その言葉が、哀の胸に落ちた。


弱いところを補い合う。


できないことを、できる方が支える。


それなら。


それなら、今の自分にも何かできるかもしれない。


焔羅が、ぐっと胸を張った。


「分かった!哀殿の声を聞く!」


哀は少しだけ息を吸う。


そして、震えそうになる声を押さえながら頷いた。


「……やってみます」


「よし」


岩倉は満足げに笑った。


「それじゃあ、ワンコは嬢ちゃんの後ろで構えろ」


焔羅は首を傾げる。


「む?それでは攻撃が見えづらいぞ」


「だから、嬢ちゃんの声を漏らすな」


岩倉は真っ直ぐに焔羅を見る。


「信じろ」


焔羅は少しだけ黙った。


そして、力強く頷く。


「……分かった!」


焔羅は哀の背後に立った。


哀は腰に差した木刀に手を添え、低く構える。


膝がわずかに震えている。


それでも、目は岩倉から逸らさなかった。


「いくぞ」


「はい!」


「ああ!」


岩倉はクナイを一本摘まむ。


そして、先ほどと同じように大きく振りかぶった。


見せるように。


分かるように。


哀は焔羅へタイミングを伝えるため、声を出そうとした。


けれど。


喉が掠れる。


心臓が、跳ねた。


見える。


分かる。


岩倉の太い腕。


肩の入り方。


指先の角度。


そこから、自分のどこを目掛けて飛んでくるのか。


分かってしまう。


岩倉に言われるまで自分でも気づかなかったが、哀の危機察知は、ずば抜けていた。


幼い頃から弱者として生きてきた刷り込みが育てたものなのか。


それとも、生まれながらの才なのか。


それは分からない。


だが、その能力は、自身に降りかかる事象をあまりにも鮮明に浮かび上がらせる。


だからこそ。


怖い。


避けなければ。


伝えなければ。


そう思うのに、喉が塞がる。


声が出ない。


「哀殿?」


背後から焔羅の声が聞こえた。


次の瞬間。


風切り音。


そして、硬質な音が響く。


「っ――」


哀の身体が仰け反った。


「哀殿!」


そのまま、哀は地面へ倒れる。


「哀殿!大丈夫か!」


焔羅が慌てて駆け寄った。


飛んできたクナイは、哀の左肩にぶつかっていた。


哀はゆっくりと、自分の左肩に手をやる。


衝撃はあった。


身体が持っていかれるほどの重さもあった。


けれど、痛みはない。


左手の中指に嵌められた《黒守環》が、僅かに熱を帯びている。


きちんと機能したのだ。


哀は浅く息を吐いた。


「うん……大丈夫」


そして、焔羅へ無理に笑ってみせる。


「ごめんね。声、出なかったや……」


「謝る必要はないぞ!次こ――」


焔羅は、途中で声を止めた。


哀の身体が、小刻みに震えていた。


肩を押さえる手も。


床についた指先も。


唇も。


全部、震えている。


痛みではない。


怖かったのだ。


当たっても傷つかないと分かっていても。


身体は、恐怖を忘れていなかった。


哀は俯いたまま、震える息を吐く。


「見えてたのに……」


小さな声だった。


「分かってたのに……」


焔羅は何も言えなくなる。


岩倉はただ、床に倒れた哀を見下ろし、静かに息を吐いた。


「嬢ちゃん」


岩倉の声は、いつになく静かだった。


「怖かったか?」


責めているわけではない。


怒っているわけでもない。


ただ、確かめるような声だった。


哀は床に手をついたまま、唇を震わせる。


「……はい」


その答えを、岩倉は間髪入れずに切った。


「違うな」


哀が顔を上げる。


岩倉はまっすぐに哀を見ていた。


「お前はまだ、信じ切れてねぇだけだ」


「え……」


「周りを。ワンコを。お前自身も」


「そんなことはっ……」


思わず声が出た。


焔羅を信じていない。


そんなことはない。


そう言おうとした。


けれど、岩倉はそれを許さなかった。


「あるな」


低い声だった。


「これは精神論に近い話だが、あれだ、ゴーレム効果って知ってるか?」


焔羅が首を傾げる。


「なんだそれは?」


「簡単に言うとだな」


岩倉は腕を組み、言葉を選ぶように続けた。


「周りから、できないだの、お前には無理だの言われ続ける。そうすると、いつの間にか自分でもそう思い込んじまう現象だ」


哀の肩が、わずかに揺れた。


「自分にはできない。自分は弱い。自分は何も変われない」


岩倉の声が、地下室に響く。


「そう思い込み続けりゃ、実際に人は自分の可能性を閉ざす」


哀は息を呑む。


「ゴーレム。つまり、ただの人形と変わらねぇ存在になっちまう」


その言葉が、哀の胸に落ちた。


人形。


言われた通りに動く。


決められた役割だけを果たす。


自分の意思など、あっても意味がない。


実家や神社で浴びせられてきた言葉が、頭の奥で蘇る。


弱い。


役に立たない。


分家のくせに。


お前には無理だ。


お前など。


哀の指が、地面を掴む。


岩倉はそんな哀を見つめた。


「今まで嬢ちゃんがどんな人生を送ってきたかは知らねぇ」


静かな声。


けれど、力のある声だった。


「知らねぇがな」


岩倉は一歩、哀へ近づく。


「変わるって決めたんだろ!」


その瞬間、哀の心臓が大きく跳ねた。


けれど、それは先ほどのような恐怖によるものではなかった。


胸の奥を叩かれたような衝撃。


俯いていた顔が、ゆっくりと上がる。


岩倉は逃がさないように、哀の目を見ていた。


「だったらまず、自分で自分に言い聞かせるのをやめろ」


哀の喉が震える。


「できないって決めるな」


岩倉は続ける。


「怖いのはいい。震えるのもいい。動けねぇのも、今はいい」


その言葉に、哀の目が揺れた。


「でもな」


岩倉は拳を握る。


「自分の可能性を、自分で決めるな」


地下室に、静寂が落ちた。


哀は何も言えなかった。


ただ、胸の奥で何かが熱を持っているのを感じていた。


恐怖ではない。


痛みでもない。


それは、今までずっと奥底に押し込めてきたものだった。


変わりたい。


その想いが、ようやく形を持とうとしていた。


その時だった。


「ちょっと!豪!」


栖原の怒声が、地下室に響いた。


哀と焔羅が振り返る。


そこには、ずかずかと足音を立てて近づいてくる栖原の姿があった。


その顔は、完全に怒っている。


栖原は一直線に岩倉の前まで来ると、腰に手を当てて睨み上げた。


「あんたねえ!何してるのよ!」


「いや、露乃……」


「言い訳しない!」


栖原は哀を指さす。


次に、転がっているクナイを指さした。


「あんなのを投げて、この子倒れてるじゃない!」


その勢いに、岩倉が少しだけ身を引く。


「いや……今日は精神面と、軽く身体を慣らす程度にしてるぞ?」


「どこがよ」


「本当だって。あれだって、本当に軽く投げただけだし……」


その言葉に、哀は思わず左肩を押さえた。


痛みはない。


《黒守環》が守ってくれた。


それでも、身体を仰け反らせるほどの衝撃はあった。


(軽くで、あの威力……)


哀の顔が少しだけ引きつる。


栖原はそれを見逃さなかった。


「あんたの馬鹿力じゃ、軽くも何ともないわよ!」


「わ、悪かったって……」


岩倉は頭を掻きながら、小さくなる。


普段の豪快さはどこへやら、完全に栖原に押されていた。


栖原は大きく息を吐き、哀へ近づく。


「肩、見せて」


「あ、はい……」


哀が左肩を差し出すと、栖原は手早く状態を確認した。


骨に異常はない。


腫れもない。


《黒守環》がきちんと機能したからだ。


それでも、栖原の眉間の皺は消えなかった。


「今日はここまでにしなさい」


「いや、でもよ……」


栖原の視線が岩倉へ突き刺さる。


「ここまで」


「はい」


岩倉が即座に返事をした。


栖原の勢いに、誰も逆らえなかった。


焔羅はこっそり哀へ顔を寄せる。


「栖原殿は、強いな……」


哀は小さく頷いた。


「うん……」


岩倉はその会話を聞き、苦笑いを浮かべる。


「まあ、露乃は怒らせると怖ぇからな」


「聞こえてるわよ」


「はい」


岩倉はまた返事をした。


栖原はため息を吐くと、哀を見る。


「強くなりたいのは分かる。でも、焦って壊れたら意味がないの」


その声は厳しい。


けれど、どこか優しかった。


「今日は休みなさい。反省も訓練のうちよ」


哀は少しだけ迷ったあと、素直に頷いた。


「……はい」


岩倉はそんな哀を見て、肩を竦める。


「ま、初日にしちゃ十分だ!」


栖原に睨まれ、すぐに言い直す。


「……無茶して悪かった」


哀は左肩に手を添えたまま、静かに息を吐いた。


怖かった。


動けなかった。


声も出なかった。


けれど、終わりではない。


今日、分かったことがある。


そして、変わるにはまず、自分を信じるところから始めなければならないのだと。


哀は地面に転がるクナイを見つめた。


次は。


次こそは。


どれだけ小さい一歩でも、前へ進もう。


そう思った。

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