第54話 強み
哀と焔羅は岩倉についていき、地下へと続く階段を下りた。
辿り着いたのは、地下に位置する一室。
無機質なコンクリート張りの、シンプルな部屋だった。
余計な装飾はない。
ただ広さだけは十分にあり、壁や床には無数の傷が刻まれている。
古いものから新しいものまで、至る所に札が貼られていた。
ここがただの部屋ではないことは、哀にもすぐに分かった。
訓練場。
あるいは、それ以上に荒事へ耐えるための場所。
岩倉は部屋の中央まで進むと、そこで足を止めた。
そして、哀と焔羅へ振り向く。
「なぁ」
その声に、普段の豪快さはなかった。
面持ちも引き締まっている。
先ほどまでの岩倉とは、まるで違う。
「戦いにおける勝利の最低条件って、なんだと思う?」
焔羅がすぐに胸を張った。
「敵を倒すことだ!」
迷いのない声だった。
岩倉は小さく頷く。
否定はしない。
そして、今度は哀へ視線を向けた。
哀は少しだけ考える。
戦い。
勝利。
自分がこれまでまともに考えてこなかった言葉。
それでも、震えないように声を出した。
「その……自分の役目を果たすことでしょうか?」
岩倉は二人の返答を聞き、ひとつ頷いた。
「二人とも、間違ってはねぇ」
その声は低く、真っ直ぐだった。
「だが、もっとシンプルだ」
岩倉は拳を握る。
「死なねぇことだ」
哀と焔羅は黙った。
「人によっちゃ、無様に生き残るくらいなら栄誉ある死を、なんてバカみてぇなことを言う奴もいるがな」
岩倉は少し肩を竦める。
「俺に言わせりゃ、死んだらそこで終わりだ」
広い地下室に、岩倉の声が響く。
「敵を倒せなくてもいい。役目を果たせなくてもいい。情けなく逃げても、泥を啜っても、泣きながら這ってもいい」
岩倉は哀と焔羅を順に見た。
「特にお前たちは、御三家なんていう格上とやり合うらしいな」
哀の表情がわずかに強張る。
黒杖家。
鷹宮家。
その名だけで、身体の奥に染みついた恐怖が疼いた。
「それに、大切に思い合えるやつがいるんだろ」
岩倉の目が、真剣に二人を捉える。
「なら、なおさら死ぬな」
焔羅の耳がぴくりと動く。
哀は息を呑んだ。
「負けてもいい。逃げてもいい。どんなに無様で屈辱的でも、這ってでも生き延びろ」
岩倉は大きな拳を、自分の胸に当てた。
「最後に生きて笑う!それができりゃ、大金星ってやつよ!」
その言葉は荒っぽい。
けれど、どこまでも真っ直ぐだった。
哀は胸の前で手を握る。
焔羅も、いつものように勢いだけで返事をしようとはしなかった。
二人は岩倉を見つめる。
強くなる。
その意味が、少しだけ形を変えた気がした。
「とまぁ、言ったが」
岩倉はそこで、少しだけ肩の力を抜いた。
「今日のところは、軽く身体を動かす程度にしとくぞ」
焔羅が不満げに喉を鳴らす。
「むぅ……」
「そんな顔すんな」
岩倉は苦笑する。
「露乃にあれだけ釘刺されて、嬢ちゃんに怪我なんかさせたら、露乃にも白い嬢ちゃんにも殺されちまう」
そう言って、岩倉は壁際に置かれていた木箱へ向かった。
蓋を開け、中から一本の木刀を取り出す。
そして、それを哀へ軽く放った。
「それを腰に差しとけ」
「は、はい」
哀は慌てて受け取り、言われるがまま腰に差す。
本物の刀ではない。
けれど、腰に重みが加わっただけで、身体の感覚が少し変わった。
岩倉は再び二人の前に立つ。
腕を組み、哀と焔羅を順に見た。
「さて」
その目は、先ほどと同じく真剣だった。
「お前たちの強みって、なんだと思う?」
「また、精神論か?」
焔羅が不服そうな声を出す。
岩倉は片眉を上げた。
「あんま精神論バカにすんなよ?」
「む……」
焔羅はひとつ息を吐く。
そして、すぐに胸を張った。
「我はこの炎だな!」
そう言うと、焔羅の身体を包む青紫色の炎がぶわりと揺らめいた。
地下室の無機質な空気に、熱が滲む。
青紫の光が壁や床の傷を照らし、貼られた札の影を揺らした。
岩倉はそれを、じっと観察するように見る。
「なるほどな」
声を漏らす。
「ただの炎じゃねぇな」
それに焔羅は、得意げに胸を張った。
「そうだろう!」
青紫色の炎が、焔羅の身体の周囲でゆらりと揺れる。
だが、岩倉は首を横に振った。
「強みではねぇけどな」
「なっ……!」
焔羅の耳がぴんと立つ。
「それは、お前が持つ力でしかない」
岩倉は淡々と言った。
「だが、使いこなせば強みになる」
その言葉に、焔羅の耳がぴくりと反応する。
悔しげにしていた顔が、少しだけ真剣なものへ変わった。
岩倉はそれを見てから、今度は哀へ視線を向ける。
「次は嬢ちゃんだ」
「っ……」
哀の肩が跳ねた。
自分の強み。
そんなもの、今まで考えたこともなかった。
自分は弱い。
戦いの土俵にすら立てない。
幼い頃から、そう思い知らされてきた。
呪具を扱えると言っても、低災位のもののみ。
身体能力も並程度。
実戦経験もないに等しい。
哀は顔を伏せる。
何も答えられない。
その沈黙を見て、岩倉はおもむろに腕を上げた。
それは、なんてことのない仕草だった。
ただ、指で頭を掻く。
それだけ。
だが、その瞬間。
哀の身体が硬直した。
右腕が、僅かに腰の木刀へ寄る。
縋るように。
守るように。
いつでも抜けるように。
岩倉は、それを見逃さなかった。
「それだ」
「え……?」
哀が顔を上げる。
岩倉は答えず、今度は焔羅へ視線を向けた。
そして、先ほどと同じ動作をする。
腕を上げ、指で頭を掻く。
焔羅はきょとんとした顔で首を傾げた。
「なんだ?」
何も反応していない。
警戒もしていない。
ただ、岩倉が頭を掻いたと思っているだけだった。
哀も焔羅も、状況を読めずにいる。
岩倉は腕を下ろし、二人を見た。
「分かったか?」
焔羅が首を傾げる。
「分からん!」
「だろうな」
岩倉は苦笑する。
そして、哀へ視線を戻した。
「嬢ちゃんは今、俺が腕を上げただけで固まった」
哀の顔が強張る。
「それは……」
「怖かったんだろ」
岩倉はあっさりと言った。
哀は言葉に詰まる。
否定できなかった。
岩倉の大きな腕。
頭を掻くだけの動き。
それが、殴られる前の予備動作に見えた。
身体が勝手に反応した。
「別に馬鹿にしてるわけじゃねぇぞ」
岩倉の声は低い。
「それが、お前の強みだ」
哀は目を見開く。
「私の……強み?」
「おう」
岩倉は頷いた。
「嬢ちゃんは臆病だ。多分、骨の髄まで弱者としての質が染みついてる」
哀は、情けなさから歯を食いしばり、指が木刀の柄に触れる。
「けどな、臆病ってのは悪いことだけじゃねぇ」
岩倉は、自分の胸を指で叩いた。
「怖いから周りを見る。怖いから音を拾う。怖いから相手の一挙手一投足見逃さない。怖いから、次に何をされるか考える」
哀は黙って聞いている。
「俺が頭を掻いただけで、嬢ちゃんは身を固めて木刀へ手を寄せた。つまり、攻撃されるかもしれねぇって身体が先に察したんだ」
岩倉の目が、真剣に哀を捉える。
「反応の速さ。警戒心。危機察知」
ひとつずつ、言葉を置く。
「それを鍛えりゃ、お前は先に動けるようになる」
哀の喉が、小さく鳴った。
「先に……」
「そうだ」
岩倉は頷く。
「強いやつと真正面から殴り合う必要なんざねぇ。勝てねぇなら避けろ。逃げろ。隠れろ。誰かに繋げろ」
そして、腰に差した木刀を指す。
「その一瞬を作るための刃を持て」
哀は木刀へ視線を落とした。
ただの木刀。
けれど、先ほどより重く感じる。
怖がるだけの自分。
怯えるだけの自分。
それを、強みだと言われた。
すぐには受け入れられない。
けれど、胸の奥で何かが小さく揺れた。
焔羅も哀を見ていた。
先ほどまでの不満げな顔ではない。
どこか驚いたように。
そして、少し誇らしそうに。
「哀殿は、すごいのか?」
岩倉は歯を見せて笑う。
「すごくなるんだよ」
その言葉に、哀は木刀の柄をそっと握った。
「よし!」
岩倉が、ぱん、と手を打った。
「それじゃあ試すか!」
そう言うと、二人の返事も聞かずに壁際の木箱へ向かう。
箱の中を漁り、数本のクナイのようなものを取り出した。
黒く鈍い金属光沢。
形こそ刃物に見えるが、先端も刃も丸く落とされている。
「刃は落としてあるし、軽く投げる」
岩倉はそれを手の中で弄びながら言った。
「それに、一応呪具だ。なるだけ避けろよ」
哀の身体が、硬直した。
喉が鳴る。
指先が冷たくなる。
腰に差した木刀の存在を意識するより早く、身体が強張っていた。
岩倉はそんな哀を見て、声を低くする。
「お前なら見えるはずだ」
哀の瞳が揺れる。
「分かるはずだ」
岩倉は、手にしたクナイを一本だけ摘まんだ。
「今は身体が追いつかなくてもいい。避けられなくてもいい。だから、思考を止めるな」
哀は息を呑む。
「恐怖に止まるな」
言い終えると同時に、岩倉が腕を上げた。
わざとだった。
振りかぶる動作も、肩の入り方も、重心の移動も。
すべて、哀に見せるように大きく動いている。
それでも、哀には十分すぎるほど怖かった。
大きな腕。
投げられる刃物。
向けられる意識。
次の瞬間。
ひゅ、と風切り音が鳴った。
クナイが、哀へ向かって一直線に飛んでくる。
見えている。
確かに見えている。
岩倉の指から離れた瞬間も。
空気を裂く軌道も。
自分の胸元へ向かってくることも。
全部、分かる。
けれど、身体が動かない。
足が床に縫いつけられたように重い。
腕も上がらない。
どうすれば。
避けるには、どちらへ。
軽くと言っていたのに速すぎる。
思考だけが、頭の中で激しく回る。
けれど、それだけだった。
哀はただ、固まっていた。
目を閉じることすらできず、飛んでくるクナイを見つめるしかなかった。
その視界の中に、青白い影が飛び込んできた。
一瞬だった。
硬質な音が地下室に響き、クナイが軌道を逸れて床へ落ちる。
からん、と乾いた音を立てて、クナイが転がった。
哀の前に飛び込んできたのは、焔羅だった。
「哀殿、大丈夫か!」
焔羅はすぐに哀の元へ駆け寄る。
哀はまだ固まったまま、呼吸だけを浅く繰り返していた。
クナイは当たっていない。
怪我もない。
それを確認した瞬間、焔羅は岩倉へ向き直った。
「貴様!哀殿を殺す気か!」
地下室に、焔羅の吠える声が響く。
青紫の炎が、毛並みの奥で揺れた。
だが、岩倉は怒るでもなく、ただ大きくため息を吐いた。
「何してんだ、ワンコ」
「貴様……!」
焔羅が牙を剥く。
岩倉は床に落ちたクナイを拾い上げ、指先で軽く弾いた。
「嬢ちゃんには《黒守環》があるんだ。これぐらい大丈夫だろ」
その言葉に、焔羅ははっとして哀の方を見る。
哀の左手。
中指に嵌められた黒い指輪。
「……あ」
焔羅の声が小さくなる。
岩倉はクナイを見せるように持ち上げた。
「これはただの鉄じゃねぇ。訓練用に軽く呪を通してある。直撃すりゃ《黒守環》が反応する」
哀も、そこでようやく自分の指輪を見る。
蘭丸から贈られたもの。
あの時は、ただの物理的な暴力には反応しなかった。
けれど今は、指輪が僅かに熱を持っている。
本当に当たっていれば、防いだのだろう。
岩倉は今度は焔羅へ視線を向ける。
「それによ」
低い声だった。
「守るなら炎を使えよ」
焔羅の耳が、ぴくりと揺れる。
「お前は今、身体で割り込んだ。相手が本気の刃だったらどうする。触れた瞬間に呪いが流れ込む類いだったらどうする」
焔羅は何も言えなくなった。
岩倉は続ける。
「守りたいって気持ちは悪くねぇ。だが、考えなしに飛び込むだけなら、お前は真っ先に死ぬ」
焔羅の喉が、小さく鳴る。
「す、すまない……」
悔しそうに、焔羅は頭を下げた。
哀はそんな焔羅を見て、ようやく声を出す。
「焔羅……心配してくれてありがとう」
「哀殿……」
哀は震える手で、腰の木刀に触れた。
見えていた。
分かっていた。
それなのに、身体は動かなかった。
岩倉は二人を見下ろし、静かに言った。
「今ので二人とも分かっただろ」
哀と焔羅が岩倉を見る。
「嬢ちゃんは恐怖で止まる。ワンコは感情で飛び出す」
岩倉はクナイを木箱の上へ置く。
「それが今のお前らの弱点だ」
そして、にやりと歯を見せた。
「逆に言や、そこを直せば強くなるってことだ。今は出来なくていい。出来るようになる為の訓練だからな!」
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白依が夜桜へ戻ると、カウンターには蘭丸が立っていた。
その前の席には、栖原が座っている。
「おかえりなさい、白依ちゃん」
蘭丸がにこやかに言った。
「ああ」
白依の返事は短い。
いつものように、必要最低限の声だった。
店内を見渡し、白依はふと視線を下へ向けた。
足元。
床のさらに下。
そこから、僅かな振動が伝わってくる。
そして、微かに焔羅の気配もあった。
それに気づいた蘭丸が、軽く笑う。
「哀ちゃんたち、訓練を始めたのよ」
白依の赤い瞳が、少しだけ細まる。
「初日だから、張り切ってるのかもね」
「豪のやつ」
栖原が低く呟く。
その手にはグラスがあった。
「無茶させてたら承知しないんだから」
そう言って、栖原はグラスの中身を一気に煽った。
治療した者として、よほど気が気ではないのだろう。
蘭丸は苦笑しながら、空になったグラスへ視線を落とす。
「露乃ちゃん、飲み方が怖いわよ」
「怖くもなるわよ」
栖原はグラスをカウンターへ置いた。
「まだ全快じゃないのに」
白依はそのやり取りを聞きながら、もう一度床へ視線を向けた。
地下から伝わる、僅かな気配。
しばらく黙ったあと、白依はたった一言だけ返した。
「……そうか」
それ以上は何も言わなかった。
白依はカウンターから視線を外すと、そのまま階段へ向かう。
「白依ちゃん?」
蘭丸が呼びかける。
だが、白依は振り返らない。
小さな足音が、階段を上っていく。
蘭丸と栖原は、その背中を見送った。
白依の姿が二階へ消える。
栖原は眉をひそめた。
「……見に行かないのね」
蘭丸は少しだけ目を伏せる。
「なにか思うところがあるのかもね……」
その言葉に、栖原は何も返さなかった。
ただ、地下から伝わる微かな振動と、二階へ上がっていった白依の気配だけが、夜桜の中に静かに残っていた。
その二つは、同じ場所にありながら、少しずつ違う方向へ進んでいるようだった。




