第53話 警戒
廊下を歩く、一つの影があった。
陰務省、隠密部隊副隊長。
御影。
その足取りに迷いはなく、足音もない。
まるで影そのものが床を滑っているかのように、御影は静かに廊下を進んでいく。
そして、一室の扉の前で足を止めた。
短くノックをする。
返事を待たず、扉を開けた。
中は薄暗かった。
造りも廊下とはまるで違う。
壁や天井の形はどこか不規則で、和室のような部分があれば、洋館めいた意匠も混ざっている。
統一感はない。
和洋折衷と言えば聞こえはいいが、実際には誰かの気まぐれをそのまま形にしたような部屋だった。
床には資料や写真が散らばっている。
その横には、クッション。
さらに、場違いなほど可愛らしいぬいぐるみまで転がっていた。
だが、部屋の中に人の気配はない。
御影は室内を見渡し、小さくため息を吐いた。
「はぁ……籠杜隊長」
すると、御影の頭上から声が落ちてきた。
「なーにー?」
御影が見上げる。
梁のように組まれた天井の一角。
そこに、猫のように丸まってこちらを見下ろす男がいた。
隠密部隊隊長、籠杜伝。
御影は無表情のまま言った。
「私が来るたび、いちいち隠れないでください」
「えー?」
籠杜は不満そうに声を伸ばす。
次の瞬間、梁からふわりと飛び降りた。
着地の音はない。
床に散らばった資料一枚すら揺らさず、籠杜は御影の前へ降り立った。
「これも御影くんの訓練でもあるんだよ?」
「そんなこと――」
「お陰で、僕が部屋にいることは分かっていたでしょ?」
御影の言葉が詰まる。
確かに、姿は見えなかった。
それでも、籠杜と出会ってすぐの頃と比べると気配を探るのが上手くなった。
そう考えると、反論が難しい。
そんな御影を見て、籠杜は狐の面の奥でけらけらと笑った。
「ほらね」
「……性格が悪いです」
「そうかな?」
籠杜はまるで褒め言葉のように受け取ると、散らばったクッションの一つに腰を下ろした。
「それで、どーしたの?」
御影は一つ咳払いをする。
そして、ここへ来た目的を話すため、静かに口を開いた。
「報告です」
その一言で、空気が変わった。
御影は淡々と続けた。
「まず始めに、ここ数週間で小規模なものが大半ではありますが、怪異事件が頻発しています」
籠杜は静かに聞いている。
「それと、その事件すべてではありませんが、いくつかの現場で神性の残滓が見つかりました」
そこで、籠杜が反応した。
「神性?」
「はい」
御影は頷く。
「そして最後に、数日前の京都、旧鞍瀬療養所の件についてです」
旧鞍瀬療養所。
籠杜はその名を聞いて、気配だけが少し沈んだ。
「現場はすでに、鷹宮家か夜桜の連中が処理済みでした」
御影は視線を落とす。
「ですが、建物内にて僅かに神性反応がありました」
籠杜は小さく首を傾げる。
「繋げて報告するってことは……」
「はい」
御影は籠杜を見た。
「各地の反応と、一部一致しました」
部屋の中に、短い沈黙が落ちた。
散らばった資料。
無造作に置かれた写真。
可愛らしいぬいぐるみ。
そのすべてが、先ほどまでとは違って見える。
籠杜は軽く息を吐いた。
「怪異が活発になったのが、白い童が目覚めた時期とほとんど一致して」
指先で床の資料を一枚つつく。
「その場に残る残滓も一部一致。しかも、白い童から神格反応も確認済みときた」
そして、いつもの調子に似せるように、口元だけで笑った。
「邪神が目覚めたって?」
冗談交じりの言い方だった。
けれど、その声に普段の軽さはなかった。
御影もそれを感じ取ったのか、すぐには返さない。
「わかりかねます」
「だろうねぇ」
籠杜はそう言って、視線を宙へやる。
その時だった。
籠杜の身体が、ぴくりと反応する。
ほんの僅かな動き。
だが、御影はそれを見逃さなかった。
籠杜はゆっくりと顔を上げ、面を御影へ向けた。
いや。
違う。
その視線は、面を越え、御影を越え、さらにその後ろへ向かっていた。
扉の向こう。
廊下の先。
もっと遠く。
御影には分からない何かを、籠杜だけが見ているようだった。
「どうしたんですか?」
御影が問う。
籠杜はしばらく黙っていた。
やがて、いつものように気の抜けた声で答える。
「いや、なんでもないよ」
「はあ……」
御影は納得していない顔をした。
だが、それ以上は追及しない。
籠杜はまた床のクッションへ視線を戻し、何でもないように笑った。
けれど、その内側では別のことを考えていた。
(警戒対象に人間も入るのは、嫌だねぇ……)
その気配は、妖でも怪異でもない。
ただの人間。
それなのに、薄暗い廊下の向こうから漂うそれは、籠杜の勘を静かに撫でていた。
廊下の曲がり角。
そこにいた影は、指先に挟んだ小さな札を静かに畳んだ。
表情は変わらない。
眼鏡を指で押し上げ、その目だけがわずかに細められる。
「……残滓か」
そう呟き、何事もなかったかのように廊下の奥へ消えていった。
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白依が目覚めてから、数日が経った。
哀の身体も、日常生活を送る分には問題ない程度まで回復していた。
顔の腫れもほとんど引き、腕や身体に残っていた痣も薄くなり、そしてようやく、栖原からの監視も外れた。
「ねぇ、焔羅」
ベッドの上で、哀が声をかけた。
焔羅はベッドの傍で丸くなっていた身体を起こす。
「なんだ?」
「やっぱり、先に鍛えてもらったら?」
その言葉に、焔羅の耳がぴんと立った。
「言っただろ!一緒に強くなるんだ!」
少し拗ねたような声だった。
哀は小さく笑う。
「でも、焔羅が白依様を大切に思っているのは分かるけど……なんで私に合わせるの?」
「む?」
「白依様を思うなら、一刻も早く強くなりたいと思うんじゃない?」
焔羅は、その言葉に少し考え込んだ。
耳を揺らし、尻尾を床にぱたりと落とす。
「我は、主に救われて、共にいたいと思ったんだ」
「うん」
「主は強い。とても強い」
焔羅はぽつぽつと言う。
「でも、それだけじゃなくて……」
「うん」
「ほっとけないような、そんな気持ちもどこかあって……」
焔羅は首を傾げる。
「哀殿のことも、そんな感じに思えて?」
哀はきょとんとした。
「なんで疑問形?」
「んー」
焔羅は真剣に考える。
考えて、考えて。
それから、胸を張った。
「分からん!」
あまりにも堂々とした答えだった。
哀は一瞬だけ目を丸くし、それから小さく息を漏らす。
「そっか」
哀の表情が、柔らかくなる。
「でも、ありがとね」
その言葉に、焔羅は一瞬固まった。
それから、少し照れたように耳を垂れさせる。
「べ、別に礼を言われることではないぞ」
そう言いながら、尻尾だけは素直に揺れていた。
哀はそれを見て、また少しだけ笑う。
不安は消えていない。
それでも、焔羅が傍にいることが、今の哀には心強かった。
「哀殿、そろそろ腹が減っただろ?」
焔羅が唐突に言った。
「我が頼んでくるから待っててくれ」
どちらかというと、きっと焔羅がお腹空いたのだろう。
「いや、もう普通に動けるから一緒に行こ」
哀はそう言って、ゆっくりと立ち上がる。
焔羅は一瞬心配そうに哀を見上げたが、哀が大丈夫だと頷くと、嬉しそうに尻尾を揺らした。
そうして、哀と焔羅は一階へ向かった。
階段を下りると、カウンターには蘭丸がいた。
「あら、哀ちゃん」
蘭丸がこちらに気づき、柔らかく笑う。
「身体、随分と良くなったわね」
「あ、はい」
哀は少し頭を下げた。
「おかげさまで」
「無理してない?」
「大丈夫です」
そう答えながら、哀は室内を見渡す。
けれど、探している姿は見当たらない。
哀は少しだけ不安そうに、蘭丸へ視線を戻した。
「あの、白依様は?」
「今日も依頼に行ってもらってるわ」
その言葉に、哀の表情が曇る。
事情は分かっている。
夜桜に世話になっている以上、白依が何かをするのは当然なのかもしれない。
分かっている。
それでも、白依が使われているような不快感が胸をよぎった。
そして、その原因が自分にあるという事実が、さらに重くのしかかる。
そんな哀の顔を見て、蘭丸が小さく息を吐いた。
「そんな顔しないで」
蘭丸は優しく言う。
「依頼と言っても、日帰りで済むような軽いものだけだから」
「はい……」
哀は頷く。
けれど、完全に納得できたわけではなかった。
焔羅も耳を少し伏せ、カウンターの方を見上げている。
その時。
奥の扉が開いた。
蝶番の音が、小さく店内に響く。
哀と焔羅が、同時にそちらを向いた。
奥の扉から出てきたのは、岩倉だった。
「おう!すっかり良くなったな!」
相変わらずの声量だった。
店内に響く野太い声に、哀は思わず肩を揺らす。
焔羅も耳をぴくりと動かした。
「岩倉さん……」
「豪でいいぞ!」
岩倉は歯を見せて笑う。
その後ろから、栖原も姿を現し、呆れたように岩倉を見る。
「声が大きいのよ」
悪びれた様子もなく、岩倉は頭を掻いた。
そしてすぐに、栖原へ向き直る。
「なあ、そろそろ嬢ちゃんたちの訓練始めてもいいだろ?」
栖原は答える前に、じっと哀を見た。
顔色。
立ち方。
呼吸。
身体の力の入り方。
ひとつひとつ確認しているようだった。
哀は少し緊張しながらも、背筋を伸ばす。
栖原はしばらく見つめたあと、ゆっくりと目を伏せた。
「まだ全快ってわけじゃないから」
その声は厳しい。
「それを踏まえてやるなら……」
最後まで言い切る前に、岩倉の顔がぱっと明るくなった。
「よし!」
「まだ許可とは言い切ってないんだけど」
「踏まえりゃいいんだろ?」
岩倉は豪快に笑う。
「任せとけ!壊すような真似はしねぇよ」
栖原は疑わしげに目を細める。
「本当に?」
「本当だって!」
「少しでも無茶させたら止めるから」
「分かってる分かってる」
その返事の軽さに、栖原は大きくため息を吐いた。
だが、反対はしなかった。
岩倉はそれを許可と受け取ったらしく、哀と焔羅へ歩み寄る。
「よし、じゃあ始めるか!」
哀の胸が、小さく高鳴った。
ついに始まる。
守られるだけではなくなるための一歩。
白依の傍に在り続けるための一歩。
焔羅も隣で、ぐっと足に力を込める。
哀と焔羅は視線を交わした。
そして、同時に頷く。
「はい」
「うむ!」
岩倉は満足げに頷いた。
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散らばるガラスの破片。
剥き出しになった鉄筋。
崩れたコンクリートの残骸。
そこは、街の片隅に取り残された廃ビルだった。
窓は割れ、壁には雨染みが広がり、床には誰のものとも知れない足跡がいくつも残っている。
その奥。
薄暗いフロアの中央で、白依は立っていた。
「あれは……祓っているのか」
呟くような声を漏らしたのは、烏丸だった。
その隣で、呉代が小さく息を呑む。
「……分かりません」
二人は、目の前の光景をただ見ていることしかできなかった。
白依の前には、黒く濁った霊がいた。
人の形をかろうじて保っているだけの、崩れかけた霊。
普通なら、呪具や護符を駆使して祓う。
だが、白依はそのどれもしなかった。
ただ、手を伸ばした。
霊が逃げようと身をよじる。
けれど、白依の掌に触れた瞬間、その輪郭がぐにゃりと歪んだ。
そして、吸い込まれていく。
霧が穴へ呑まれるように。
煙が掌へ絡め取られるように。
黒く濁った霊は、白依の手の中へ少しずつ消えていった。
悲鳴はない。
抵抗も、やがてなくなる。
最後に小さな影だけが震え、それすらも白依の掌へ吸い込まれた。
白依は何事もなかったように手を下ろす。
赤い瞳に揺らぎはない。
呼吸も乱れていない。
ただ、静かに次の気配を探すように、廃ビルの奥へ視線を向けていた。
呉代の背筋に、冷たいものが走る。
消したとも違う、祓ったわけでもない。
取り込んだ。
そう見えた。
烏丸は腕を組んだまま、白依を見つめている。
「……ボスには報告が必要だな」
呉代は小さく頷いた。
「はい」
白依は振り返らない。
二人の会話など聞こえていないように、廃ビルのさらに奥へ歩き出す。
小さな足音だけが、瓦礫とガラスの散らばる床に響いた。
(弱い。足りない。もうなにも失わないために……もっと……もっと力を……)




