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神も人も〜人に砕かれた神の核を巡る、現代妖異譚〜  作者: 佐藤 潮


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第52話 どうする

部屋には温もりに似た空気が漂っている。


痛みも、涙も、消えたわけではない。


けれど、少なくとも先ほどまでのような、誰かが壊れてしまいそうな張り詰めた空気はなかった。


そんな中、栖原が現実的なことを口にする。


「もういいでしょ」


栖原は哀を見下ろし、きっぱりと言った。


「あなたは早くベッドに戻りなさい」


哀がびくりと肩を揺らす。


「で、ですが……」


「ですが、じゃない」


栖原の声は容赦がない。


「強くなる以前に、まずは身体を治さないことには何も始まらないわよ」


哀は床に座ったまま、拳を握った。


「大丈夫です。私なら……今すぐにでも……」


「だめ」


栖原が即座に切る。


哀はなおも食い下がろうとした。


「でも、私は早く強くならなければ……また白依様に……」


「哀ちゃん」


今度は蘭丸が口を挟んだ。


その声は柔らかい。


けれど、有無を言わせない響きがあった。


「今なにかをしても、残るのは後遺症くらいよ」


哀の口が止まる。


蘭丸は肩を竦めながら続けた。


「強くなるっていうのは、無茶をすることじゃないわ。今は大人しく身体を休めなさい」


「……でも」


「でも、じゃないの」


蘭丸は哀の目をまっすぐ見る。


「白依ちゃんの傍にいたいんでしょう?」


哀は小さく頷く。


「だったら、まずは治ること。動けない身体で気持ちだけ先走っても、得られるものは何もないわよ」


その言葉に、哀は唇を噛んだ。


反論したい。


今すぐにでも変わりたい。


強くなりたい。


けれど、身体は正直だった。


床に座っているだけでも息が上がり、腕は小さく震えている。


痛みも、熱も、まだ消えてはいない。


焔羅が哀の傍へ寄る。


「哀殿、今は言われた通り休むべきだ」


そして、少しだけ胸を張った。


「我も一緒にいる。だから、まずは身体を治すことに専念しよう」


哀は焔羅を見る。


それから、白依へ視線を向けた。


白依は黙っていた。


ただ、赤い瞳で哀を見ている。


「……白依様」


哀が小さく呼ぶ。


白依は短く答えた。


「寝ろ」


それだけだった。


「……はい」


掠れた声で頷く。


栖原は深く息を吐いた。


「分かればいいの。豪、彼女をベッドまで運んであげて」


「おう」


岩倉が慎重に哀へ近づく。


その大きな手で、傷に触れないように、包帯をずらさないように、そっと哀を抱き上げた。


哀は一瞬だけ身体を強張らせたが、抵抗はしなかった。


ベッドへ戻されると、栖原が手早く布団を整える。


「しばらくは絶対安静。分かった?」


「……はい」


「よろしい」


栖原がようやく少しだけ表情を緩める。


その横で、蘭丸は苦笑した。


「栖原ちゃん、まるでお姉さんに見えるわね」


「見えるんじゃなくて、この子たちよりお姉さんよ」


栖原が即座に睨む。


そのやり取りに、岩倉がまた笑いかけて、栖原の視線を受けて慌てて口を閉じた。


白依はそんな様子を静かに見ていた。


そして、ベッドに戻った哀へ視線を落とす。


「哀」


「はい」


「今は大人しくしていろ」


哀の目が、わずかに揺れる。


白依は続けた。


「もう……勝手に、お前たちから離れようとしない」


淡々とした声だった。


けれど、それで哀の表情が崩れた。


涙がまた滲む。


それでも、今度は壊れそうな涙ではなかった。


「……はい、白依様」


焔羅が尻尾を揺らす。


蘭丸は何も言わず、その様子を眺めていた。


それから、各々が部屋を後にした。


蘭丸が栖原と岩倉を連れ、呉代もそれに続く。


哀はベッドの上で、まだ名残惜しそうに白依を見ていたが、栖原に睨まれて大人しく布団の中へ戻っていた。


白依も最後に部屋を出ようとする。


その背に、焔羅が駆け寄った。


「主!」


白依は足を止め、振り返る。


焔羅は白依を見上げた。


耳は伏せていない。


尻尾も下がっていない。


真っ直ぐに、白依を見ていた。


「我も、哀殿と同じですからね!」


焔羅は必死に声を張る。


「哀殿と一緒にもっと強くなって、主の傍に在り続けますから!」


白依は静かに焔羅を見つめた。


焔羅の首には、見覚えのない紅白の注連縄が巻かれている。


そこに結ばれた鈴が、小さく揺れていた。


身体も、以前よりひと回りほど大きくなっている。


毛並みも、気配も、どこか違う。


こんなにも変わっていた。


それなのに、白依は今の今まで気づけていなかった。


哀のことも。


焔羅のことも。


自分が見ているようで、見えていなかったものが多すぎた。


白依は焔羅の前で、静かにしゃがみ込む。


そして、焔羅の頭に手を置いた。


柔らかな毛並み。


そこに宿る温もり。


焔羅は目を瞬かせ、じっとしていた。


白依はしばらくその頭を撫でる。


そして、たった一言だけ告げた。


「そうか」


焔羅の尻尾が、小さく揺れる。


それ以上、白依は何も言わなかった。


白依は立ち上がり、部屋を出た。


扉を閉める。


かちゃり、と小さな音が廊下に落ちた。


そのまま一階へ戻ろうとした時、廊下に人影があった。


蘭丸だった。


壁に背を預け、白依を待っていたらしい。


「よかったわね、白依ちゃん」


蘭丸は穏やかに微笑んで言った。


その声には、安心が滲んでいた。


けれど、白依は少し眉をひそめる。


「……よくはない」


思いもよらぬ返答に、蘭丸は目を瞬かせた。


「え……?」


白依はそれ以上答えなかった。


蘭丸の前を通り過ぎる。


小さな足音が、廊下に響く。


階段へ向かい、一段ずつ下りていく。


蘭丸は、その背中を見つめることしかできなかった。


「白依ちゃん……」


小さく呼ぶ。


けれど、白依は振り返らない。


白依にとって、これは解決ではなかった。


哀と焔羅が傍にいることを選んだ。


胸の奥が、確かに温かくなった。


けれど同時に、感じる恐怖。焦り。


また失うかもしれない。


また傷つけるかもしれない。


それでも欲してしまった自分が、何より醜く思う。


だから、よかったとは言えない。


白依は黙ったまま、一階へ戻っていく。


その小さな背中は、先ほどより少しだけ重く見えた。


白依が一階へ降りると、ずかずかと大きな足音を立てて岩倉が近づいてきた。


「一瞬焦ったけどよぉ、とりあえずはよかったなぁ!」


白依は怪訝な表情を浮かべた。


「なんだぁ?暗い顔して」


岩倉が首を傾げる。


白依は、じっと岩倉を見上げた。


「お前」


「あ?」


「哀たちを強くすると言ったな」


「あー、言ったな」


岩倉は頭を指で掻く。


「どうするつもりだ」


「どうするもこうするも……」


岩倉が言葉を探すように視線を上へ向けた、その時。


「哀と焔羅を傷つけたら――」


白依の声が、低く落ちた。


岩倉が視線を戻す。


白依は下から岩倉を睨みつけていた。


赤い瞳が、冷たく細まる。


「殺すぞ」


室内の空気が、数段落ちた。


それは脅しではなかった。


確かな殺気だった。


呉代と栖原が、反射的に腰を落とす。


ソファに座っていた烏丸だけは、目を薄く開き、静かに白依を観察していた。


「ちょっと、あなたたち――」


ちょうど戻ってきた蘭丸が、慌てて間に入ろうとする。


だが、その前に。


「わははははは!」


岩倉の豪快な笑い声が響いた。


張り詰めた空気を、力任せに揺らすような笑いだった。


白依の目が、さらに鋭くなる。


「……何がおかしい」


声には、まだ殺気が残っている。


岩倉は白依を見下ろした。


「いや、悪りぃな」


それでも、岩倉の顔はまだ微笑んでいるようだった。


「さっきまで置いていくとか言ってた嬢ちゃんがよぉ、もうあいつらのことで俺を殺すって脅してくるんだぜ?」


岩倉は歯を見せて笑った。


「十分じゃねぇか」


白依は眉をひそめる。


「何がだ」


「ちゃんと大事に思ってるってことだよ」


岩倉の声は、先ほどまでより少しだけ低くなった。


豪快さの奥に、真剣な響きが混じる。


「安心しろ。俺は鍛えるって言ったんだ。無闇に傷つけたりなんかしねぇよ」


白依は黙って岩倉を睨み続ける。


岩倉はその視線を受けても、笑みを消さなかった。


「だが、傷ひとつ負わせず強くするなんて、そんな都合のいいことは言えねぇ。けどな」


大きな拳を、自分の胸に当てる。


「取り返しのつかねぇ傷は負わせねぇ。無茶もさせねぇ。あいつらが自分の力で望むものを掴めるように、その手助けをするだけだ」


白依の殺気が、ほんのわずかに揺らいだ。


「だからよぉ」


岩倉は真っ直ぐに言う。


「殺す云々は、せめてその後で決めろ」


白依はしばらく岩倉を見上げていた。


赤い瞳はまだ鋭い。


けれど、先ほどのように室内を凍らせるほどではなかった。


「……いいだろう」


短く答える。


「ただし、哀と焔羅に何かあったら……」


「おう。その時は好きにしろ!」


岩倉はまた豪快に笑った。


蘭丸は額に手を当てる。


「もう……なんでこの子たちはこう、話が物騒なのかしらね」


栖原は大きく息を吐き、呉代は警戒を解いた。


烏丸は目を閉じる。


そして白依は、まだ少し不満げな顔のまま、岩倉から視線を外した。


「白依ちゃん、そこに座ってちょうだい」


蘭丸はそう言って、カウンター席へ白依を促した。


白依は一度だけ蘭丸を見る。


それから、黙ってカウンターへ向かった。


岩倉は肩を竦めた。


岩倉と栖原は、烏丸の座るソファ席へ腰を下ろした。


烏丸は相変わらず腕を組み、目を閉じている。


「呉代、なんでもいいから酒持ってきてくれ」


岩倉が大きな身体をソファに沈めながら言った。


「あ、はい」


呉代は頷き、カウンターの棚から酒瓶とグラスをいくつか取り出すと、岩倉たちのいるソファ席へ運んでいった。


氷の触れ合う音。


グラスがテーブルに置かれる音。


酒瓶の栓が開く小さな音。


それらが、少しずつBARらしい空気を取り戻していく。


白依は、ソファ席から最も離れた端のカウンターに座った。


足は床につかない。


それでも姿勢は崩さず、ただ静かに前を見ている。


その正面に、蘭丸が立った。


カウンターを挟んで向かい合う。


いつもの軽い笑みは、今はない。


白依もまた、何も言わない。


しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。


やがて蘭丸が、ゆっくりと口を開く。


「白依ちゃん」


蘭丸は、カウンター越しに白依を見つめた。


「あなたは、これからどうするの?」


その声は、先ほどより少しだけ低かった。


白依は眉ひとつ動かさずに返す。


「何がだ」


「また、何かを一人で背負い込もうとしているんじゃない?」


「……」


白依は答えない。


否定もしない。


その沈黙だけで、蘭丸には十分だった。


「まあ、いいわ」


蘭丸は小さく息を吐く。


「とりあえず、哀ちゃんはまだ動かせない。あなたたちがいた杣木邸も壊れて、戻れないでしょうし」


白依の赤い瞳が、わずかに伏せられる。


「だから、ここにいてもらって構わないわ」


「そうか」


白依は短く答えた。


だが、蘭丸はそこで終わらせない。


「でも」


声が少しだけ硬くなる。


「私は善人とは言えないし、夜桜も慈善団体じゃないわ」


「対価か」


白依が即座に問う。


蘭丸は首を横に振った。


「それは少し違うわね。今の白依ちゃんは、とても危うく見える」


蘭丸は白依を見つめる。


白依の揺れを。


白依自身がまだ扱いきれていない感情を。


「だから、今は私の把握できる範囲で動いてほしいの」


白依の視線が蘭丸へ戻る。


「その代わり、哀ちゃんたちのことは、しっかり責任を持って見るわ」


白依は少しだけ考えた。


そして、短く問う。


「白依は何をすればいい」


蘭丸は、そこでようやく少しだけ笑みを浮かべた。


「哀ちゃんが動けるようになるまでは、うちのお手伝いをしてほしいの」


「手伝い?」


「そう。夜桜のね」


白依は怪訝そうに蘭丸を見る。


蘭丸は肩を竦めた。


「と言っても、今までの依頼とそう変わらないわ。白依ちゃんのためにもなるでしょ?」


そこで、少しだけ声を柔らかくする。


「あなたが一人でどこかへ行ってしまわないように、私たちが見ていられる形で動いてほしいのよ」


白依はしばらく黙っていた。


それから、静かに頷く。


「わかった」


短い返事だった。


蘭丸の表情に、少しだけ安堵が滲んだ。


「それじゃあ、明日からよろしくね」


白依は黙って蘭丸を見上げる。


「今日はもう休んでちょうだい」


「ああ」


白依は短く答え、席から立ち上がった。


そして、そのまま二階へ向かう。


小さな足音が、階段を上っていく。


蘭丸たちは、その背中を見送った。


白依の姿が二階へ消え、足音が聞こえなくなってから。


「なあ、ボス」


岩倉が、グラスを片手に口を開いた。


「なにかしら」


「あの白い嬢ちゃん、やべぇな」


その声には、いつもの豪快さがなかった。


岩倉の手にあるグラスが、わずかに軋む。


握る力が、無意識に強くなっていた。


先ほど白依から向けられた殺気。


小さな身体から放たれた、底の見えない圧。


岩倉ほどの男でも、軽く流せるものではなかった。


「……あれは、管理できるものではないぞ」


それまで黙っていた烏丸が、静かに口を開いた。


目は閉じたまま。


けれど、その声には確かな警戒があった。


蘭丸は烏丸へ視線を向ける。


「“あれ”とか“もの”なんて言わないの」


いつもの調子で窘める。


だが、その後に続く声は重かった。


「でも、そうね」


蘭丸は白依が上がっていった階段を眺めた。


白依は危うい。


幼い姿をしている。


感情の扱い方を知らない。


けれど、その内側にある力は、夜桜の、人の手でどうこうできるものではない。


しかし、放っておけば、さらに危うい。


だからこそ、近くで見ておく必要がある。


蘭丸は静かに息を吐いた。


(神の核も、調べなくちゃね……)


BARの薄暗い灯りの下で、グラスの中の氷が小さく鳴る。


夜桜は、白い童を受け入れた。


けれどそれが何を招くのか。


まだ誰にも分からなかった。

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