第51話 一筋
部屋の中は、異様な空気に包まれていた。
誰も動けない。
誰も、すぐには言葉を出せない。
白依の両手は、まだ哀の首元にある。
その上から、哀の手が優しく包んでいる。
殺してほしい。
そう願われた形のまま、二人は向かい合っていた。
そんな中、白依が口を開く。
「焔羅以外、全員出ていけ」
低く、静かな声だった。
その言葉に、蘭丸たちは目を見開く。
出ていけるはずがなかった。
哀は今、白依に殺してほしいと言った。
そして白依の手は、まだ哀の首にある。
この状況で、部屋を出られる者などいない。
「白依ちゃん……」
蘭丸が一歩、前へ出ようとする。
それは飲めない。
そう言おうとしたのだろう。
だが、それより早く、栖原が声を荒らげた。
「ふざけないで!」
鋭い声が、部屋に響く。
医療に携わる者としての責任感か。
目の前で命を軽く扱われていると感じた怒りか。
あるいは、その両方か。
栖原の顔から、普段の冷静さは消えていた。
「そんな状態の子を置いて、出ていけるわけないでしょう!」
栖原が白依と哀へ近づこうとする。
その足取りは迷いがない。
止めるために。
引き離すために。
この異様な願いを、終わらせるために。
だが、白依は視線だけを栖原へ向けた。
赤い瞳が、静かに細まる。
「出ていけ」
もう一度、白依は言った。
声は荒くない。
怒鳴ってもいない。
それなのに、部屋の温度が一段落ちたようだった。
栖原の足が、一瞬止まる。
「白依ちゃん」
蘭丸が静かに口を開いた。
「私は、そんなつもりであなたたちに会ってほしいと思っていたわけじゃないのよ」
その声には、責める響きはなかった。
ただ、苦しそうな色だけがある。
白依は蘭丸を見た。
哀の首元に置いた手は、まだ動かない。
「分かっている」
返したのは、その一言だけだった。
蘭丸は白依の目を見つめる。
そこに何を見たのか。
しばらく黙ったあと、ゆっくりと息を吐いた。
「そう」
蘭丸は小さく頷く。
「なら、信じるわ」
「ボス!」
栖原が納得のいかない声を上げた。
当然だった。
治療した患者が、目の前で自分を殺してほしいと願った。
その首に、白依の手が触れている。
そんな状況で信じるなど、飲み込めるはずがない。
けれど蘭丸は、栖原へ視線だけを向ける。
「部屋からは出るけど、扉の前で待っているから」
そう言ってから、もう一度白依を見た。
「何かあったら、すぐに入るわよ」
白依は答えなかった。
ただ、静かに蘭丸を見返す。
蘭丸はそれ以上言わず、栖原と岩倉へ目配せをした。
岩倉は苦い顔のまま頷く。
呉代も唇を引き結び、哀を見つめてから一歩下がった。
栖原だけは、最後まで納得がいかない顔をしていた。
「……本当に、すぐ入るから」
悔しそうにそう言い残し、栖原は蘭丸の指示に従って部屋を出る。
岩倉と呉代も続いた。
最後に蘭丸が扉の前で足を止める。
そして、焔羅を見た。
「焔羅ちゃん。お願いね」
焔羅は耳を伏せたまま、こくりと頷いた。
扉が閉まる。
部屋には、白依と哀。
そして焔羅だけが残された。
「哀、手を離せ」
白依が短く言った。
その声に、哀の身体がぴくりと揺れる。
「殺しては……くれないのですか……」
悲痛な声だった。
縋るようで。
諦めるようで。
それでも、どこかで白依の答えを恐れている声だった。
白依は、哀を見つめたまま答える。
「ああ」
その一言で、哀の顔から表情が消えた。
無理に作っていた笑みが、崩れる。
白依の手を包んでいた哀の両手が、力なく落ちた。
それを確かめてから、白依は哀の首から手を離す。
焔羅が、小さく安堵の息を漏らした。
けれど、空気はまだ重い。
哀は俯いたまま、震えていた。
声も出さず。
泣くことすら、うまくできないように。
白依はそんな哀の前で、静かに腰を下ろした。
床に膝をつく。
哀と目線を近づける。
それから、焔羅へ視線を向けた。
「お前も」
短い呼びかけ。
焔羅は一瞬だけ躊躇した。
だが、すぐに白依と哀の近くへ歩み寄る。
鈴が、小さく鳴った。
焔羅は二人の傍で足を止める。
白依は、哀と焔羅を順に見た。
何を言うべきか。
何から言えばいいのか。
まだ、分からない。
けれど、もう逃げることはできなかった。
白依は静かに息を吸う。
そして、重く沈んだ空気の中で、ゆっくりと口を開いた。
「お前たちには、白依の過去を話しただろう。白依は災いとして生まれ落ちた」
哀は俯いたまま、黙っている。
焔羅もまた、言葉を挟めずに白依を見ていた。
「周りを不幸にしてきた。両親も、じじいも」
白依の声は淡々としていた。
けれど、その奥には沈みきった重さがある。
「今も、お前たちにも災いをもたらしてしまった。不幸に巻き込み、傷つけた。だから――」
哀の指が、床の上でわずかに震えた。
「不幸って、なんですか」
小さな声が、白依の言葉を遮った。
震えた声だった。
けれど、確かに哀の声だった。
白依と焔羅が、哀を見る。
哀は俯いたまま、顔を上げない。
それでも、言葉を続けた。
「私は一度でも、今が不幸だと言いましたか」
白依は答えられなかった。
「私は……」
哀の肩が震える。
その震えが、傷のせいか、涙なのか、怒りなのか、白依には分からない。
「私は、白依様と出会ってから……」
声がかすれる。
それでも、哀は止まらなかった。
「白依様と共にいられてから……初めて、生きていていいと思えたんです」
白依の赤い瞳が、わずかに揺れる。
哀は顔を上げた。
涙で濡れた目。
腫れの残る顔。
痛々しい姿のまま、それでも哀は白依を見た。
「私にとって!」
哀が声を荒らげる。
「白依様と出会い!共にいることが、何より幸せなんです!」
部屋に、その叫びが響いた。
焔羅が小さく息を呑む。
「哀殿……」
哀は白依を見つめたまま、涙を流していた。
けれど、その目は逸れない。
「もし」
哀は、涙を流したまま言った。
「白依様が私たちを不幸にするというのなら」
今にも折れてしまいそうなほど、細く、弱い声。
それでも、その奥には確かな芯があった。
「私は、傍で幸せであり続け、この命尽きる時まで証明してみせます」
白依は何も言えない。
ただ、哀を見つめていた。
「白依様は、私の神様です」
哀はまっすぐに白依を見る。
その瞳にあるのは、怯えではない。
縋るだけの弱さでもない。
選び取った者の、歪で、真っ直ぐな信仰だった。
「たとえ白依様が悪神であろうが、邪神であろうが」
涙が頬を伝う。
それでも、哀は笑わなかった。
もう、無理に笑おうとはしなかった。
「私は白依様の傍に在りたいです」
焔羅は、黙って哀を見ていた。
耳を伏せ、息を殺すように。
白依の赤い瞳が、微かに揺れる。
哀は震える手で床を掴んだ。
それでも視線だけは逸らさない。
「そんな私の気持ちを……」
声が詰まる。
けれど、哀は言い切った。
「不幸だと、決めつけないでください」
部屋に静寂が落ちた。
それは責める言葉だった。
願う言葉だった。
そして、哀が初めて白依へ向けた、反抗の意識だった。
白依は、動けなかった。
災いだと。
離れるべきだと。
そう決めたはずの心が、哀の言葉に掴まれている。
白依が不幸だと呼んだものを、哀は幸せだと言った。
白依が遠ざけようとしたものを、哀は自分の意志で選ぶと言った。
その事実が、白依の胸の奥を強く叩いた。
哀は、じじいの仇である陰陽師の血筋。
焔羅も、ただ勝手に懐いてきただけの獣。
そう思っていた。
そう思っていたはずだった。
なのに、気づけばその存在は、白依の中で大きく膨らんでいた。
切り捨てられるものではなくなっていた。
遠ざければいい。
守るために離れればいい。
そう決めたはずなのに、哀の言葉が、焔羅の震える気配が、白依の奥底に沈めていたものを掬い上げていく。
いいのだろうか。
また、失うだけかもしれないのに。
白依自らのせいで、大切なものを壊してしまうかもしれないのに。
それでも。
欲してしまっても、いいのだろうか。
「白依は」
声が、落ちる。
哀と焔羅が、白依を見る。
「お前たちに、傷ついてほしくない」
その声は、いつものように平坦ではなかった。
かすかに揺れていた。
「いっそ、離れてほしい」
白依自身が、その震えに気づく。
けれど、止められなかった。
「だから……」
喉の奥が詰まる。
言葉にするほど、胸の奥が痛む。
「白依のせいで、白依の前で、不幸にならないでくれ」
哀と焔羅の顔が、驚きに変わった。
哀は目を見開き、言葉を失う。
焔羅も息を呑み、耳を伏せたまま白依を見つめていた。
白依は、なぜ二人がそんな顔をするのか分からなかった。
分からないまま、赤い瞳を伏せる。
その時。
白依の左頬を、一筋の雫が伝った。
白依はそれに気づかない。
ただ、胸の奥から溢れてくるものを抑えられず、静かに唇を噛み締めた。
部屋の中から、音が消えた。
哀も、焔羅も、何も言えなかった。
白依が涙を流した。
その事実だけが、二人の胸を強く締めつける。
痛みを受けても、血を流しても、いつも変わらぬ表情をしている白依。
左目から、たった一筋だけ。
それでも確かに、涙を流していた。
静まり返った部屋。
焔羅の頭の中で、伝えたい言葉がいくつも渦を巻いていた。
主は災いではない。
我も不幸ではない。
哀殿と同じ気持ちだと伝えなければならない。
今すぐに。
焔羅が、ようやく声を絞り出した。
「我だっ――」
その瞬間だった。
ばんっ!
部屋の扉が、豪快に開かれる。
扉を開けたのは岩倉だった。
「ぐふっ……嬢ちゃんたち……」
強面の顔が、涙と鼻水で台無しになっている。
そのあまりの迫力と情けなさに、部屋の空気が一瞬で別のものに変わった。
直後、栖原が岩倉の背後から跳び上がる。
ぱしんっ、と小さな手が岩倉の後頭部を叩いた。
「ばか。なんてタイミングで入っていくのよ」
「だってよぉ……」
岩倉は鼻を啜りながら、情けない声を漏らす。
栖原は額に手を当てた。
「まったくもう……」
その後ろから、呆れたような顔の蘭丸が入ってくる。
さらに、目元を赤くした呉代も静かに続いた。
どうやら全員、扉の前で聞いていたらしい。
「我の台詞が……」
焔羅がぼそぼそと何かを呟く。
耳も尻尾も、どこか不満げに揺れていた。
だが、岩倉はそんな焔羅の様子などお構いなしだった。
ぐい、と涙を腕で拭い、部屋の中央へ一歩踏み出す。
「話は聞いた!」
野太い声が響く。
「嬢ちゃん!それにワンコ!」
岩倉は哀と焔羅を真っ直ぐに見た。
「強くなれ!」
「「え……」」
哀と焔羅の声が重なる。
「味方ではないだの、敵にはならないだの、めんどくせぇ!」
岩倉は胸を張り、豪快に言い放った。
「俺は嬢ちゃんたちの味方だ!」
蘭丸が片手で顔を覆う。
「岩倉くん……」
「だが!」
岩倉は蘭丸の声を遮るように続ける。
「ボスの意向を無視するわけにもいかねぇ!」
その言葉に、蘭丸は何も言わなかった。
岩倉は哀と焔羅を見下ろす。
強面の顔は涙でぐしゃぐしゃのままだ。
けれど、その目だけは真剣だった。
「だから、俺なりの協力として強くしてやる!」
哀は呆然と岩倉を見上げる。
焔羅も口を半開きにしたまま固まっていた。
白依だけが、静かに岩倉を見ている。
「強く……」
哀が小さく呟く。
岩倉は大きく頷いた。
「おう!守られるだけじゃなくてよ、背中を任せてもらえるように。白い嬢ちゃんが無茶しても、隣に立っていられるくらいに」
「主の、隣に……?」
焔羅が困惑したように白依を見る。
白依は何も言わない。
ただ、ほんの少しだけ目を伏せた。
岩倉は拳を握りしめる。
「傷ついてへこむなら、強くなれ。傷つけたくねぇなら、なおさら強くなれ。離れるとか死ぬとか、そんな話の前にやれることがあるだろうが!」
その言葉は荒い。
けれど、真っ直ぐだった。
蘭丸は深く息を吐き、肩を竦める。
「もう……本当に不器用なんだから」
けれど、その口元には小さな笑みがあった。
哀と焔羅は、互いを見つめた。
涙で濡れた哀の瞳。
不安げに揺れる焔羅の目。
哀は小さく頷いた。
焔羅も、それに応えるように頷く。
「……はい」
哀が掠れた声で言う。
「強く、してください」
「我もだ!」
焔羅がぐっと胸を張った。
「我も、もっと強くなる!主も哀殿もまとめて守れるくらいに!」
岩倉は大きく頷く。
「おう!その意気だ!」
部屋の空気が、ほんの少しだけ変わった。
重苦しいものが完全に消えたわけではない。
今までのやり取りも、過去も、何ひとつなかったことにはならない。
それでも、先ほどまでのような行き場のない沈黙ではなかった。
進む先が、わずかに見えた気がした。
ただ一人。
白依だけは、どこか不満げだった。
赤い瞳を細め、哀と焔羅を見る。
二人が強くなる。
それは、二人がまた傷つく場所へ近づくということだ。
なら。
白依が、もっと強くなればいい。
(哀も焔羅も戦う必要などないほどに。白依が強くなって二人を守れば……もう、なにも失わないために)
その考えが、胸の奥に静かに沈んだ。




