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神も人も〜人に砕かれた神の核を巡る、現代妖異譚〜  作者: 佐藤 潮


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第50話 わがまま

蘭丸は、まっすぐに白依の目を見つめた。


「白依ちゃんにとって、哀ちゃんや焔羅ちゃんはなに?」


その問いに、白依はすぐには答えなかった。


赤い瞳が、わずかに伏せられる。


初めて哀を見た時、白依はただの変な女としか思わなかった。


白依様。


そう呼び、白依についてくる女。


何を考えているのか分からない、奇妙な人間。


それくらいの認識だった。


その後、哀がじじいの仇である陰陽師の血筋だと知った。


黒杖家。


御三家。


白依が憎むべき者たちと同じ側にいた人間。


だから、利用する程度の感情しかなかった。


使えるなら使う。


邪魔なら捨てる。


それでいいと思っていた。


焔羅もそうだ。


謎に懐いてきた式神。


勝手についてきて、勝手に主と呼ぶ、不思議な獣。


最初はそれくらいにしか思っていなかった。


けれど。


一緒に過ごした。


共に行動し、眠り、食事をし、話をした。


哀は白依を信じ続けた。


焔羅は白依の傍に在り続けた。


気づかないふりをしていただけで、少なからず愛着は湧いていたのだと思う。


だからこそ。


白依のせいで、二人が傷つくのは耐えられない。


哀が血に濡れ、意識もなく運ばれた姿。


焔羅が耳を伏せ、自分を責めるように震えていた姿。


それを思い出すだけで、胸の奥が嫌な形に軋む。


白依は、ゆっくりと息を吐いた。


「……分からん」


そう答える。


蘭丸は口を挟まない。


白依は続けた。


「ただ」


言葉を探すように、少しだけ間を置く。


「白依の近くで……白依のせいで傷つくのは、嫌だ」


それは、白依にとって精一杯の答えだった。


大切だとか。


守りたいだとか。


そんな言葉を、白依はうまく扱えない。


けれど、それだけは確かだった。


哀も、焔羅も。


もう、自分のせいで傷ついてほしくなかった。


「白依ちゃんが自分のことを災いというのは、きっと今までに何かがあったからなのでしょう」


蘭丸は、優しく語りかけた。


「あなたたちの関係性も、私は全部分かっているわけじゃない」


白依は黙っている。


赤い瞳は蘭丸を見ていたが、その奥にあるものまでは読めない。


蘭丸はそれでも、言葉を続けた。


「でもね」


声が少しだけ柔らかくなる。


「哀ちゃんは、自分のせいで白依ちゃんが傷ついたって泣いていたわ」


白依の瞳が、わずかに揺れた。


「白依ちゃんも、哀ちゃんたちが自分のせいで傷ついたと思って、自責に沈んでいるんじゃないの?」


蘭丸は、まっすぐ白依を見る。


「同じことを考えて、同じように苦しんでいるのよ」


誰も口を挟まなかった。


静かに、蘭丸の言葉を聞いていた。


「すれ違っちゃだめよ」


蘭丸の声は、軽くなかった。


いつもの芝居がかった調子もない。


「私は白依ちゃんの選択を否定はしない。でももし、これから離れるなら」


一拍置く。


「きちんと話し合ってからにしなさい」


白依は答えない。


胸の奥が、重く揺れた。


その時だった。


二階から、何かが倒れるような物音が響いた。


続けて、焔羅の叫び声のようなものが聞こえる。


「哀殿!」


その場にいた全員が、反射的に二階へ視線を向けた。


「まさか、もう目が覚めたの!?」


栖原が弾かれたように立ち上がる。


そして、急いで階段へ向かった。


「俺も行く!」


岩倉もすぐに後を追う。


大きな足音が、階段を駆け上がっていく。


呉代も一歩踏み出しかけたが、白依の様子を見て足を止めた。


白依は、その場に立ち尽くしていた。


二階へ向かうでもなく。


蘭丸を見るでもなく。


ただ、動けずにいた。


行かなければならない。


哀が起きて、暴れている。


それは分かっている。


分かっているのに、足が動かなかった。


哀に会えば、きっと迷う。


あの赤く腫れた顔を見れば。


掠れた声で白依様と呼ばれれば。


白依は、きっと離れられなくなる。


それでは駄目だ。


哀をこれ以上巻き込まないために、離れると決めた。


焔羅にも、哀の傍にいてやれと言った。


その裏で、白依は二人から離れるつもりだった。


だからこそ。


今、哀の声に応えてしまえば、その決意は崩れる。


白依は自分の胸元を、無意識に掴んでいた。


痛みはない。


傷も塞がっている。


それなのに、胸の奥だけが妙に重かった。


「……」


白依は何も言えなかった。


その肩に、蘭丸の手がそっと置かれる。


白依はわずかに目を動かした。


だが、蘭丸は何も言わなかった。


行きなさいとも。


逃げなさいとも。


大丈夫とも言わない。


ただ、黙って肩に手を置いていた。


その沈黙が、白依の逃げ道をひとつ塞いだ。


同時に、ほんの少しだけ背中を押した。


白依は、ゆっくりと息を吐く。


そして、二階へ向かった。


階段を上る足音が、やけに大きく響く。


白依は何も言わなかった。


ただ、二階へ近づくにつれて聞こえてくる声に、赤い瞳をわずかに細める。


「哀殿!落ち着け!」


焔羅の叫び声。


それに重なるように、哀の掠れた声が聞こえた。


「離して……っ、白依様のところへ……!」


「無理に動いちゃだめ!」


栖原の鋭い制止。


「お、おい嬢ちゃん!傷が開くって!」


岩倉の慌てた声。


部屋の前まで来ると、中の混乱がはっきりと伝わってきた。


白依は扉の前で足を止めた。


手を伸ばせば、すぐに開けられる距離。


だが、その指は一瞬だけ止まる。


扉を開ければ、哀がいる。


白依を呼ぶ哀がいる。


白依のせいで傷ついた哀が、それでも白依を求めている。


それが、白依には分からなかった。


どうして。


なぜ。


白依といれば傷つくと、分かっているはずなのに。


それでも哀は、白依を呼ぶ。


「白依様……っ、白依様は……!」


扉の向こうから聞こえた声に、白依の赤い瞳が静かに揺れた。


蘭丸は隣で何も言わない。


呉代も息を呑んだまま、白依を見ていた。


白依は、もう一度だけ息を吐いた。


そして、扉へ手をかけた。


扉を開けると、床を這うようにして扉へ向かう哀の姿があった。


焔羅と栖原が、必死にそれを止めている。


「哀殿、だめだ!」


「傷が開くって言ってるでしょう!」


それでも哀は、震える腕で床を掴み、前へ進もうとしていた。


その時。


白依と哀の目が合った。


哀の動きが、ぴたりと止まる。


「……白依様……」


その声はか細く、今にも擦り消えてしまいそうだった。


白依は、哀の姿を見て奥歯を噛み締める。


治ってきてはいる。


けれど、顔の腫れはまだ引ききっていない。


袖から覗く腕には痣が残り、包帯の隙間から痛々しい傷跡も見える。


そのすべてが、白依の胸を深く抉った。


白依が口を開くより早く、哀が頭を床へ打ちつけた。


ごん、と鈍い音が響く。


「申し訳ありません!」


哀の声が震える。


「私のせいで、白依様が……!」


栖原が反射的に駆け寄ろうとした。


「ちょっと――」


だが、それを岩倉が手で止める。


栖原は文句を言おうとして岩倉を睨んだ。


けれど、その顔が真剣そのものだったため、言葉を飲み込む。


蘭丸も、静かに頷いていた。


今は止める場面ではない。


そう言われた気がした。


栖原は唇を引き結び、悔しそうに一歩下がる。


「哀殿……」


焔羅が不安そうな声を漏らした。


耳を伏せ、哀と白依を交互に見ている。


哀は床に額をつけたまま、震えていた。


「私が……私が攫われたから……白依様が傷ついて……目を覚まさなくて……」


言葉が途切れる。


涙が床に落ちる。


「申し訳、ありません……」


白依は何も言えなかった。


ただ、その場に立ち尽くし、床に頭を下げる哀を見つめていた。


哀の謝罪は、間違っている。


哀は悪くない。


哀は、白依のせいで攫われた。


白依のせいで、傷ついた。


全部、白依が原因だ。


そう思うのに。


それでも、別れを告げるなら今が最適だと分かってしまった。


哀は今、自分を責めている。


白依がいなければ、そんな風に思うこともない。


焔羅もそうだ。


白依の傍にいるから、傷つく。


白依のために、苦しむ。


ならば、今ここで切り離すべきだ。


白依は、重い口を開いた。


「いい」


短い声が落ちる。


哀が、びくりと肩を震わせた。


「お前は悪くない」


その言葉に、哀はゆっくりと顔を上げる。


腫れの残る顔。


涙に濡れた目。


その瞳が、縋るように白依を見つめていた。


白依は、その視線から逃げなかった。


「全部、白依が原因だ」


哀の身体が、かすかに震える。


「だから……」


そこで、白依は言葉に詰まった。


続きは決まっている。


決めたはずだ。


哀と焔羅を、ここに置いていく。


自分から離す。


もう関わらせない。


それが二人のためだと、そう思っている。


なのに、声が出ない。


喉の奥に、何かが引っかかる。


白依は奥歯を噛み締めた。


そのわずかな沈黙だけで、哀も焔羅も、察してしまった。


「主――」


焔羅が何かを言おうとした。


だが、それを哀が止めた。


哀が、震える片手をわずかに横へ出した。


それだけで、焔羅の言葉は途切れる。


哀は震える腕に力を込め、ゆっくりと身体を起こした。


床に座る。


乱れた呼吸を整えるように、一度だけ目を閉じる。


そして、白依を見上げた。


「白依様」


その声から、震えは消えていた。


「近くへ来て頂けますか?」


白依は答えない。


ただ、哀の目の前まで歩いた。


床に座る哀と、立ったままの白依。


二人の距離は、もう手を伸ばせば届くほど近い。


哀は震える手を伸ばした。


そして、白依の両手を掴む。


白依は眉をひそめた。


「何を――」


言い終える前に、哀は白依の手を自分の首元へ導いた。


白依には、意味が分からなかった。


だが、次の瞬間。


哀の言葉で、白依は自分が口にしようとしていたことの重さを知る。


白依の両手が、哀の首元に置かれる。


その上から、哀の両手がそっと白依の手を包み込んだ。


まるで、祈るように。


まるで、願うように。


「白依様の手で、私を殺してください」


部屋の空気が凍った。


その場にいた全員が、目を見開く。


焔羅の身体が強張った。


栖原が息を呑む。


岩倉の顔から血の気が引く。


呉代は声を失い、蘭丸だけが思わず声を荒らげた。


「ちょっと、哀ちゃん!何を言ってるのよ!」


だが、哀は白依から目を逸らさなかった。


涙を流していた。


けれど、その顔は笑っていた。


白依と初めて出会った時と同じように。


壊れそうなほど弱く。


けれど、白依だけを見ている笑みだった。


「私は」


哀は静かに言う。


「白依様と一緒にいることが出来ないなら、この世に未練はありません」


白依の指先が、わずかに震えた。


哀はその手を、さらに優しく包む。


「ですが、せめてものわがままとして」


涙が頬を伝い、床へ落ちる。


「白依様の手で死にたいです」


その声は、狂気ではなかった。


怒りでも、脅しでもなかった。


ただ、哀にとってそれが真実なのだと分かるほど、静かだった。


だからこそ、重かった。


白依は何も言えなかった。


喉の奥が、凍りついたように動かない。


白依は、哀を傷つけないために離れようとした。


なのに。


その言葉が、哀にとってどれほど残酷なものだったのか。


白依は今、初めて理解した。

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