第48話 揺れる
栖原は、すぐに岩倉へ指示を飛ばした。
「豪!この子を抑えて!」
「お、おう!」
岩倉は慌ててベッドへ近づく。
そして、大きな手で哀の身体を押さえた。
ただし、力任せではない。
傷に触れないよう、点滴の管を引っかけないよう、骨に響かせないよう。
その大きな身体からは想像できないほど慎重に、暴れる哀の身体を支える。
それでも、哀の悲痛な叫びは止まらなかった。
「ああ!白依様……っ!私が……私のせいで……!」
泣き叫ぶ声が、部屋に響く。
焔羅は狼狽えていた。
哀を助けたい。
けれど、どうすればいいのか分からない。
牙を剥くことも、炎を出すことも、今の哀を救うことにはならない。
ただ、その場で耳を伏せ、尻尾を下げて震えることしかできなかった。
栖原が素早く注射器を取り出す。
そして、岩倉に抑えられた哀の首元へ針を刺した。
その瞬間、焔羅が反射的に飛びかかろうとする。
「っ!」
だが、動きを止めた。
哀の叫びが、少しずつ弱まっていく。
荒く乱れていた呼吸が、徐々に落ち着いていく。
「白依……様……申し訳……ござい……ま……」
最後の言葉は、ほとんど声にならなかった。
哀の身体から力が抜ける。
震えていた指先が布団の上へ落ち、瞼がゆっくりと閉じた。
岩倉も、恐る恐る手を離す。
「……大丈夫、か?」
栖原は哀の呼吸と脈を確認し、小さく頷いた。
それから、焔羅へ向き直る。
「ただの鎮静剤よ。安心して」
焔羅は、まだ警戒を解ききれない目で栖原を見上げていた。
栖原は静かに続ける。
「あれ以上暴れると、傷が開いて危険だったの。荒療治になってしまったけれど」
「……そうか」
焔羅は小さくそう言った。
そして、眠った哀の傍へ歩み寄り、身体を寄せ、丸くなった。
首元の鈴が、ちり、と弱く鳴る。
焔羅は眠る哀を見つめたまま、耳を伏せる。
「哀殿……すまぬ」
その声は、誰に届くでもなく、部屋の静けさに溶けていった。
蘭丸は、背を向けていた。
いつものように笑っていない。
軽口も叩かない。
ただ、扉の方を向いたまま立っている。
その背中が、小刻みに震えていた。
「ボス」
栖原が、静かに声をかける。
「ひとまずは大丈夫だと思う」
蘭丸は少しだけ顔を俯かせたまま、短く息を吐いた。
「そう」
返ってきた声は、いつもより少し掠れていた。
「ごめんなさいね。どうも、ああいうのは苦手で……」
その言葉に、呉代が小さく眉を寄せる。
「ボス……」
蘭丸は振り返らなかった。
ただ、肩をすくめるようにして笑う。
「もう平気よ」
そう言って、いつもの調子を取り戻そうとする。
けれど、その声はどこか頼りなかった。
栖原は何も言わず、眠る哀の様子をもう一度確認する。
岩倉も、いつもの豪快さを抑えたまま静かに頷いた。
「……出ましょう」
栖原がそう告げる。
蘭丸も、呉代も、岩倉もそれに従った。
扉が静かに開く。
最後に呉代が振り返る。
ベッドの上で眠る哀。
その傍で丸くなり、耳を伏せたまま寄り添う焔羅。
焔羅は誰かを見送る余裕もないように、ただ哀の傍から離れようとしなかった。
呉代は唇を結び、静かに扉を閉める。
部屋には、哀と焔羅だけが残された。
一階へ戻る廊下。
その壁に、ひとつの影が寄りかかっていた。
薄暗い照明の下で、静かに腕を組んでいる。
蘭丸はその姿を見つけると、少しだけ眉を下げた。
「ここまで来てたなら、入ってくれば良かったのに……」
影は、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと呟く。
「……犬」
その短い返答に、蘭丸は肩をすくめた。
「烏丸くん、まだ苦手なのね」
壁にもたれていた男――烏丸斎は、答えなかった。
ただ、わずかに視線を逸らす。
それが肯定の代わりだった。
蘭丸は小さく息を吐き、それ以上は追及しない。
「まあいいわ。下で今後のことについて話しましょう」
蘭丸がそう言うと、烏丸は無言で壁から背を離した。
足音はほとんどしない。
一行はそのまま階段を下り、一階のBARへ戻る。
照明を落とした店内。
磨かれたカウンター。
蘭丸、呉代、栖原、岩倉、そして烏丸。
全員がソファ席へ腰を下ろす。
重い沈黙が、しばらく場を満たした。
そんな中、最初に口を開いたのは栖原だった。
「それで、ボス」
静かな声だったが、その響きには医療に携わる者としての硬さがある。
「今まで治療や処置で詳しく聞けていなかったけれど、あの白い子はなんなの?」
蘭丸はすぐには答えなかった。
ソファに深く腰かけ、組んだ指先を見つめる。
「白依ちゃんね……」
栖原は言葉を続ける。
「あの子の身体は、確かに人間よ」
その言葉に、全員の視線が栖原へ集まった。
「肉体がある。傷を負えば血が出る。骨も、筋肉も、内臓も、人間のそれと大きく変わらない」
けれど、と栖原は眉を寄せる。
「ただの刃物や針では傷をつけられない。処置のために皮膚へ針を通すだけでも、かなり手間取ったわ」
岩倉が眉をひそめる。
「そりゃ……どういうことだ?」
「分からない」
栖原は即答した。
「少なくとも、普通の人間ではない」
店内に重い沈黙が落ちる。
栖原はさらに続けた。
「それに、ここへ運ばれてきた時点で、すでに傷の修復が始まっていた。裂かれた皮膚も、砕けかけていた骨も」
一度言葉を切り、栖原は小さく息を吐く。
「今では、ほとんど完治しているわ」
その事実に、呉代は驚きで目を見開いた。
岩倉も思わず声を漏らす。
「まじかよ……」
栖原は頷く。
「ええ。だからこそ不思議なの」
視線が、自然と二階へ向く。
「身体はもう目を覚ましてもおかしくない状態まで戻っている。それなのに、未だに目を覚まさない」
烏丸は目を瞑ったまま、沈黙していた。
何も言わない。
蘭丸はゆっくりと息を吐いた。
「じゃあ、白依ちゃんは人間ではないという結論?」
蘭丸の問いに、栖原はすぐには答えなかった。
視線を落とし、少しだけ逡巡する。
医療の知識だけで断じるには、あまりにも分からないことが多すぎる。
けれど、目の前で見たものをなかったことにはできない。
栖原は静かに息を吐いた。
「強いて言うなら、人間として診れば異常」
栖原は、言葉を選びながら続けた。
「妖として診れば、不完全。そんな感じかしら」
蘭丸は黙って聞いている。
栖原は、まっすぐ蘭丸を見つめた。
「治癒の仕方が、人ならざるものなのよ。妖や霊体に近い」
その言葉を最後に、栖原は口を閉じた。
医療に携わる者として、これ以上は推測になる。
だが、目の前で見た事実だけでも十分だった。
白依はただの人間ではない。
少なくとも、そう断じざるを得ない存在だった。
蘭丸はしばらく沈黙したあと、諦めたように息を吐いた。
「そうね」
そして、ゆっくりと話し出す。
「みんなも話は聞いているでしょ。“白い童”」
その言葉に、場の空気がわずかに強張る。
「お察しの通り、今巷を賑わせているその子よ」
岩倉が低く唸る。
「だから、鷹宮が出てきたわけか」
御三家。
その中でも式神を扱う鷹宮家。
人間でも妖でもない、白い童。
噂が本当であれば、鷹宮が動く理由としては十分すぎた。
だが、岩倉はそこで蘭丸へ視線を向ける。
「だったら、なんでボスはあの子らを良くしてやってんだ?」
蘭丸は答えない。
岩倉は続けた。
「俺や栖原、烏丸まで呼び戻してよ」
その問いに、呉代も栖原も口を挟まなかった。
烏丸も、目を閉じたまま沈黙している。
全員が、蘭丸の答えを待っていた。
蘭丸は組んでいた指をほどき、ゆっくりとソファの背にもたれる。
いつもの軽い笑みはない。
「……そうね」
呟くような声だった。
「最初は、ただの興味本位だったの」
蘭丸は、静かに口を開いた。
「役に立ってくれれば万歳。役に立たなくても、今の白依ちゃんの情報には価値がある。そんなところだったわ」
言い訳ではない。
蘭丸は、自分の打算を隠さなかった。
そこで一拍置き、言葉を続ける。
「こんな世界で生きていると、嫌でも実感するでしょ」
蘭丸の声が、少しだけ低くなる。
「弱肉強食」
呉代は、膝の上で拳を握りしめた。
その言葉が、綺麗事ではないことを知っている。
力を持つ者が奪い、力のない者が踏みにじられる。
御三家も、陰務省も、この裏側の世界に関わる者たちは、少なからずその理を知っている。
「力を持つと、特にそう。善悪の基準が自分本位になっていく。他者を見捨てることも、異常とは言えない世界よ」
蘭丸は淡々と言った。
「白依ちゃんたちを初めて見た時も、正直、白依ちゃんが哀ちゃんや焔羅ちゃんみたいな弱い子たちを利用しているだけだと思っていたわ」
誰も口を挟まない。
「それでも、特に思うところはなかった」
蘭丸はそう言い切った。
「だって、この世界では珍しくないもの」
そして、ふと呉代へ視線を向ける。
「でも、白依ちゃんたちは呉代ちゃんを助けてくれた」
呉代の肩が、わずかに震えた。
あの時のことを思い出したのだろう。
自分を、白依たちは敵として処理することもできた。
見捨てることもできた。
それでも、助けた。
「それに」
蘭丸は、ゆっくりと言葉を重ねる。
「白依ちゃんは、哀ちゃんのために怒った。助けるために動いた」
ソファに座る全員が、黙って聞いていた。
「哀ちゃんも、焔羅ちゃんもそう。誰かのために怯えて、誰かのために動いて、誰かのために傷つく」
蘭丸は小さく息を吐く。
その表情には、いつもの芝居がかった笑みはなかった。
「この世界では、珍しい子たちじゃない?それに人間か
どうかなんて些細な問題よ」
誰もすぐには答えなかった。
けれど、その沈黙は否定ではなかった。
岩倉は腕を組み、難しい顔で黙り込んでいる。
栖原は、二階へ意識を向けていた。
烏丸は相変わらず目を閉じていたが、その沈黙の質が少しだけ変わったように見えた。
呉代は握りしめた拳を、ゆっくりと緩める。
蘭丸はそんな一同を見渡し、少しだけ口元を緩めた。
「でも、勘違いしないでね」
蘭丸は、そこで軽く指を立てた。
「完全に白依ちゃんたちの味方になるわけじゃない。敵にならない。ただ、それだけよ」
言い切った蘭丸に、岩倉が豪快さを取り戻したように笑う。
「ボスがそう言うなら、俺はそれでいいぜ!」
大きな声が店内に響く。
それに続くように、栖原も肩をすくめた。
「まあね。治療した身としては、中途半端に投げ出すのは嫌だし」
そこで、これまで沈黙していた烏丸がようやく口を開いた。
「しかし、そうなると御三家とぶつかるのではないか」
静かな一言だった。
だが、その言葉に場の空気が少しだけ張り詰める。
御三家。
この裏側の世界で、その名はあまりにも重い。
蘭丸は少し考えるように顎へ指を添えた。
「うーん。白依ちゃんは、御三家を潰したいみたいだし……」
そして、あっさりと言う。
「その時は白依ちゃんに任せましょ」
あまりにも軽い口調だった。
そのせいで、一同は思わず声を漏らす。
「は?」
「え?」
「なにっ?」
「え……?」
杣木邸でその話を聞いていたはずの呉代まで驚いた顔をしているのを見て、蘭丸はくすりと笑った。
「その結果、いけ好かない御三家をぶっ潰してくれるなら、よくない?」
蘭丸は片目を閉じ、悪戯っぽくウインクする。
「近年、特に問題多くて、私たちにまでしわ寄せが来てるんだし」
その言葉に、全員が黙り込んだ。
否定したい。
軽すぎると言いたい。
けれど、誰もすぐには言い返せなかった。
御三家の横暴。
その影響を、夜桜もまた受けてきたからだ。
蘭丸はそんな一同を見渡し、いつもの笑みを浮かべる。
「もちろん、アタシたちから喧嘩を売る気はないわよ」
ゆったりと足を組み替える。
「でも、向こうが勝手に壊れてくれるなら、止める義理もないでしょう?」
その言い方に、岩倉は頭を掻き、栖原はため息を吐き、烏丸はまた目を閉じた。
「冗談みたいに聞こえるでしょうけど、半分は本気よ。そうなると陰務省も動くでしょうし」
呉代だけが、二階の方へ視線を向ける。
白依。
哀。
焔羅。
彼女たちがこれから進もうとしている道は、間違いなく危うい。
けれど、その道から目を逸らすには、もう夜桜は深く関わりすぎていた。
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二階の一室。
暖色の明かりに照らされたベッドの上で、白い少女が静かに眠っていた。
白い髪が枕の上に広がり、薄い胸がかすかに上下している。
その身体に負った傷はほとんど残っていない。
血に染まっていた肌も、裂けていた皮膚も、貫かれた痕も。
すでに、何事もなかったかのように塞がっていた。
だが、治ったというより、無理やり元の形へ戻されたようだった。
それでも、白依は目を覚まさない。
部屋には誰もいなかった。
ただ静かな呼吸音だけが、淡く響いている。
その時。
白く長いまつ毛が、ぴくりと揺れた。




