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神も人も〜人に砕かれた神の核を巡る、現代妖異譚〜  作者: 佐藤 潮


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第47話 三日間

暗い場所にいた。


そこが部屋なのか、蔵なのか、廊下の隅なのかも分からない。


ただ、寒く、至る所が痛い。


膝を抱えた小さな身体は震えていて、指先の感覚はとうになくなっていた。


――ざ、ざざ。


頭の上から、何かが降ってくる。


声、だった。


けれど、その輪郭はひどく曖昧で、耳に届く前に潰れていく。


『――た――失――』


何を言われているのか分からない。


分からないはずなのに。


胸の奥だけが、ぎゅっと縮こまった。


『――黒羽――この――』


顔を上げられなかった。


見上げてはいけない。


見られてはいけない。


そう思った。


床の木目だけを見つめる。


冷たい板の上に落ちた涙が、小さな染みになって消えていく。


誰も拭ってはくれない。


誰も抱き上げてはくれない。


痛む腕を庇うように抱え込む。


呪具に弾かれた痺れが、まだ骨の奥に残っていた。


――ざざ、ざり。


『――ない』


その言葉だけが、はっきり聞こえた。


使えない。


いらない。


ここにいてはいけない。


声は潰れているのに、意味だけは胸の奥に沈んでいく。


息が苦しくなった。


喉が震える。


幼い哀は、誰にも届かないほど小さな声で呟いた。


『……ごめんなさい』


謝れば許してもらえると思っていた。


謝れば、少しだけでも優しくしてもらえると思っていた。


けれど、返ってくるのは許しではなかった。


――ざざざざざざ。


耳の奥を埋め尽くすような、黒い音。


その中に、いくつもの声が混じっていた。


『――失敗――』


『――役立たず――』


『――いら――』


『――黒羽の――』


『――使えない――』


やめて。


聞きたくない。


そう思っても、声は頭の内側から剥がれてくれない。


身体が重い。


痛い。


寒い。


辛い。


誰か。


誰か――。


「哀殿……」


その声だけが、ノイズを裂いて届いた。


幼い頃には一度も聞いたことのない声だった。


けれど、不思議と怖くはなかった。


「っ……」


ゆっくりと目を開けると暖色の明かりが、ぼやけた視界の端に差し込んだ。


眩しすぎない、柔らかな光。


「哀殿!よかった!」


その声と同時に、膝の上に優しい温もりと重みが乗った。


哀は瞬きを繰り返し、視界を整える。


「焔羅……?」


そこには、ベッドに寝かされている哀の膝の上に前足を置き、嬉しそうにこちらを見つめる焔羅がいた。


「あぁ!そうだぞ!」


焔羅の声は、確かにいつものように元気だった。


けれど、どこか違和感がある。


哀はぼんやりとした頭のまま、焔羅を見つめた。


「その首の……それに、少し大きくなった?」


「わかるか!」


焔羅は誇らしげに胸を張る。


「哀殿を助けるために頑張ったら、こうなったぞ!」


焔羅の身体は、以前よりも少し大きくなっていた。


毛並みは変わらず白い。


けれど、その首には太い紅白の注連縄が巻かれ、小さな鈴が揺れている。


ちり、と微かな音が鳴った。


哀はその音を聞きながら、ゆっくりと息を吐く。


そっか。


助けられたんだ。


そう理解した瞬間、張り詰めていたものが、少しだけ緩んだ。


しかし、次に胸の奥へ浮かんだのは、安堵ではなかった。


焔羅に、白依に迷惑をかけてしまった。


自分のせいで、その実感が、じわじわと哀の胸を締めつけていく。


きっと、それが顔に出ていたのだろう。


焔羅は先ほどまでの嬉しそうな表情を少し曇らせ、不安そうに哀を見つめていた。


「哀殿……?」


その声が、さらに胸を苦しくさせる。


焔羅は悪くない。


心配させたいわけでもない。


助けてくれたことに、ありがとうと言わなければならない。


なのに、言葉が出てこなかった。


喉の奥に何かが詰まったようで、哀は小さく唇を震わせることしかできない。


その時だった。


こん、こん。


乾いたノック音が、部屋に響いた。


焔羅はすぐに振り返り、扉の方へ視線を向けた。


「入るわよ」


扉の向こうから、女性の声がした。


返事を待つことなく、扉が開いた。


入ってきたのは、小柄な女性だった。


幼くも見える顔立ち。


けれど、その立ち姿にはどこか凛とした大人の雰囲気がある。


自然と人を落ち着かせるような、不思議な空気を纏っていた。


そこで哀は、ようやく今の自分が置かれている状況を考えた。


ゆっくりと辺りを見渡す。


木の温もりを感じる部屋。


病室のように整えられた空間。


自分はベッドに寝かされ、腕には点滴が刺さっている。


「安心して」


哀の様子を見て、女性は小さく微笑んだ。


「ここは夜桜の二階よ」


「夜桜……」


掠れた声が漏れる。


助けられた。


ここまで運ばれた。


そこまでは理解できる。


けれど、聞きたいことが多すぎた。


白依様は。


あの男は。


そして、自分はどれほど迷惑をかけてしまったのか。


「あの、えっと……」


言葉にしようとして、喉が詰まる。


頭の中にはいくつも問いが浮かんでいるのに、うまく形にならない。


女性はそんな哀を急かすことなく、静かに見つめていた。


「とりあえず、ボスを呼んでくるわ」


柔らかな声でそう言う。


「大人しく待っていて。話はそこでまとめてしましょう」


女性はそう告げると、踵を返した。


扉が静かに開き、そして閉まる。


部屋には再び、暖色の明かりと、焔羅の小さな鈴の音だけが残った。


程なくして、部屋の扉がまた叩かれた。


こん、こん。


先ほどよりも少しだけ遠慮がちな音。


哀がそちらへ顔を向けると、扉が開かれる。


そして、入ってきた巨漢の姿に思わず目を見開いた。


「おお、嬢ちゃん!目ぇ覚めたのか!」


部屋に響く豪快な声。


その声量に、哀の肩がびくりと跳ねる。


身体が痛むせいで大きく動くことはできなかったが、反射的に焔羅の方へ視線を向けてしまう。


焔羅も一瞬だけ耳を立てたが、すぐに警戒を解いた。


「ちょっと邪魔よ。立ち止まらないの。まったく……」


巨漢の後ろから聞き覚えのある声がした。


蘭丸の、少し困ったような声。


それを聞いて、哀の胸にわずかな安堵が広がる。


「おー、すまんすまん」


巨漢は悪びれた様子もなく笑いながら、髪のない頭を掻いた。


その身体があまりにも大きいため、扉の向こうにいる蘭丸の姿がほとんど隠れている。


「ほら、どきなさい。病人の部屋で圧をかけないの」


「圧ってなんだよ。俺は心配して来ただけだろ」


「その体格と声量がもう圧なのよ」


蘭丸にそう言われ、巨漢はまた豪快に笑った。


哀はそのやり取りをぼんやりと見つめる。


張り詰めていた部屋の空気が、少しだけ緩んだ気がした。


哀は話を聞こうと、ゆっくり身体を起こそうとした。


その瞬間、全身に痛みが走る。


「つっ……」


思わず声が漏れた。


動かしただけで、骨も肉も軋むようだった。


「そのままで」


先ほどの小柄な女性が、静かに制止する。


「あなたは、死んでいてもおかしくないほど傷ついていたの。それに三日間も目覚めなかった、無理に起き上がらないで」


その言葉に、哀は身体を強張らせた。


死んでいてもおかしくない。


三日間も寝ていた。


そう言われても、まだ現実味がなかった。


ただ、身体に残る痛みだけが、それが大袈裟ではないことを教えてくる。


「にしても、哀ちゃんの目が覚めて良かったわ」


蘭丸が、いつもの調子より少しだけ柔らかく微笑んだ。


その声に、哀は小さく頭を下げようとする。


「あの、ありがとうございます」


「お礼はまあ、この子たちに言ってあげて」


蘭丸はそう言って、大柄な男と先ほどの女性を前へ出した。


さらに、蘭丸の背後から呉代がひょこりと顔を出す。


その姿を見て、哀は言葉に詰まった。


「えっと……」


「そうね。まずは自己紹介かしら」


小柄な女性が、落ち着いた声で口を開く。


「私は栖原露乃。夜桜の一員で、医療の心得があるわ」


凛とした声だった。


柔らかいが、どこか芯がある。


哀が小さく頷くと、今度は大柄な男が一歩前に出た。


「俺は岩倉豪だ!」


部屋に響くほどの声量だった。


哀の肩がまた小さく跳ねる。


「よろしくな、嬢ちゃん!本当に目ぇ覚めて良かったぜ!」


豪は歯を見せて笑う。


その笑顔には裏表がなく、ただ本気で安心しているのが分かった。


栖原はそんな岩倉へ怪訝そうな視線を送る。


「声が大きいわ。病人の前よ」


「おっと、すまんすまん」


豪は頭を掻きながら謝る。


だが、声量はあまり下がっていなかった。


栖原は小さくため息を吐く。


本人は、まるで気にも留めていない。


そのやり取りを見て、哀は少しだけ目を瞬かせた。


知らない人たち。


けれど、自分を助けるために動いてくれた人たち。


そう思うと、胸の奥がじんわりと熱くなった。


それから哀は、栖原、岩倉、呉代の三人に改めて感謝を伝えた。


まだ身体は痛む。


声を出すだけでも喉が掠れる。


それでも、言わなければならないと思った。


三人はそれぞれ違う反応を見せた。


栖原は静かに頷き、岩倉は「気にすんな」と豪快に笑い、呉代は少しだけ目を伏せてから、小さく「無事でよかった」と呟いた。


その後、哀は蘭丸から今回の経緯を聞かされた。


自分を攫った者たち。


白依たちの突入。


蘭丸が裏で手を回していたこと。


そして、鷹宮家の関与。


「そんな……鷹宮家が……」


一瞬、驚きはあった。


だが同時に、どこか腑に落ちた気もした。


自分を殴り、蹴り、罵ったあの男の雰囲気。


人を人として見ない目。


役に立つかどうかだけで価値を測るような言葉。


哀には、覚えがあった。


哀の拳に、知らず力が入る。


布団の上で握り締めたその手。


その指には、蘭丸から贈られた指輪がはめられていた。


蘭丸はそれを見つめる。


いつもの軽い笑みではなく、どこか悲しげな目だった。


「ごめんなさいね」


蘭丸が静かに言う。


「その指輪が、役に立たなくて……」


哀はその言葉に、はっとする。


そういえば。


あの時。


殴られた時も、蹴られた時も、指輪は何もしてくれなかった。


蘭丸は哀の表情を見て、ゆっくりと説明を続ける。


「それは《黒守環》という呪具なの」


蘭丸の視線が、哀の指先へ落ちる。


「あの時、呉代ちゃん相手に実演したのは、呪具による攻撃に対する防御」


哀は指輪を見つめる。


黒く小さな輪。


あの時は確かに、自分を守ってくれた。


「でもね」


蘭丸の声が、少しだけ低くなる。


「ただの物理的な攻撃には発動しないの」


その言葉が、哀の胸に静かに落ちた。


指輪が役に立たなかったわけではない。


ただ、相手の暴力があまりにも単純で、あまりにも直接的だった。


殴る。


蹴る。


痛めつける。


そこに呪も術もない。


だから、《黒守環》は反応しなかった。


哀は指輪を握り込むように、そっと手を重ねた。


「……そう、だったんですね」


掠れた声で呟く。


蘭丸は、少しだけ眉を下げた。


「守ってあげられると思ったんだけどね」


その声には、いつもの芝居がかった軽さがなかった。


哀は首を振ろうとして、痛みに小さく息を詰める。


それでも、どうにか言葉を絞り出した。


「違います……」


指輪を見つめたまま、哀は小さく続ける。


「蘭丸さんは、何も謝る必要はありません」


哀は、指輪にそっと触れたまま言った。


「私が弱い。それだけです」


その言葉に、部屋にいる全員の表情が曇った。


だが、哀は言葉を止めなかった。


「それに……」


まだ痛む顔を、無理やり笑みの形に変える。


腫れた頬が引き攣り、少しだけ痛んだ。


それでも、哀は笑った。


「私、誰かに贈り物を頂くのは、これが初めてだったんです」


蘭丸が、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。


ほんのわずかな間。


いつもの笑みが消える。


けれど、すぐに蘭丸はいつもの柔らかな笑みを浮かべた。


「そう」


短い返事だった。


だがその声には、哀には測りきれないほど、いくつもの感情が入り混じっているように聞こえた。


哀れみではない。


同情だけでもない。


悔しさと、優しさと、静かな怒り。


そのすべてを、蘭丸は笑みの奥へ隠した。


そして次の瞬間、ぱん、と軽く手を叩く。


「でも!だったらさらにごめんなさいだわ!」


急にいつもの調子へ戻った蘭丸に、哀は小さく瞬きをする。


「そんな大切な初めてを、アタシが奪っちゃって」


蘭丸は大袈裟に胸元へ手を当て、芝居がかった声で嘆いた。


「責任取らなきゃいけないかしら。ねえ、どうしましょう。アタシ、罪な女ならぬ罪なオカマね」


「ボス、それは少し違うと思います」


呉代が小さく突っ込む。


「違わないわよ。初めてよ?特に女の子の初めてって大事なのよ?」


「言い方に問題があります」


栖原が淡々と付け加える。


岩倉は豪快に笑った。


「がはは!」


「豪さん、声が大きい」


「おっと、すまん!」


重かった部屋の空気が、少しずつ緩んでいく。


哀はその空気に戸惑いながらも、指輪へ視線を落とした。


黒守環。


守りきれなかった指輪。


けれど、自分にとって初めての贈り物。


哀は痛む指先で、そっとその輪に触れる。


胸の奥が、少しだけ温かくなった。


そこで、哀は一番気になっていたことを口にした。


「あの、白依様はどちらに?」


次の瞬間。


時が止まったように、部屋に静寂が満ちた。


それまで緩んでいた空気が、音もなく冷えていく。


「え……」


哀の背筋に、嫌な感覚が走った。


誰も口を開かない。


先ほどまで賑やかだった部屋が、嘘のように静まり返っている。


「……焔羅?」


哀は、ゆっくりと焔羅へ視線を向けた。


蘭丸たちが部屋に来てから、ずっと静かだった焔羅。


その表情は、苦いものを噛み潰したように歪んでいた。


「白依様は?」


哀の声が、震える。


焔羅は耳を伏せた。


「あ、主は……」


その先を、哀は聞きたくなかった。


ありえない。


絶対にありえないことだと、哀は信じて疑わなかった。


そこで、哀はようやく気づいた。


目覚めた時から抱いていた違和感。


焔羅の声は、確かにいつものように元気そうだった。


自分の目が覚めたことを喜び、膝に前足を乗せ、嬉しそうにこちらを見ていた。


けれど。


焔羅の耳は、ずっと垂れたままだった。


尻尾も、力なく下がっている。


いつもなら、真っ先に白依のことを話すはずだった。


主はすごかった。

主が助けに来た。

主はやっぱり強かった。


そんなふうに、胸を張って話すはずの焔羅が。


目覚めてから一度も、白依の名を口にしていない。


哀の胸が、嫌な音を立てて沈んだ。


「焔羅……」


名前を呼ぶ声が、震える。


焔羅は顔を伏せた。


小さな鈴が、ちり、と弱く鳴る。


それから、焔羅は絞り出すように言った。


「ずっと、目を覚まさないんだ……」


一瞬だけ。


ほんの一瞬だけ、哀は安堵しかけた。


白依は、生きている。


最悪の予感は外れた、その事実に、胸の奥が縋りつこうとした。


けれど、すぐに思い出す。


自分は三日間も眠っていた。


三日。


その間ずっと、白依も目を覚ましていない。


哀の指先から、血の気が引いていく。


胸の奥が冷たくなり、呼吸の仕方が分からなくなった。


自分を助けるために。


自分のせいで。


白依様が。


その考えが浮かんだ瞬間、哀の視界がぐにゃりと歪んだ。


「――っ」


喉が引き攣る。


声にならない息が漏れる。


焔羅が何かを言った気がした。


蘭丸が名前を呼んだ気もした。


けれど、何も届かない。


気づけば、哀は絶叫していた。


「ああああああああああああっ!」


喉が裂けるほどの声だった。


身体中の傷が痛む。


胸が苦しい。


点滴の管が揺れ、布団が乱れる。


それでも、哀は止まらなかった。


「私のせいで……っ、私が……私なんかが……!」


言葉が崩れる。


涙が溢れる。


痛みも、恐怖も、罪悪感も、すべてが一気に胸の奥から噴き出した。


「白依様……白依様ぁ……!」


哀は震える手で顔を覆う。


けれど、涙は止まらない。


自分は助かった。


その代わりに、白依が目を覚まさない。


その事実が、哀の心を容赦なく締め上げていた。

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