第46話 帰還
第46話
夜空を切り裂くように、巨大な鳥影が滑空していた。
月明かりを受けた翼が、闇の中で大きく広がる。
その鉤爪には、櫻佳の身体が掴まれていた。
「ぐっ……」
身体にくい込む爪。
白依に殴られ、いまだ鈍く痛む頬。
首の奥に残る軋むような痛み。
それらが一斉に櫻佳を苛み、思わず苦痛の声が漏れた。
「お前はほんま、あほやな」
頭上から、男の呆れたような声が降ってくる。
櫻佳は痛みに顔を歪めながら、視線だけを上げた。
巨大な鷹の嘴が、声に合わせるように開閉していた。
まるで鷹そのものが喋っているかのように。
「今は序列七位やったか?」
低い声が夜空に落ちる。
「それが、あんな無様晒しよってからに」
櫻佳は言葉を返せなかった。
鷹宮家序列一位。
天狩の名を賜る男。
鷹宮迅。
かつて一度、櫻佳は彼に噛みついたことがある。
序列入りを果たし、自分の力を過信していた頃。
その時、灸を据えられた。
徹底的に。
思い上がりごと、踏み潰されるように。
そして今度は、迅が狙っていた獲物を横取りしようとした。
その結果、返り討ちに遭い、殺されかけたところを助けられた。
いや。
助けられた、などという都合のいいものではない。
回収されたのだ。
失敗した駒として。
無様を晒した鷹宮として。
櫻佳は鉤爪の中で、ただ唇を噛み締めることしかできなかった。
「にしても」
迅の声に、また軽さが戻った。
「まさか、俺より先に“あれ”を見つけて接触するとは思わなんだわ」
先ほどまで全身を締めつけていた圧が、わずかに緩む。
そのおかげで、櫻佳はようやく声を出すことができた。
「……申、し訳……」
しかし、迅はそれを遮る。
「謝罪はいらん」
その一言で、櫻佳の喉が再び締めつけられたように感じた。
「あの赤い瞳」
迅の声が、夜風の中に落ちる。
「形代やとしても俺を殴り、噛みつかんとする態度」
声は軽い。
だが、その奥にある熱は、ひどく濁っていた。
「あれは、俺が手に入れる」
その言葉が自分へ向けられたものではないことを、櫻佳は理解していた。
迅の興味は、すでに自分にはない。
あの白い少女へ向いている。
それでも、抑えきれない恐怖が全身を襲った。
鷹宮迅に目をつけられる。
それが何を意味するのか、櫻佳は知っている。
欲しいと思われたものは、逃げられない。
「今回の件は、今後の働きでチャラにしたらんこともない」
迅は淡々と言った。
「やから、せいぜい役に立つことやな」
櫻佳は鉤爪の中で、震える唇を必死に動かす。
「は、はい……」
それ以上の言葉は出なかった。
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巨大な鷹に櫻佳を連れ去られ、白依が倒れた。
旧鞍瀬療養所へ近づく、エンジンの重低音。
だが、焔羅はそんな音など気にも留めなかった。
「主!」
白依へ駆け寄る。
焔羅は白依の傍へ身を寄せ、どうしていいか分からず喉を震わせた。
一方で、呉代は未だ茂みから出ることができずにいた。
背には、ぐったりとした哀がいる。
早く動かなければならない。
白依も哀も、すぐに手当てが必要だ。
分かっている。
分かっているのに、身体が動かなかった。
建物内で、燈色の着流しの男から聞いた言葉。
鷹宮家、序列七位。
その名を聞いた時点で、呉代の中には覚悟していたはずの恐怖があった。
そして実際に、櫻佳とその式神を前にした時。
身体は震えた。
序列入り。
それは、御三家に関わる者ならば誰もが知る、明確な異常者の証だった。
だが、そのさらに上。
いや、最上位の存在が現れるなど、呉代は想像すらしていなかった。
鷹宮家序列一位、天狩・鷹宮迅。
その名を思い浮かべただけで、喉が締まる。
身体は震えるどころではなかった。
凍りついたように固まり、指先の感覚すら遠のいている。
呼吸も、鼓動も、思考すら。
一瞬、自分の身体機能がすべて停止してしまったように感じた。
それほどまでに、あの男の存在は異質だった。
呉代は茂みの中で、哀を背負ったまま立ち尽くす。
その視線の先では、焔羅が倒れた白依の傍で必死に声をかけていた。
そこへ、呉代の耳に聞き馴染みのある声が届いた。
「おい!呉代、無事か!?」
野太い声。
その声を聞いた瞬間、凍りついていた呉代の意識が、ようやく身体へ戻ってきた。
指先に感覚が戻る。
止まっていた呼吸が、浅く震えながら動き出す。
呉代は自然と、その声の方へ顔を向けた。
エンジン音の正体。
大型バイクのフロントライトが、闇を白く切り裂いている。
その光を背にして、こちらへ駆け寄ってくる大柄な影があった。
荒々しい足音。
肩で風を切るような走り方。
その影を見た瞬間、呉代の胸にわずかな安堵が広がった。
「……豪さん」
呉代は哀を背負い直し、強張っていた足に力を込めた。
まだ終わってはいない。
白依も、哀も、今すぐ手当てが必要だった。
焔羅は、近づいてくる影に即座に警戒を強めた。
倒れた白依を背に庇うように立ちはだかり、低く唸る。
毛が逆立ち、喉の奥から獣の声が漏れた。
呉代は慌てて焔羅の傍へ駆け寄る。
「大丈夫。あの人は夜桜の人間だから」
その言葉を聞いても、焔羅の警戒は完全には解けなかった。
だが、呉代の声に嘘がないことだけは分かったのだろう。
焔羅は一度だけ影を睨みつけると、すぐに白依の傍へ戻った。
倒れた白依の顔を覗き込み、必死に声をかける。
その間に、大柄な男は白依たちのすぐ側まで来ていた。
岩倉豪。
夜桜の人間だった。
「豪さん、なんでここに?それに、さっき鷹宮迅が……」
呉代の言葉に、豪はバツの悪そうな表情を浮かべた。
「あー……まさか天狩自ら行くとは思ってなくてよ」
そう言いながら、豪は髪のない頭をぽりぽりと指で掻いた。
その仕草だけ見れば、気の抜けた大男にしか見えない。
だが、呉代は知っている。
この男が、何度も修羅場を潜り抜けてきた人間だということを。
豪は呉代を見る。
「まあ、なんにせよ、お前が無事でよかった!」
歯を見せて笑う豪。
その笑顔に、呉代の胸が一瞬だけ緩みかける。
けれど、すぐに視線が白依へ向いた。
血に濡れて倒れた白依。
そして、自分の背でぐったりとしたまま動かない哀。
呉代は唇を噛み、豪へ向き直った。
無事。
その言葉を、素直に受け取れる状況ではなかった。
そんな呉代の心情を察したのか、豪の表情がすっと真剣なものへ変わった。
豪は白依と哀を交互に見た。
それから、腰に下げていた鞄へ手を突っ込み、二枚の札を取り出した。
「ちょい動くなよ」
短く告げると、豪は呉代の背にいる哀へ近づく。
そして一枚を、哀の背中へ貼った。
続けて、倒れている白依の傍へ膝をつき、もう一枚を胸元へ貼る。
焔羅が低く唸った。
豪の行動に反応し、今にも飛びかかりそうなほど身を強張らせる。
だが、焔羅は動かなかった。
白依へ札を貼る豪の表情が、あまりにも真剣だったからだ。
そこに悪意はない。
少なくとも、今この場で白依たちを害そうとする気配はなかった。
「応急処置とは言えねぇが……」
豪は札の貼られた白依を見下ろし、低く言う。
「これで、これ以上悪化はしねぇはずだ」
その言葉に、呉代は小さく息を吐いた。
けれど、安心しきるにはまだ早い。
白依も哀も、すぐにでも適切な処置が必要だった。
豪は慎重に白依の身体へ腕を回す。
血に濡れた小さな身体を、できるだけ傷に触れないようにゆっくりと抱え上げた。
焔羅がぴたりとその横についた。
「色々聞きたいことはあるだろうが、ひとまずは夜桜に戻るぞ」
豪は呉代へ視線を向けた。
「ボスも心配してた」
呉代は頷く。
背負った哀の重みを確かめ、車のある方へ歩き出した。
焔羅は最後まで白依と哀から目を離さない。
白依を抱えた豪。
哀を背負う呉代。
その後ろを、焔羅が寄り添うようについていく。
旧鞍瀬療養所には、砕けた石畳と血の匂いだけが残された。
そして一行は、呉代たちが乗ってきた車へ向かい、そのまま夜桜へ戻ることになった。
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陰務省、医務室。
「聞いてよ、朔くん。最近、いつになく澪ちゃんの機嫌が悪くてさー」
医務室の片隅。
カーテンで仕切られたベッドに腰をかけ、緋珠は盛大に愚痴を零していた。
その向かいで苦笑いを浮かべているのは、祓医部隊副隊長――如月朔。
白衣の袖を捲り、手元の書類に目を落としながらも、緋珠の話を無視することはできずにいる。
「大変ですね……」
含みを持たせた返事だった。
だが、緋珠は気にしない。
むしろ、同意を得たとばかりに身を乗り出した。
「そうなの!大変なの!」
緋珠は両手を広げ、大袈裟に嘆く。
「私はこんなに頑張ってるのに、澪ちゃんったら全然褒めてくれないし」
朔は曖昧に笑う。
かれこれ一時間以上、この状態だった。
診察でもなければ治療でもない。
ただ、陰務省総監である久遠緋珠が、医務室のベッドを占領して副隊長相手に愚痴を垂れ流している。
しかも内容の大半は、副総監である相楽澪に「怒られた」「冷たくされた」「構ってくれない」の三つで構成されていた。
朔は静かに息を吐く。
大変なのは澪さんの方では。
その言葉だけは、賢明にも飲み込んだ。
そんな中、不意に緋珠の背後のカーテンが開けられた。
しゃっ、と乾いた音が医務室に響く。
朔は反射的に顔を上げた。
そして、そこに立っている人物を見て、さっと顔を青ざめさせる。
「あ、夷織ちゃんも聞いてよ!澪ちゃんってさ――」
緋珠は振り向きながら、いつもの調子で愚痴を続けようとした。
だが、言葉は途中で止まる。
カーテンの向こうに立っていたのは、祓医部隊長の毒島夷織ではなかった。
絶賛愚痴の対象。
陰務省副総監、相楽澪。
澪は無言で立っていた。
表情は穏やかだった。
穏やかすぎるほどに。
「あ、み、澪ちゃん……」
緋珠の声が、わずかに上擦る。
その瞬間、朔は静かに悟った。
これは、関わってはいけない。
絶対に。
朔は手元の書類をそっと抱え直し、存在感を限界まで消した。
「では、僕は薬品の確認がありますので……」
誰に向けるでもなく小さく呟き、そそくさとその場を離れる。
緋珠が助けを求めるように視線を向けたが、朔は見なかったことにした。
医務室の片隅。
カーテンで仕切られたその空間に、緋珠と澪だけが残される。
澪はしばらく無言で緋珠を見下ろしていた。
緋珠は乾いた笑みを浮かべる。
「え、えへへ……聞いてた?」
澪はにこりと微笑んだ。
「はい」
緋珠の顔から、血の気が引いた。
次の瞬間、緋珠は即座に澪の腰へ抱きついた。
「ち、違うの!私はただ寂しかっただけなの!許して!」
言い訳を並べながら、頬を澪の腰へ擦り付ける。
その動きに迷いはない。
まるで最初からそうするつもりだったかのような、見事な速度だった。
澪は無言で、腰にしがみつく緋珠を見下ろす。
その視線は、先ほどよりもさらに冷たくなっていた。
やがて澪は、ひとつ大きくため息を吐く。
「総監の戯言は分かりましたから、離れてください」
「ざ、戯言!?」
緋珠が顔を上げ、心底傷ついたような表情を浮かべる。
だが、澪の表情は一切動かない。
「あと」
澪は静かに続けた。
「どさくさに紛れて、変なところを触らないでください」
「変なところって、どこのことかなー?」
緋珠はわざとらしく首を傾げる。
その瞬間、澪が小さく舌打ちをした。
医務室の空気が、ぴしりと凍る。
さすがの緋珠も、そこでようやく危険を察した。
緋珠はすっと澪から離れると、ベッドの上で正座した。
そして、一切の無駄がない動きで頭を下げた。
完璧な土下座だった。
「調子に乗りました。ごめんなさい」
澪はその姿を見下ろしながら、もう一度深くため息を吐いた。
そして、開けたカーテンを静かに閉める。
しゃっ、と布の擦れる音が響き、医務室の喧騒がわずかに遠のいた。
「例の白き童に鷹宮家が接触しました」
その一言に、緋珠の肩がぴくりと反応する。
先ほどまでベッドの上で土下座していた女の空気が、一瞬で変わった。
「まあ、予想はしてたけど」
緋珠はゆっくりと顔を上げる。
その瞳から、先ほどまでの軽薄さが消えていた。
「こんなに早く動くとはね……」
緋珠はベッドの端へ移動し、足を組む。
澪は無言で端末を差し出した。
緋珠はそれを受け取り、画面に表示された情報へ目を落とす。
数秒。
医務室の片隅に、重い沈黙が落ちた。
そして、緋珠の目がすっと細められる。
「……あのクソガキが」
低い声が、静かに落ちた。
先ほどまで朔に愚痴を零し、澪に泣きついていた女とはまるで別人だった。
陰務省総監。
久遠緋珠。
その名に相応しい、冷たい圧が狭いカーテンの内側を満たしていた。




