第45話 そこまで
ぱきん――。
白依の血にまみれた拳が、《白巌天蓋》を砕いた音が響き渡った。
白銀の守りが、硝子のように砕け散る。
そのまま白依の拳は止まらない。
砕けた守りの先にいた白鎧禽ごと、力任せに振り抜いた。
鈍い衝撃音。
白銀の猛禽が弾き飛ばされ、地面へ叩きつけられる。
その瞬間、櫻佳の頬に、ぴしゃりと何かが飛んだ。
白依の拳から散った血だった。
櫻佳はゆっくりと頬へ手を当てる。
指先についた赤を見る。
そして、殴り飛ばされた白鎧禽へ目を向けた。
白鎧禽は、地面に転がったまま、ぴくりとも動かない。
その光景を見て、櫻佳の頭は一瞬、理解を拒んだ。
白鎧禽が破られた。
《白巌天蓋》が砕かれた。
あり得ない。
そう思うのに、目の前の事実は変わらない。
櫻佳の喉が、小さく鳴った。
「……なにを」
声が、わずかに掠れる。
白依は答えない。
血に濡れた拳をゆっくりと下ろし、赤い瞳で櫻佳を見据える。
その左手は、まだ禍鶴の脚を掴んだままだった。
離していない。
守りを砕き、白鎧禽を殴り飛ばし、なおも禍鶴を逃がさない。
櫻佳の背筋に、冷たいものが這い上がる。
白依が、一歩踏み出した。
それだけで、櫻佳の身体が反応する。
無意識に、一歩後ずさった。
だが、その足はうまく地面を捉えられない。
体勢が崩れ、櫻佳はその場に膝をついた。
見上げる。
夜を背に、二つの赤い瞳があった。
月明かりの下、白依が櫻佳を冷たく見下ろしている。
白鎧禽は動く気配はなく、禍鶴は動けない。
守りを失った櫻佳が近すぎる。
下手に攻撃すれば、白依ではなく櫻佳を巻き込む。
誘鳥にも、この状況を覆す術はない。
櫻佳は必死に思考を巡らせる。
どう切り抜ける。
どう距離を取る。
どう立て直す。
だが、時は止まらない。
白依は待たない。
ぐい、と凄まじい力で胸ぐらを掴まれ、引かれる。
息が詰まる。
視界が跳ねる。
気づいた時には、あの赤い瞳が目の前に迫っていた。
近い。
血に濡れた白依の顔。
裂けた肌。
荒い息。
それなのに、その瞳だけは異様なほど冷えている。
櫻佳の喉から、かすれた息が漏れた。
「鳥どもを、消せ……」
息も絶え絶えの声だった。
今にも掠れ、夜気に溶けて消えてしまいそうなほど弱い。
だが、櫻佳にはそれが、絶対の命令のように聞こえた。
胸ぐらを掴まれたまま、櫻佳の喉が小さく鳴る。
ほんの一瞬。
本当に、ほんの一瞬だけ。
その命令に従いそうになった。
だが、櫻佳は鷹宮家の序列七位だ。
式神を操る者。
命じる側の人間。
命じられるなど、あってはならない。
まして、得体の知れない化け物のような少女に屈するなど、鷹宮の名に泥を塗るも同然だった。
櫻佳は奥歯を噛み締め、目の前の赤い瞳を睨み返す。
「……断ります」
声は震えていない。
少なくとも、櫻佳自身にはそう聞こえた。
白依は、ただ櫻佳を見ている。
血に濡れた指が、櫻佳の着流しを掴んだまま離れない。
その圧に呑まれそうになりながらも、櫻佳は必死に状況を分析する。
突如として白依が力を増したように見えた。
禍鶴を止め、白鎧禽の《白巌天蓋》を砕き、守りの要を地に叩き落とした。
だが、違う。
白依は何も変わっていない。
速くなったわけでもない。
傷が癒えたわけでもない。
格そのものが上がったわけでもない。
ただ、捨て身で攻めに転じただけ。
痛みを無視し、返傷を無視し、自分の身体が壊れることを勘定に入れず、前へ出ただけ。
ならば、まだやりようはある。
そう結論づけた瞬間、櫻佳の瞳にわずかな光が戻った。
恐怖ではない。
屈辱でもない。
鷹宮家の序列七位として、まだ敗北を認めるには早い。
そして、ゆっくりと口元を歪めた。
「あなたこそ……その状態で、いつまで立っていられるのかしら」
しかし、白依の表情は変わらなかった。
櫻佳の胸ぐらを掴む手に、さらに力が込められる。
布が軋み、喉元が締め上げられるような圧迫感が走った。
「勘違いするな」
白依は、淡々と言い放つ。
「今、お前を殺さないのは、主を失ったこの鳥どもが暴れられたら面倒なだけだ」
その言葉を聞いた瞬間、櫻佳の中に怒りが湧いた。
見下された。
鷹宮家の序列七位である自分が。
式神を従え、命じる側である自分が。
目の前の傷だらけの少女に、殺すことすら後回しだと言われた。
屈辱だった。
だが、その怒りはすぐに別の感情に塗り潰される。
恐怖。
それは、かつて序列入りを果たし、傲慢になっていた頃。
序列一位――鷹宮迅に締め上げられた時に感じたものに似ていた。
逆らってはいけない。
間違えれば終わる。
理屈ではなく、身体の奥がそう告げる感覚。
櫻佳の全身から、汗が吹き出した。
目の前の白依は、今にも倒れそうだった。
それでも、その赤い瞳だけは一切揺れていない。
「早くしろ」
低い一言が落ちた。
その瞬間、櫻佳の喉がひゅっと鳴る。
反論は出なかった。
拒絶もできなかった。
櫻佳は震える息を吐き、式神へ命じる。
禍鶴の巨体が揺らいだ。
白依の左手にあった感触が、すうっと薄れていく。
それと同時に、白依の脚に刻まれていた手形の痛みも、わずかに遠のいた。
禍鶴の形が崩れる。
輪郭が滲み、やがて一枚の赤い紙人形へと変わって地に落ちた。
同じように、倒れていた白鎧禽も赤い紙人形となる。
最後に、櫻佳の傍にいた誘鳥が白い紙人形へ姿を変え、ひらりと石畳の上に落ちた。
それを確認してから、白依はゆっくりと櫻佳を見下ろした。
櫻佳の喉が震える。
「こ、これで……ここから出られるわよ」
声は、明らかに上擦っていた。
それでも櫻佳は、必死に言葉を紡ぐ。
「結界も、誘導も解いたわ。あの子も、あなたも……早く手当てしたらどうかしら?」
最低限の矜持を残そうとする声だった。
まだ終わっていない。
まだ交渉できる。
まだ、自分は鷹宮家の序列七位だ。
そう言い聞かせるように、櫻佳は白依へ語りかけた。
だが、白依は一言だけ返す。
「ああ」
その声は、ひどく静かだった。
「ようやく、お前を殺せる」
櫻佳の思考が止まった。
見下ろす赤い瞳。
そこに怒りはない。
憎悪もない。
ただ、決定だけがあった。
その瞳と言葉を前にして、櫻佳の身体が本能で理解する。
これは脅しではない。
交渉でもない。
猶予でもない。
死。
その一文字が、櫻佳の全身を冷たく貫いた。
白依が、右腕を振りかぶった。
血に染まった腕。
赤く濡れた拳。
櫻佳には、その動きがやけにゆっくり見えた。
逃げなければ。
避けなければ。
どうすれば。
身体が動かない。
目の前の赤い瞳から、視線を逸らせない。
「やめ――」
最後まで言葉を発することは許されなかった。
白依の拳が、櫻佳の頬を撃ち抜く。
視界が大きく揺れた。
頬に鈍い衝撃が走り、遅れて首が軋むような痛みに襲われる。
びり、と音がした。
白依に掴まれていた胸元の衣服が、衝撃に耐えきれず破れ裂けた音だった。
櫻佳の身体が、地面へ投げ出される。
地面を転がり、ようやく止まった時には、上下の感覚すら曖昧になっていた。
視界が揺れている。
頬が熱い。
首が痛い。
耳鳴りがする。
櫻佳は地面に転がったまま、続く痛みに悶えた。
息を吸うたび、喉の奥から掠れた音が漏れる。
何が起きたのか。
分かっているのに、理解が追いつかない。
ただひとつだけ、はっきりしていた。
殺される。
櫻佳は、揺れる視界の中で白依を見た。
だが、白依はすぐには櫻佳を見ていなかった。
焔羅たちの方へ、顔を向けている。
焔羅も、呉代も、その場でただ立ち尽くしていた。
声を出すこともできず、動くこともできず、血に濡れた白依の背を見つめている。
そして白依の視線は、哀へ向いた。
呉代の背で、哀はまだ目を覚ましていない。
ぐったりと力なく身を預け、見えている顔だけでも酷く腫れ、血に濡れている。
その姿を見た白依の目が、わずかに細くなった。
「足りない」
声は、変わらず平坦だった。
怒りに震えるでもない。
悲しみに歪むでもない。
ただ、足りない。
それだけを告げる声。
白依は、再び櫻佳へ向き直る。
櫻佳の身体が、反射的に後ずさろうとした。
だが、うまく動かない。
白依が近づいてくる。
一歩。
その足音が、やけに大きく聞こえた。
櫻佳の喉が引き攣る。
終わる。
今度こそ、本当に終わる。
そう思った、その時。
白依の肩に、ぽん、と手が置かれた。
「そこまでにしぃや」
場違いなほど軽い声が、夜気に落ちた。
櫻佳は、白依の背後に立つ者を見て目を見開き、声が漏れる。
「どうして……」
白依は、顔だけを振り向かせる。
そこに立っていたのは、派手な赤い着流しを纏った男だった。
男は細い目で白依を見下ろす。
そして、辺りを見渡した。
血に濡れ、割れた石畳。
散らばる白い着流しの死体。
地に転がる櫻佳。
呉代に背負われた哀。
毛を逆立て、牙を剥く焔羅。
それらすべてを確認してなお、男の口元には常に薄い笑みが浮かんでいた。
呉代は、思わず口に出る。
「うそでしょ……」
焔羅は毛を逆立て、本能的に警戒を強めていた。
「呉代殿、なんだあいつは」
その問いに、呉代はすぐに答えられない。
白依は、男と目が合った。
その瞬間、右拳を固める。
そして振り向きざまに、男の顔面へ拳を叩き込んだ。
しかし、白依の拳には、思っていた感触がなかった。
骨を砕く感触、肉を潰す感触、顔面を殴り抜いた重さもない。
拳から伝わってきたのは、宙に浮いた紙を殴ったような、妙に軽い感触だった。
だが、それは錯覚ではなかった。
白依の目の前で、男の姿がぐにゃりと歪む。
拳が触れた瞬間、男は形を失っていた。
赤い着流しも、細い目も、にやけた口元も。
すべてが薄く剥がれるように崩れ、白依の拳には一枚の白い紙人形が張り付いていた。
白依の赤い瞳が、わずかに細くなる。
その直後。
背後から、先ほどと同じ声が聞こえた。
「いやいや、いきなり顔面て。血の気多すぎやろ」
白依がゆっくりと振り向く。
そこには、変わらず赤い着流しの男が立っていた。
口元に、にやけた笑みを浮かべたまま。
「まあ、実際血まみれやしな」
白依は、男の癇に障るような声に苛立ちを覚えた。
「邪魔をするな。どけ」
血に濡れた拳を下ろし、白依は低く告げる。
男はそれを聞いて、軽く肩を竦めた。
「一発殴らしたったんやから、それで満足してや」
口元には、相変わらず薄い笑みが浮かんでいる。
「それに、こいつにはまた俺が躾けたらなあかんな」
男の視線が、地面に転がる櫻佳へ落ちた。
「あ、あの……」
櫻佳が震えた声を漏らす。
その瞬間、男の笑みが消えた。
細い目が、櫻佳を見下ろす。
「今、俺が話しとるんやわ」
先ほどまでとは打って変わった、冷たい声だった。
「空気読めや」
その一言だけで、櫻佳の身体がびくりと震えた。
頬の痛みも、首の鈍痛も、白依に向けられた恐怖も。
そのすべてを上書きするように、別の恐怖が櫻佳の背筋を這い上がる。
櫻佳は何も言えなかった。
ただ、震える身体を押さえつけるように、地面へ頭を下げることしかできなかった。
その時、遠くからエンジンの重低音が近づいてきた。
山道を這うように響く、低く重い音。
それに、男がぴくりと反応する。
「あんたらの迎えも来たみたいやし」
男は、再び薄い笑みを浮かべた。
「俺らはおいとまするわ」
「させるわけないだろ」
白依が腰を落とす。
血に濡れた足が石畳を踏み締め、右拳が静かに握られる。
今にも飛びかかろうとする白依を見て、男は楽しげに肩を揺らした。
「安心せぇ」
男は言う。
「時が来たら、俺から会いに来るからな」
その瞬間。
男の細い目が、わずかに開かれた。
そこにあったのは、人の瞳ではなかった。
獲物を見据える猛禽の目。
冷たく、鋭く、どこまでも高みから見下ろす者の目。
白依の赤い瞳と、男の猛禽じみた瞳がぶつかる。
夜気が、ぴんと張り詰めた。
男はにやりと笑う。
「ほな、またな」
その声が落ちた瞬間だった。
空から、音もなく影が降りた。
巨大な鷹。
月明かりを遮るほどの翼が広がり、鋭い鉤爪が地面に転がる櫻佳を掴む。
「っ――」
櫻佳が声を上げる間もなく、その身体は宙へ持ち上げられた。
白依が即座に地を蹴ろうとする。
だが、その一瞬よりも早く、巨大な鷹は翼を打った。
強烈な風が巻き起こり、血に濡れた白依の髪と衣服を激しく揺らす。
鷹は櫻佳を掴んだまま、夜空へ舞い上がった。
その姿が、闇の中へ遠ざかっていく。
白依は歯を噛み締め、拳を握った。
逃がした。
そう理解した瞬間、白依は男がいた場所へ視線を向ける。
だが、そこにはもう誰もいなかった。
赤い着流しの男の姿は消えている。
残されていたのは、地面に落ちた一枚の白い紙人形だけ。
ひらり、と夜風に揺れる。
それだけだった。
「主ー!」
焔羅の声が聞こえた。
切羽詰まった、今にも裂けそうな声。
だが、白依はそちらを向けなかった。
振り向こうとしたはずだった。
哀の状況を確認しなければならない。
焔羅に、呉代に、命じなければならない。
そう思った。
けれど、身体が動かない。
限界だった。
黒翎に貫かれた傷。
禍鶴の《覗返傷》で返された痛み。
白鎧禽の守りを殴り砕いた拳。
流れ続けた血。
それらすべてが、今さらになって白依の身体へ一斉に押し寄せる。
視界が滲み、すべてが輪郭を失っていく。
赤い瞳から力が抜けた。
「主!」
焔羅の声が、今度はすぐ近くで響いた。
だが、その声に応えることはできなかった。
白依の身体が、ゆっくりと傾く。
血に濡れた白い髪が揺れた。
そして、白依は焔羅の声と近ずく重低音を聴きながら、意識を手放した。




