第44話 傷
焔羅は、黒い羽に貫かれ、地面へ磔にされた白依を見て言葉を失った。
目の前の光景が、信じられなかった。
白依が、血を流している。
その事実だけが、焔羅の中でうまく形にならない。
初めて白依と出会ったのは、神社の境内だった。
あの時の焔羅は、神主に呪契によって使役されていた。
自我を奪われ、命令のままに動くただの式。
己の意思などなく、怒りも悲しみもなく、ただ命じられた通りに白依へ牙を向けた。
けれど、その牙は届かなかった。
白依に圧倒され、意識を失い――次に気がついた時には、境内に横たわっていた。
鼻をついたのは、濃密な血の匂いだった。
神社の境内に満ちた、むせ返るような鉄の匂い。
だが、焔羅の目に最初に飛び込んできたのは赤ではなかった。
白。
境内に飛び散った赤色など、目に入らない。
境内の入口に立つ、月明かりに照らされた白い少女。
白い髪。
白い肌。
そして、闇の中で静かに光る赤い瞳。
その姿を見た瞬間、焔羅の鼓動が大きく高鳴った。
恐怖、ではなかった。
敵わない、でもなかった。
ただ、そばに在りたいと感じた。
自分を圧倒し、己を縛り続けていた呪いから解き放ってくれた存在。
この時から、焔羅にとって白依は強者であり、恩人であり――己の主となった。
それから、焔羅は少なくない戦いを見てきた。
白依が敵を圧倒する姿。
怪異を喰らう姿。
どれほど異様な相手を前にしても、表情ひとつ変えずに立つ姿。
その中で、焔羅は白依の血など見たことがなかった。
白依は傷つかない。
どこかで、そう思っていた。
いや、信じていた。
だが、今。
目の前の白依は、大きな黒い羽に貫かれ、地面へ磔にされている。
白かった肌は赤く裂け、
純白の衣服も血に染まり、
荒い息を吐きながら、それでもなお櫻佳を睨み続けていた。
その姿が、焔羅の中にある“白依”という絶対を、音もなく軋ませる。
燈色の着流しの男が言っていた、序列七位。
その言葉を聞いた時、焔羅は「だからどうした」と思っていた。
序列だろうが何だろうが、関係ない。
主がいる。
自分もいる。
哀を助け出せば、それで終わりだと。
そう思っていた。
だが、男の謎めいた余裕。
呉代の怯えよう。
そして今、目の前に広がる光景。
白依の周囲に佇む、巨大な二首の鶴。
桜色の着流しを纏い、愉悦を隠そうともせず笑う女。
その女を守るように浮かぶ、白銀の猛禽。
さらに、地面へ磔にされた白依。
焔羅は、ようやく理解した。
あの女は、強い。
ただ強いだけではない。
白依を傷つけ、白依を止め、白依を追い詰めるだけの力を持っている。
その事実が、焔羅の胸を強く掻き毟った。
認めたくない。
認められるはずがない。
それでも、目の前の光景が否応なく突きつけてくる。
主は今、明確に格上の敵とぶつかっている。
(我が……)
焔羅はそう思い、前へ踏み込もうとした。
その時だった。
「焔羅……かはっ……早く行け……」
白依の声がした。
それは、焔羅が今まで聞いたことのないほど弱々しい声だった。
掠れていて、途切れそうで、それでもなお、命じる響きを残している。
焔羅は動きを止めた。
それは、主の命令だったから。
だが、その言葉に反応したのは焔羅ではなく櫻佳だった。
「あら」
櫻佳は目を細め、楽しげに口元を緩める。
「その状態で、自分ではなく他の者の心配をするなんて」
その声音には、感心と愉悦が混じっていた。
「ですが、よく考えてください。確かに私の目的はあなたですが、他の者を易々と逃がすわけがないじゃないですか」
櫻佳はゆっくりと焔羅たちへ視線を向ける。
その視線は、やがて呉代に背負われている哀へ行き着いた。
血に濡れ、顔を腫らし、意識も朧げなまま力なく垂れ下がる哀。
櫻佳はそれを見て、わざとらしく頬へ手を当てた。
「にしても、随分と可愛がられましたね」
そして、くすりと笑う。
「全く。丁重に、と言ったのに。あの子ったら。うふふ」
その言い草は、まるでこうなることを最初から分かっていたかのようだった。
止める気などなかった。
咎める気などなかった。
ただ、結果を眺めて楽しんでいる。
それが分かった瞬間、焔羅の奥歯がぎり、と鳴った。
呉代もまた、哀を背負う腕に力を込める。
白依は地面に縫い止められたまま、荒い息を吐いている。
それでも、その赤い瞳だけは櫻佳を睨んでいた。
その視線に、櫻佳が反応する。
「あら。そんなに睨まないでください」
櫻佳は、わざとらしく困ったように肩をすくめた。
「哀さん?には、こう見えて感謝しているんですよ」
そして、ゆっくりと口元を歪める。
「だって――」
その瞬間、櫻佳の顔が大きく変わった。
上品な微笑みが剥がれ落ちる。
そこに現れたのは、下卑た愉悦に濡れた笑みだった。
「こんなにも攫いやすい“餌”は、そうそういませんからね」
その言葉を聞いた時。
白依の中で、何かがぷつりと切れた。
だが、白依は怒鳴らない。
暴れない。
表情すら変えない。
櫻佳はなおも続ける。
「初めはあなたを見て、少しがっかりしました。ですが、今は違います」
舌なめずりをする。
「今は、あなたが欲しくてたまりません」
白依の赤い瞳が、静かに見開かれる。
櫻佳はそれに気づいているのか、いないのか。
いや、気づいているからこそ、楽しげに笑っているのだろう。
「安心してください。自我が残るかは分かりませんが、なるべく努力します」
櫻佳はうっとりとした声音で続ける。
「そして、たくさん可愛がってあげますからね」
その言葉は、白依を人として見ていない者のものだった。
式神にする。
縛る。
従わせる。
壊れても、残ればいい。
その底にある欲望が、あまりにも露骨だった。
白依は、黒い羽に貫かれ、地に縫い止められたまま、静かに息を吐いた。
「……そうか」
掠れた声だった。
けれど、その声は不思議なほど平坦だった。
白依の瞳から、余計な色が消えていく。
怒りすら、表には出ていない。
ただ、底のない赤だけが櫻佳を見ていた。
しかし、櫻佳はその反応が気に入らなかったらしい。
「なに、冷静なふりをしているのですか?」
櫻佳は白依をじっと見つめる。
だが、白依は何も反応しない。
怒るでもなく、吠えるでもなく、櫻佳の言葉に揺らぐ様子もない。
それが、櫻佳には気に入らなかった。
「そうですか。なら、こうしたらどうです?」
櫻佳が焔羅たちへ視線を向ける。
その視線に呼応するように、静かに佇んでいた双頸禍鶴がゆらりと動いた。
「まずは、もう必要なくなったものから処理しましょうか」
禍鶴の黒い瞳が、焔羅たちへ向く。
焔羅が牙を剥き、呉代が哀を背負ったまま身を強張らせる。
だが、逃げ場はない。
その時だった。
ざしゅ。
肉を裂くような音が、夜気に落ちた。
櫻佳が急いでその音の方へ目を向ける。
白依の右手には、左腕に突き刺さっていた黒い羽が握られていた。
左腕からは、どくどくと止めどなく血が流れている。
だが、白依の表情は変わらない。
痛みに呻くことも、
苦悶に顔を歪めることもない。
ただ、抜き取った黒い羽を右手で握りしめている。
白依はその羽を、無造作に投げ捨てた。
続けて、右脇腹へ手を伸ばす。
焔羅が息を呑む。
白依は構わず、右脇腹を貫いていた黒い羽を掴み、一息に引き抜いた。
血が跳ねる。
純白だったワンピースが、さらに赤く染まっていく。
それでも白依は止まらない。
最後に、左太ももへ突き刺さった羽へ手をかける。
櫻佳の笑みが、ほんの僅かに引き攣った。
白依はそれを見ていない。
ただ、己を縫い止めていたものを取り除くためだけに、淡々と動いている。
ざしゅ。
三本目の黒翎が引き抜かれ、石畳の上へ投げ捨てられた。
白依の身体が、ようやく自由になる。
左腕から。
右脇腹から。
左太ももから。
血が流れ続けている。
それでも白依は、ふらつきながらも立つ。
櫻佳は、そんな白依を見て嘲笑うように口元を歪めた。
「そんな状態で、どうするのです?」
声には、隠しきれない愉悦が滲んでいる。
「戦うどころか、まともに動けもしないでしょう」
白依は答えない。
左腕から血が滴り、右脇腹から流れた血がワンピースを赤く染め、左太ももは立っているだけでも限界のはずだった。
それでも、白依は倒れない。
ただ、櫻佳を見ていた。
「禍鶴」
櫻佳が、双頸禍鶴へ命令を飛ばす。
「さっさと、あれらを処理をしなさい」
その言葉に、禍鶴の首がゆらりと動いた。
漆黒の瞳が、焔羅たちへ向く。
焔羅が牙を剥き、呉代は哀を背負ったまま後ずさる。
巨大な双首の鶴が、一歩、また一歩と焔羅たちへ向かい始める。
石畳が、その重みに軋んだ。
あと一歩で、禍鶴の射程に焔羅たちが入る。
その直前で、禍鶴の動きが止まった。
止めたのは、櫻佳の命令ではない。
禍鶴自身の反応だった。
二本ある首のうち、ひとつが原因を捉えている。
焔羅たちが現れた時も、櫻佳に命じられた時も、白依という存在を認識してから、禍鶴は必ずどちらか一方の首で白依を視界に入れていた。
禍鶴は櫻佳の式神だ。
命令には従う。
下位の式神ならば、主の命に全身全霊で従い、命を投げ打ってでも遂行するだろう。
だが、上位の式神である禍鶴には、それだけではないものがある。
本能に近い、危機察知。
自らに迫る危険を察し、回避しようとする判断。
そして何より、禍鶴の持つ能力――《覗返傷》。
攻撃を受けたその瞬間を視認することで、受けた傷の一部を相手へ返す力。
その能力も相まって、禍鶴は常に白依を目で捉え続けていた。
見失ってはいけない。
見ていなければならない。
そう本能が告げていた。
そして、禍鶴の動きが止まった時。
ひとつの首が見たもの。
それは――禍鶴の脚を、血まみれの小さな左手で掴む白依の姿だった。
離れて立っていたはずの白依の身体が、倒れるように前へ傾いた。
限界を迎え、膝から崩れ落ちる。
そう見えた。
だが、違った。
白依はその倒れ込む勢いを利用していた。
前へ傾いた身体をそのまま加速へ変え、血に濡れた足で大地を蹴る。
その動きは、決して速いとは言えなかった。
万全の時とは比べものにならない。
身体は傷だらけで、血も流れ続けている。
一歩踏み出すだけでも、意識が飛びそうなほどの痛みが走っているはずだった。
それでも白依は、禍鶴の真下まで辿り着いた。
そして、血まみれの小さな左手で、禍鶴の脚を掴んだ。
本来なら、それだけで止まるはずがない。
白依と禍鶴では、体格が違いすぎる。
小さな少女の手ひとつで、見上げるほどの巨体を止められる道理などない。
だが――禍鶴は動かなかった。
動けなかった。
掴まれた脚に力が入らない。
いや、力が入らないのではない。
抜けていく。
禍鶴そのものを呼水で内へ取り込むことはできない。
だが、直接掴んでいる部分から漏れる気だけは、白依が無理やり引いていた。
櫻佳の表情が、初めてわずかに変わった。
「……なにを、しているのです?」
問いかける声に、先ほどまでの余裕は薄い。
白依は答えない。
血に濡れた左手に、さらに力を込める。
ばきり、と音が鳴った。
禍鶴の脚を覆っていた外皮が、白依の指の形に沿って割れる。
その瞬間、禍鶴はすかさず《覗返傷》を発動した。
これは、れっきとした攻撃だった。
掴み、力を込め、外皮を砕いた。
傷を与えられた以上、返せる。
禍鶴のひとつの首が、白依の脚を見る。
白依の脚には、くっきりと手形の痣が浮かんでいた。
まるで見えない手に強く握り潰されたように、指の形が青黒く刻まれている。
さらに、指先にあたる箇所は陥没していた。
骨が軋み、肉が潰れる感覚が白依の脚へ走る。
白依の身体がわずかに揺れた。
だが、左手は離れない。
禍鶴の脚を掴む小さな手は、血で滑りながらも、なお食い込んでいる。
「……行かせるか」
白依は、掠れた声で言い放った。
そのまま顔を上げる。
赤い瞳が、月明かりの下でぎらりと光った。
その時の白依の頭は、意外なほど冷静だった。
櫻佳の傍に浮かぶ二体の鳥。
白銀に輝き、櫻佳を守る白鎧禽。
そして、先ほど櫻佳の腕に止まった薄茶色の鳥。
櫻佳の発言と、焔羅たちが逃げようとして戻された事実。
それだけで、白依は瞬時に理解する。
あの茶羽根の鳥が、焔羅たちを逃がさない何かをしている。
ならば、潰すべきは決まっていた。
白依は禍鶴の脚を掴んだまま、ゆっくりと歩き出す。
「なっ……」
櫻佳の表情が、初めて分かりやすく揺れた。
禍鶴はばたばたと翼を暴れさせ、もう片方の脚で地を掻くように踏ん張る。
石畳が砕け、土が抉れ、巨体が抵抗するたびに大気が震えた。
だが、止まらない。
白依は、血を流しながら歩く。
左脚には手形の痣。
踏み出すたびに血が吹き出る。
右脇腹からは血が滴り。
左腕はだらりと力が入っていないようだが、手だけは確かに禍鶴の脚を掴んで離さない。
禍鶴が白依に引きずられていく。
一歩。
また一歩。
巨体が小さな少女に引かれるという異様な光景に、焔羅も呉代も息を呑む。
櫻佳の笑みが、完全に消えた。
白依の視線は、ただ一点。
櫻佳だけを真っ直ぐに捉えていた。
禍鶴が踏ん張りながら、二つの嘴で白依を劈く。
鋭い嘴が皮膚を裂く。
肉を抉る。
血が散る。
それでも、白依はものともしなかった。
左手の力は緩めない。
禍鶴の脚を掴んだまま、血に濡れた足で地面を踏みしめる。
一歩。
また一歩。
引きずられる禍鶴が翼を暴れさせ、二つの首で何度も白依へ攻撃を加える。
それでも白依は止まらない。
やがて、櫻佳の目の前まで辿り着いた。
白依は右手の拳を固める。
そして、無言のまま振り上げ――振り下ろした。
がぎん。
まるで金属同士がぶつかったような、硬質な音が響き渡る。
白依の拳は櫻佳へ届いていなかった。
櫻佳の前に浮かぶ白鎧禽。
その《白巌天蓋》が、白依の拳を防いでいた。
だが、白依は止まらない。
再び拳を振り上げる。
振り下ろす。
がぎん。
もう一度。
がぎん。
さらにもう一度。
がぎん。
硬質な音が、夜の旧鞍瀬療養所前に何度も響く。
白依の拳は血に濡れ、皮膚が裂け、指の骨が軋んでいる。
それでも、拳は止まらない。
櫻佳はその様子を見ていた。
先ほどまで浮かべていた愉悦の笑みは、もうない。
白依は限界のはずだった。
黒翎に身体を貫かれ、禍鶴の《覗返傷》で傷を返され、立っていることすら不思議な状態のはずだった。
それなのに。
目の前の少女は、禍鶴を掴んだまま、白鎧禽の守りを殴り続けている。
櫻佳の表情から、余裕が消えていた。
「無駄ですよ」
櫻佳が、低くそう告げる。
白依がまた拳を振り上げた、その時だった。
ちゃら、と小さな音が鳴る。
白依のワンピースのポケットからだった。
その音に、白依の動きが止まる。
血に濡れた指で、白依はゆっくりとポケットへ手を入れた。
そして、中からあるものを取り出す。
薄汚れた赤い布が括られた、錆びた一本の釘。
杣木邸を出る時、蘭丸に渡された呪具だった。
――念のためよ。
蘭丸はそう言っていた。
使い方も、効能も、詳しい説明は聞いていなかった。
白依はその時、必要ないと思っていた。
呪具など扱えない。
そもそも、自分にはそんなものは要らない。
そう思っていた。
だが今、血に濡れた手の中で、錆びた釘が鈍く光っている。
櫻佳が眉をひそめた。
「……それは?」
その声に、白依は答えない。
左手は禍鶴の脚を掴んだまま。
右手には、赤い布の巻かれた釘。
白依はゆっくりと息を吐いた。
蘭丸が渡したものだ。
ならば、ただの釘であるはずがない。
そして、この状況で音を立てたのなら――今、使えということなのだろう。
白依は、釘の先端が出るように握り込んだ。
そして、その手へ気を集める。
錆びた釘が、血に濡れた拳の中でわずかに軋んだ。
白依は拳を振り上げる。
狙うのは、櫻佳ではない。
白鎧禽の《白巌天蓋》。
白依は、釘を突き刺すようにして、その守りへ拳を振り下ろした。
ぴしっ。
何かがひび割れる音がした。
同時に白依の握る釘の先端もひび割れる。
次の瞬間、釘は白依の手の中でぼろぼろと崩れ、形を失った。
櫻佳は一瞬だけ焦ったような表情を見せる。
けれど、釘が砕けたのを見ると、すぐに安堵したように口元を緩めた。
「さあ、もう満足かしら?」
白依は、短く返す。
「ああ」
その声に、櫻佳がぴくりと反応した。
白依の声には、一切の焦りがなかった。
失敗した者の声ではない。
追い詰められた者の声でもない。
白依は、砕けて消えた釘を見下ろし、掠れた声で呟く。
「食えん男だ……」
そして、再び拳を振り上げた。
「だから無駄だと――」
櫻佳は言いかけて、ふと白依が先ほど釘で攻撃した箇所を見た。
そして、目を見開く。
そこには、ほんの僅かなひびが入っていた。
見落としてもおかしくないほど細い。
気づかなくても無理はないほど小さなひび。
だが、確かにあった。
その瞬間、櫻佳の背筋に冷たいものが走り、禍鶴へ白依の妨害を命じる。
しかし、もう遅い。
白依の拳が、そのひびへ向かって振り下ろされる。
ぱきん。
乾いた音が響いた。
次の瞬間、白銀の守りが、月明かりの下で硝子のように砕け散った。




