第43話 鷹宮家・序列七位
焔羅たちは、男を廊下の奥に残し、侵入した窓から外へ出た。
夜気が肌を撫でる。
呉代は哀の身体を支え直しながら、旧鞍瀬療養所の正面方向へ視線を向けた。
「早く戻ろう。そうしたら、あの子も逃げられる」
その言葉に、焔羅は一瞬だけ口を噤んだ。
思うところはある。
逃げる必要などない。
主が負けるはずなどない。
そう言い返したかった。
だが、現に白依が今も正面に留まり続けている以上、相手が楽な存在ではないことは焔羅にも理解できていた。
今は、哀を連れて戻る。
それが最優先だった。
あとは、ここから離れるだけ。
そう思った、その時だった。
焔羅の身体から、しゅう、と音が漏れる。
「なに!?」
呉代が慌てた声を上げた。
焔羅の身体が、蒸気のような煙に包まれていく。
青紫の炎が薄まり、膨れ上がっていた身体の輪郭がぼやける。
「焔羅!」
呉代が思わず呼ぶ。
やがて煙が晴れると、焔羅の身体は縮んでいた。
だが、完全に元通りというわけではない。
小型犬ほどだった以前よりは、一回りほど大きい。
首には、あの紅白の注連縄が残っている。
そこについた鐘が、焔羅が動くたびに小さく揺れた。
「あれ……」
焔羅は自分の身体を見下ろし、それから呉代と目を合わせる。
「もどっちゃった?」
呉代は哀を支えたまま、少し困ったように頷いた。
「……みたいね」
焔羅は一瞬、悔しそうに耳を伏せる。
だが、すぐに顔を上げた。
戻った。
それでも、まだ動ける。
なら、十分だ。
焔羅は足元を踏みしめ、正面の方角を睨んだ。
「急ぐぞ」
――――――――――――――
白依は、身体にのしかかる巨大な何かを瞬間的に持ち上げ、そのまま横へ転がるように移動した。
距離を取り、すぐに体勢を立て直す。
まだ砂埃が濃く、視界は悪い。
だが、その中で――ばさっ、と大きな羽音が鳴った。
次の瞬間、強い風が吹き抜け、砂埃が一気に散る。
「あの状態から禍鶴を持ち上げ、立て直すとは。さすがの力ですね」
櫻佳の声が聞こえた。
その先、砂埃の向こうから姿を現したものを見て、白依は目を細める。
月光に照らされ、薄く輝く白と黒のコントラスト。
見上げるほどの巨体。
先ほどまで白依を押し潰していたであろう脚は細く長い。
だが、その先に伸びる鉤爪は、容易く命を刈り取ると分かるほど鋭かった。
そして何より、目を引くのは首だった。
長く、靱やかな首。
それが――二本。
夜空の下、ゆらりと揺れている。
双首の鶴。
白依はその足元へ視線を落とす。
白装束のある者はその鉤爪に潰され、ある者は茂みまで吹き飛ばされ四肢が捥げ、生きている気配すらない。
その惨状を見れば、嫌でも理解できた。
彼らは戦力ですらなかった。
白依を倒すためでも、傷つけるためでもない。
ただ、この場に留め置く。
そのためだけに配置された、使い捨ての駒だったのだ。
白依は、わずかに眉を顰め、蘭丸から聞いていた情報を思い出す。
鷹宮家は、式神の家。
ならば、禍鶴と呼ばれていた双首の鶴は、櫻佳の式神なのだろう。
白依は瞬時にそう理解した。
式神と対峙するのは、焔羅の時以来だった。
しかし、目の前のそれは焔羅とはまるで違う。
自我を持ち、感情を見せ、白依を主と呼ぶ焔羅とも、黒く染まり神主に仕えていた時の焔羅とも違い、この双頸禍鶴から感じるのは、ただ研ぎ澄まされた敵意と命令に従う気配だけだった。
「それでは、調伏を始めましょうか」
櫻佳の声が飛ぶ。
その言葉に呼応するように、禍鶴の二本の首がゆらりと揺れた。
次の瞬間。
二本の首が、鞭のようにしなり左右から、白依へ襲いかかった。
速い。
巨体に似合わぬ鋭さで、二つの嘴が白依の身体を穿とうと迫る。
白依は即座に後方へ跳ぶ。
一つ目の嘴が、白依のいた場所の石畳を砕いた。
続けざまに、もう一つの首が横薙ぎに迫る。
白依は身を低くしてそれを躱し、地面へ片手をついて体勢を整えた。
頬を掠めた風圧だけで、肌が裂けるような感覚がある。
白依は、押し潰された時に禍鶴へ触れていた。
その瞬間、直感で分かってしまった。
この禍鶴は、白依の呼水では呼び込めない。
今までの白依は、相手に触れ、呼水で自らの内へ引き込み、その領域の中で線引と呑口を用いて屠ってきた。
それは千年前も、現代に目覚めてからも変わらない。
霊であれ、妖であれ、半ば怪異と化したものですら。
触れ、呼び込み、区切り、喰う。
それが白依の戦い方だった。
何故なら、白依はそれしか知らないからだ。
そもそも、じじいに教わったのは戦い方ではなく、持つ力の使い方。
それを現代で目覚め白依なりに戦い方へと昇華させた。
それが通じない。
その事実だけで、目の前の禍鶴はこれまでの相手とは明確に違っていた。
白依は赤い瞳を細める。
喰えないなら、どう壊す。
呼び込めないなら、どう退ける。
「……面倒だな」
白依は低く呟く。
櫻佳はその様子を見て、楽しげに目を細めた。
「うふふ。まだ始まったばかりですよ」
白依は、ひとつ息を吐き思考をより単純にした。
呼水が使えないなら――殴ればいい。
白依は脚へ気を集め、拳を固める。
禍鶴の首は長く、可動域も広い。
そのうえ、数は二本。
ならば、小細工はいらない。
白依は脚に溜めた気を、一気に解放した。
地を蹴る。
その瞬間、大地が抉れ、白依が飛び出した。
月明かりを受けた赤い瞳が、二本の光の筋となって夜を裂く。
白依は禍鶴の懐へ潜り込む。
狙うのは、腹下。
首が届くより早く、巨体の下へ入り込む。
そのまま勢いを殺さず、拳へすべてを乗せた。
だが、その時。
白依の視界の端に映ったのは、迎撃でも、防御でも、受け流しでもなかった。
ただ、こちらを見つめる漆黒の瞳。
禍鶴は、避ける素振りすら見せていない。
それどころか、白依の一撃を待っているようにさえ見えた。
白依は違和感を覚える。
それでも、止まらない。
すでに拳は届く距離にある。
白依はその違和感ごと奥歯を噛み締め、拳を禍鶴の腹部へねじ込んだ。
「痛そうね」
櫻佳が、ぽつりと呟いた。
重い衝撃音が響き、禍鶴の巨体がぐらりと傾いた。
確かに、入った。
白依の一撃は、間違いなく禍鶴の身体を捉えていた。
だが――
白依は追撃に移れなかった。
それどころか、その場に片膝をつく。
「がはっ……」
喉の奥から、詰まった息が漏れた。
腹の奥に、鈍い痛みが残っている。
息がうまく吸えない。
内側を殴りつけられたような苦しさが、身体の芯に響いていた。
白依は混乱する。
自分は、禍鶴へ攻撃した。
攻撃されたわけではない。
それは事実だ。
間違いない。
櫻佳も、禍鶴も、白依へ触れてはいなかった。
だというのに――腹部に残る痛みもまた、確かな事実だった。
白依は片膝をついたまま、赤い瞳だけを上げる。
双頸禍鶴の巨体は傾いたものの、すぐに体勢を戻していた。
その漆黒の瞳が、じっと白依を見下ろしている。
まるで、今の結果も最初から分かっていたかのように。
櫻佳は口元へ手を添え、愉快そうに目を細めた。
「うふふ。自分で殴った痛みは、いかがですか?」
その言葉で、白依の中にひとつの可能性が浮かぶ。
返された。
自分の攻撃が、そのまま。
いや、すべてではない。
禍鶴にも衝撃は通っている。
だが同時に、その一部が白依へ返ってきた。
白依は腹部を押さえながら、ゆっくりと立ち上がる。
必殺であった呼水が効かない。
今の一撃も、禍鶴へ確かに通りはした。
だが、受けた損傷の重さを比べれば、明らかに白依の方が深刻だった。
このまま攻撃を続けても、先に限界を迎えるのは白依の方だ。
つまり、この時点で――白依の攻撃手段はほとんど封じられていた。
「あら、もう打つ手なしですか?」
櫻佳が、愉しげに問いかける。
白依は答えない。
禍鶴が駄目なら、その式神の主人を狙えばいい。
片膝をついた際に握り込んでいた石畳の破片。
白依はそれを、予備動作もなく櫻佳へ投げつけた。
現代における効率的で理想的な投擲動作とはかけ離れた、ただ力任せの原始的な攻撃。
だが、白依が気を込めて放ったその破片は、ただの石ではなかった。
空気を裂き、一直線に櫻佳の頭部へ飛ぶ。
その速度は、凄まじい。
普通の人間なら、反応する暇もなく頭を撃ち抜かれていただろう。
櫻佳の笑みが、わずかに深まる。
ぱきん、と乾いた音が鳴った。
白依の放った破片が、何か硬質なものに弾かれ、細かく砕け散る。
続いて、しゃららん、と軽い金属音が響いた。
櫻佳の目の前。
そこには、白銀に輝く猛禽類の鳥が浮かんでいた。
広げられた両翼は、まるで鋼の盾のように櫻佳の身を覆っている。
月光を受けた羽が、冷たく光った。
「白鎧禽」
櫻佳が、優雅にその名を告げる。
「式神使いである私が、弱点とも言える身をそのまま晒すわけがないでしょう?」
その声には、余裕があった。
白依の投げた破片は、確かに櫻佳を狙っていた。
しかし、それすら届かない。
白依は、ぎりり、と歯を鳴らした。
白依が次の手を考えようとした、その刹那。
双頸禍鶴は、それを見逃さなかった。
二本の首が、再び左右から襲いかかる。
同時ではない。
一撃目で白依の動きを誘導し、二撃目で確実に当てにくる。
明らかに連携された攻撃だった。
白依は身を捻る。
だが、完全には避けきれない。
白い肌に、赤い線が走った。
「っ……」
続く攻撃に対し、白依は一撃目を紙一重で躱す。
そして二撃目は、嘴の下から顎を弾くようにしていなした。
しかし、一撃目を繰り出した首の瞳が、白依のその手元を覗いていた。
その瞬間。
白依自身の顎も、同じように跳ね上がる。
「っ……!」
奥歯が鳴り、脳が揺れる。
(……これも返されるのか)
殴るだけではない。
逸らしても、弾いても、干渉すれば返ってくる。
しかも、禍鶴に与える直接的な損傷よりも、白依へ返る損傷の方が重い。
理屈は分からない。
だが、事実として白依の身体だけが削られていく。
禍鶴の攻撃は止まらない。
左右からしなる双首。
間を縫うように振るわれる鉤爪。
巨体に似合わぬ速度で繰り出される連撃。
白依は避ける。
躱す。
弾く。
いなす。
それでも、捌ききれない。
頬に、肩に、腕に、脚に。
致命傷には遠いが白い肌に、次々と赤い線が刻まれ、純白のワンピースも赤が増えていく。
櫻佳はその光景を眺めながら、愉しげに目を細める。
白依は、禍鶴の首が届かない位置まで距離を取った。
双首の連撃が厄介なら、まずは間合いの外へ出る。
それだけで少しは考える時間ができるはずだった。
だが、禍鶴は距離を詰めてこない。
その場で、白と黒の翼を大きく広げた。
月光を受けた白い羽と、闇に溶ける黒い羽。
その対比が、夜の中で不気味なほど鮮明に浮かび上がる。
その時だった。
鳥類特有の、感情の読みにくい顔。
それなのに白依には、禍鶴が笑ったように見えた。
次の瞬間、禍鶴は両翼を前へ振り出し、勢いよく交差させる。
轟、と重い風圧が白依へ叩きつけられた。
同時に、無数の黒い羽が放たれる。
羽。
しかし、それは柔らかなものではない。
鋭く尖り、硬質な光を帯びた黒羽が、矢のごとく白依へ飛来する。
「……っ」
白依は即座に横へ跳んだ。
だが、数が多すぎる。
風圧で体勢を崩され、避けた先にも黒羽が降る。
地面に突き刺さった羽が、大地を抉る。
かすめた一本が、白依の頬に新たな赤い線を刻んだ。
白依は舌打ちする。
近づけば削られ返される。
離れれば射抜かれる。
禍鶴の黒い羽は、白依の退路すら塗り潰すように降り注ぐ。
白依の息が上がり、全身に熱が籠もっている。
血を流しすぎているはずなのに、身体の内側だけが異様に熱い。
「うふふ。もういいかしら」
櫻佳が、満足したように言った。
「大体分かりましたし、身体はかなり頑丈そうな貴方なら、大丈夫でしょう」
その言葉に合わせるように、禍鶴が再び両翼を大きく広げる。
白と黒の翼が、月光を遮るように夜空へ展開された。
「黒翎を全部使っていいわ。元は取れるでしょうし」
その言葉が合図だった。
禍鶴が、再び両翼を勢いよく交差させる。
先ほどとは比べものにならない風圧が、白依へ叩きつけられた。
同時に、無数の黒い羽が放たれる。
黒い羽は、矢の雨となって白依へ襲いかかった。
白依は全身に気を巡らせ、地を蹴る。
躱し、弾き、身を捻る。
しかし、数が多すぎた。
集中砲火のように降り注ぎ続ける黒い羽は、白依の動きを少しずつ削っていく。
最初は掠めるだけだった。
次に、肌を抉った。
抉られていた傷は、やがて深く裂ける。
そして遂には――黒い羽が、白依の身体へ突き刺さった。
「っ……!」
左腕。
左太もも。
右脇腹。
三本の黒い羽が白依の身体を貫き、そのまま背後の地面へ突き立つ。
白依の身体が、強引に引き止められた。
逃げることも、踏み込むことも許されない。
黒い羽に貫かれた白依は、その場で大地へ磔にされる。
血が、ワンピースをさらに赤く染めていく。
黒い羽の雨が、ようやく止んだ。
禍鶴の翼からは、黒い羽がすべて消えている。
「黒翎を撃ち尽くして壊れないなんて、さすがだわ!」
櫻佳が、嬉しそうな声を漏らす。
白依は荒い息を吐いていた。
それでも、赤い瞳だけは死んでいない。
白依はなおも、櫻佳と禍鶴を睨み据えていた。
その時、一羽の鳥が櫻佳の腕に舞い降りる。
薄茶色の、小さな鳥だった。
「あら、いいタイミングね。よくやったわ」
櫻佳はその鳥の頭を、指先で優しく撫でる。
直後。
がさがさ、と音がした。
石畳の道を挟み、白依の向かい側にある茂みが揺れる。
「あ……主!」
焔羅の悲痛な叫び声が響いた。
白依は顔だけをそちらへ向ける。
そして、目を見開いた。
茂みの中から現れたのは、焔羅と呉代だった。
呉代の肩には、血に濡れ、力なく項垂れた哀が支えられている。
「そ……そんな……確かに、車へ向かっていたのに……」
呉代の顔色は真っ青だった。
その声には、隠しきれない絶望が滲んでいる。
戻された。
いや、誘導されたのだ。
白依たちが正面で戦い、呉代たちが裏から哀を救出し、そのまま離脱する。
その流れすら、櫻佳の掌の上だった。
櫻佳は口元を吊り上げる。
「役者は揃いましたね」
少し高くなった声が、惨状と化した旧鞍瀬療養所の前に響く。
白依は地に縫い止められたまま、哀を見た。
腫れ上がった顔。
血に濡れた身体。
力なく垂れた手足。
その姿を見た瞬間、白依の中で何かが軋む。
焔羅もまた、牙を剥きながら震えていた。
怒りか、後悔か、それとも恐怖か。
そのすべてが混ざったような震えだった。
櫻佳はそんな三人を見渡し、ゆっくりと舌なめずりをする。
「さあ」
口角が、さらに上がった。
「どう幕引きと行きましょうか?」
その声は、愉悦に濡れていた。
月明かりの下。
白依は黒い羽に貫かれ、哀は瀕死のまま呉代に支えられ、焔羅は怒りに燃えながらも動けない。
そしてその中心で、櫻佳だけが美しく笑っていた。




