第42話 我が
白依は、静かに櫻佳を見据えた。
背後には、まだ二人残っている。
だが、その二人は白依の退路を塞ぐ位置に立ったまま、動く気配を見せない。
それ以外の白装束たちは、すでに地に伏せていた。
骨を折られ、
身体を打ちつけられ、
まともに動ける状態ではない。
それなのに、櫻佳の表情には一切の陰りがなかった。
焦りもない。
怒りもない。
味方を倒されたことへの動揺すらない。
その態度が、白依の苛立ちをさらに強める。
「どういうつもりだ?」
白依は、苛立ちを隠そうともせずに問うた。
櫻佳は笑みを絶やさない。
そして、人差し指をそっと口元へ当てる。
「ええ。彼らは、役目を果たしました」
柔らかい声音だった。
けれど、その言葉の意味はひどく冷たい。
白依は目を細める。
役目。
その一言に込められた意味を測る。
足止めか。
観察か。
あるいは、白依の動きを引き出すための捨て駒か。
味方がやられたというのに、櫻佳は揺らがない。
いや――そもそも、彼らを味方として見ているのかどうかすら怪しかった。
白依には、まだ櫻佳の正体が見えない。
ただひとつ分かるのは、この女もまた、不快な側の人間だということだけだった。
白依が櫻佳へ向けて一歩踏み出した、その時だった。
地面に、丸い影が落ちていることに気づく。
小さな影。
だが、その影は少しずつ大きくなっていく。
白依は足を止め、影を見つめる。
「あの方が興味を持つものですから、どれほどのものかと思っていましたが――」
櫻佳の声が、一段落ちた。
「所詮、この程度ですか」
「なに……?」
白依が眉を寄せる。
櫻佳は笑みを消さぬまま、右手をすっと上へ掲げた。
「来なさい、双頸禍鶴」
櫻佳の声に呼応するように、地面へ落ちる影がさらに濃く、大きく広がり、周囲が陰る。
白依が上を見上げた、その瞬間だった。
上空から落ちてきた何かが、白依の身体を真上から地面へ叩きつける。
凄まじい衝撃音が轟いた。
石畳が砕け、土が弾け、周囲の草木がまとめてなぎ倒される。
大地が揺れ、空気まで震える。
白依のいた場所を中心に、砂埃が爆ぜるように舞い上がった。
「くっ……」
その中で、巨大な影がゆっくりと身を起こす。
長く伸びた二つの首。
鋭く曲がった嘴。
折り畳まれてなお巨大さを隠せない翼。
二つの頭を持つ、異形の鶴。
それが、白依を地へ叩き伏せた櫻佳の式神――双頸禍鶴だった。
櫻佳は舞い上がる砂埃の向こうを見つめながら、静かに微笑む。
「これで少しは、大人しくしていただけるかしら」
――――――――――――――
焔羅は、目の前の男を睨みつけた。
牙を剥き、喉の奥で低く唸る。
今にも飛びかかりそうな殺気を放っている。
しかし、男はそんな焔羅を前にしても、へらへらとした態度を崩さなかった。
「なに?そんな怖い顔しないでよ」
軽い声。
けれど、その手から滴る血が、その軽薄さをひどく不快なものにしていた。
呉代は短刀を構えたまま、男の全身へ視線を走らせる。
そして、男の腰紐に付いた鈍く光る飾りを見て、ぽつりと言葉をこぼした。
「……やっぱり」
そこに刻まれていたのは、鷹を象った家紋だった。
家紋に鷹を使うことを許されている家は、ひとつしかない。
――鷹宮家。
呉代の背筋に、冷たいものが走る。
(ボスの言った通りだ……)
鷹宮家が絡んでいる。
その事実が、目の前の男をさらに厄介な存在へと変えていた。
「焔羅――」
呉代が言いかける。
だが、その言葉を焔羅の行動が遮った。
焔羅は大きく息を吸い込む。
それは、ただの深呼吸ではなかった。
次の瞬間、焔羅の口から青紫の炎が噴き出される。
廊下を埋め尽くすように広がった炎は、呉代だけを避け、それ以外のすべてを焼き払わんと迫っていく。
男は軽い身のこなしで後方へ飛び退いた。
「うわ、あっぶな」
それでも、焔羅は止まらない。
「呉代殿、哀殿を頼む」
低く、怒りを押し殺した声でそう言い残し、焔羅は男のいる方へ向かって炎の中に突っ込んだ。
「ちょっと!」
呉代は一瞬、状況を掴めずに声を上げる。
だが、すぐに目を凝らした。
青紫の炎が揺らめく廊下。
その中で、男が出てきた壁の付近に赤く光るものが見えた。
そこへ近づくと、何もなかったはずの壁に、下へ続く階段が現れていた。
先ほどまでただの壁にしか見えなかった場所。
だが今は、ぽっかりと口を開けるように暗い階段が伸びている。
その両脇には、四角い焦げ跡が残っていた。
認識を阻害していた護符か何かが、焔羅の炎で焼き払われたのだろう。
(なるほどね……)
呉代は短刀を握り直す。
階段の奥からは、血の匂いが濃く漂っていた。
そして、微かにだが――人の気配もある。
呉代は背後で響く炎と衝突音を一度だけ確認し、すぐに視線を前へ戻した。
焔羅が戦っている。
なら、自分は進むだけだ。
呉代は警戒を緩めぬまま、暗い階段を一段ずつ下っていった。
階段を下り終えると、そこには鉄製の扉があった。
呉代は短刀を構えたまま、そっとノブへ手をかける。
鍵は、かかっていなかった。
重い音を響かせながら扉が開き、隙間から白い光が漏れ出す。
呉代は警戒を解かぬまま、ゆっくりと部屋へ足を踏み入れた。
そして、顔を顰める。
そこにいたのは、壁に鎖で四肢を拘束された哀だった。
肌が見えるのは顔だけだった。
けれど、その顔は見る影もなく腫れ上がり、血で汚れている。
床には血溜まりができていた。
衣服の下に隠れている身体にも、相応の傷を負っているのは明らかだった。
一見すれば、死んでいてもおかしくないほどの重傷。
その時、部屋の中にか細い声が漏れる。
「うぅ……」
哀の呻き声だった。
それはあまりにも弱々しい。
けれど、生きている証だった。
呉代はすぐに動いた。
短刀をしまい、哀の拘束へ手を伸ばす。
足首、手首と順に鎖を外していく。
最後の拘束が外れた瞬間、哀の身体は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
呉代はそれを咄嗟に受け止め、肩を貸す。
「ねえ、聞こえる?」
返事はない。
ただ、浅く途切れ途切れの呼吸だけが、かろうじて続いていた。
呉代は奥歯を噛み締める。
「……惨すぎる」
そう呟きながら、哀の身体を支え直す。
だが、安心している暇はなかった。
上ではまだ、焔羅があの男を足止めしている。
ここから連れ出すまでが、自分の役目だ。
呉代は哀の腕を自分の肩へ回し、できるだけ負担がかからないよう慎重に立ち上がった。
「行くよ」
届いているかどうかも分からない。
それでも、呉代は言った。
「あなたを待ってる人たちがいる」
焔羅は男へ飛びかかった。
だが、その爪牙が届く寸前、ばさばさと羽ばたく何かが割って入る。
「っ!」
焔羅は咄嗟に身を捻り、宙で距離を取った。
炎を避けた男を見る。
その周囲には、十体の小柄な烏が浮かぶように飛び回っていた。
男は首にかけていたゴーグルを目へ装着し、余裕の笑みを絶やさない。
焔羅は低く唸りながら、周囲の烏を観察する。
普通の烏ではない。
眼球がない。
目のあるべき位置は赤い糸で縫われており、嘴が異様に鋭く尖っている。
「それじゃ、僕も狩りといきますか」
男の軽い声が落ちる。
「行け、夜魅烏」
同時に、十体の夜魅烏が一斉に焔羅めがけて飛んできた。
速い。
普通の烏とは比べものにならない速度だった。
黒い影が、廊下の狭い空間を縫うように走る。
焔羅は紙一重で身を躱す。
だが、すべては避けきれない。
数体の嘴が、焔羅の身体を掠めた。
白い毛が散り、浅く裂けた箇所から青紫の火が揺れる。
「ちっ……」
焔羅は床を蹴り、距離を取り直す。
烏たちはすぐさま旋回し、再び男の周囲へ戻っていく。
まるで、男の目となり、手足となっているようだった。
焔羅が牙を剥き、纏う炎をさらに強める。
その時、男の視線がふと横へ流れた。
呉代が降りていった階段。
男はそこを一瞥すると、嫌な笑みを浮かべる。
そして、顎をくい、と動かした。
それだけで、焔羅はその意味を瞬時に理解した。
夜魅烏たちが、一斉に階段の入口へ向かう。
「下衆が!」
焔羅は床を蹴った。
小さな身体を弾丸のように走らせ、階段へ向かう夜魅烏たちの前へ割り込む。
鋭い嘴が次々と迫る。
焔羅は身体で、それらを受け止めた。
「ぐふっ……」
嘴が毛皮を裂き、衝撃が小さな身体を揺らす。
それでも焔羅は退かない。
階段の入口を背に、四肢を踏ん張り、夜魅烏たちを押し返す。
男はそんな焔羅を見て、けらけらと笑った。
「そんな小さな身体で、よくやるねえ。今なら僕の式神にしてあげてもいいよ?」
軽薄な声が廊下に響く。
焔羅は息を荒げながら、なおも牙を剥いた。
「……黙れ」
低く、唸るように吐き捨てる。
背後には、哀へ続く道がある。
呉代がそこを進んでいる。
ならば、ここは絶対に通さない。
焔羅の青紫の炎が、再び強く燃え上がった。
「ふーん。じゃあ、自ら的になるなら頑張って」
その声を合図に、夜魅烏たちは容赦なく焔羅へ襲いかかった。
黒い影が、幾筋も走る。
焔羅は避けない。
避ければ、その隙を抜けて階段へ向かわれる。だから、ただ真正面から受ける。
鋭い嘴を爪で弾き、翼を炎で払い、飛び込んでくる身体を肩で受け止める。
それでも、すべてを止めきることはできない。
横を抜けて奥へ行こうとする夜魅烏には、文字通り身体を張って飛び込んだ。
「ぐっ……!」
嘴が脇腹を裂く。
爪が床を削り、焔羅の小さな身体が一瞬揺らぐ。
だが、退かない。
絶対に、後ろへは通さない。
焔羅の息は、徐々に乱れていった。身体から漏れる青紫の炎が、荒い呼吸に合わせて大きく揺れる。
燃え上がる炎は怒りの証であり、同時に消耗の証でもあった。
男はその様子を、愉快そうに眺めている。
「いいねぇ。健気で泣けてくるよ」
焔羅は返事をしない。
返す余裕も、返す気もなかった。
ただ牙を剥き、次に飛び込んでくる夜魅烏へ爪を振るう。
その時だった。
背後から、呉代の声が聞こえた。
「焔羅!」
その声に、焔羅の耳がぴくりと動く。
ちらりと、焔羅は目だけで背後を見た。
そこにいたのは、呉代。
そして、その肩に担がれるように支えられた哀だった。
顔は腫れ上がり、血で汚れている。
身体は力なく垂れ下がり、意識があるのかどうかすら分からない。
死――。
その言葉が、焔羅の頭をよぎった瞬間――鼓動が大きく跳ねた。
「あ、哀殿……?」
返事はない。
再び、鼓動が跳ねる。
どくん。
夜魅烏が飛んでくる。
だが、もう焔羅の目には入っていなかった。
(哀殿……ごめん……)
守れなかった。
また、自分は守れなかった。
(このままじゃジリ貧だ……呉代殿に哀殿を守ってもらいつつ――)
一際大きく鼓動が跳ねる。
(我は……また、守れなかっただけでなく……まだ、人に頼ろとしてるのか)
鼓動の音はさらに大きくなり、やがて焔羅の身体そのものを内側から揺さぶり始めた。
(我が……我が護る!)
その悔恨と怒りが、覚悟となり、炎となって焔羅の内側で爆ぜる。
「ウォーーーーン!」
焔羅が、大きく吠えた。
その咆哮と同時に、焔羅の身体から青紫の炎が噴き出す。
呉代は、目を疑った。
背後からうっすらと見える焔羅の輪郭が、炎の中で変わっていく。
全身の筋肉が、毛皮の上からでも分かるほどに隆起する。
骨格が軋み、四肢が伸び、胴が大きく広がっていく。
小型犬程度だった焔羅の身体は、みるみるうちに人間大ほどの大きさへと膨れ上がった。
首には、いつの間にか太い紅白の注連縄が巻かれている。
そこに付いた鐘が、がらん、と鳴った。
その音を合図にするように、辺りへ散っていた炎が一斉に焔羅の身体へ収束していく。
青紫の火が毛並みに溶け、四肢へ宿り、瞳の奥で激しく燃え上がる。
そこにいたのは、もう先ほどまでの小さな狛犬ではなかった。
怒りと後悔を炎に変えた、守護の獣だった。
変貌した焔羅の姿を見て、男の顔から余裕が消えた。
「なんだよ、それ……」
先ほどまでの軽薄な笑みは、もうない。
「君程度の存在が自我を持ってるのも変だったけど……それが正体ってわけ?」
焔羅は、男の言葉に答えない。
ただ、低く身を沈め、前傾姿勢を取った。
青紫の炎が四肢に宿り、爪先で床板が焦げる。
「呉代殿」
焔羅は、男から目を離さぬまま告げる。
「我が道をつくる」
その言葉と同時に、焔羅のいた床板が弾けた。
巨体が、炎を纏った弾丸のように廊下を駆ける。
男の表情が歪む。
「夜魅烏!!」
荒れた声で叫ぶと、十体の夜魅烏が一斉に焔羅の前へ飛び出した。
先ほどの焔羅と同じように、身を呈して道を塞ぐつもりなのだろう。
だが、それはかなわない。
焔羅は止まらない。
炎を宿した爪を、横薙ぎにひと振り。
ただそれだけだった。
青紫の軌跡が廊下を裂き、夜魅烏たちをまとめて薙ぎ払う。
十体の夜魅烏は、擦れた笛のような声を残して、ばたばたと地に落ちた。
その黒い羽が床に散るより早く、焔羅は男へ迫る。
「っ……!」
男が息を呑む。
もう、軽口を叩く余裕はなかった。
焔羅がその狂牙を剥き出しにし、男へ喰らいつこうとした、その瞬間。
背後から声が飛んだ。
「殺すな!」
その声に、焔羅の動きが一瞬だけ鈍る。
牙が、男の喉元へ届く寸前で止まった。
焔羅はぎり、と牙を食いしばる。
次の瞬間、焔羅は牙ではなく額を叩きつけるように、男の身体を吹き飛ばした。
「がっ――!」
男の身体は廊下の奥へ一直線に弾き飛ばされる。
そして突き当たりの壁へ激突した。
凄まじい衝撃音が響き、建物全体がびりびりと揺れる。
壁には大きな亀裂が走り、ぱらぱらと天井から埃が落ちた。
焔羅は荒く息を吐きながら振り返った。
階段から半身を出している呉代を、鋭く睨みつける。
「なぜ止めたんだ」
その声には、明らかな怒りが滲んでいた。
呉代は思わず生唾を飲み込む。
今の焔羅は、先ほどまでの小さな狛犬ではない。
人間大にまで膨れ上がった身体。
全身に宿る青紫の炎。
牙も爪も、怒りそのもののように剥き出しになっている。
それでも、呉代は言わなければならなかった。
「あれは、腐っても鷹宮家の人間。今回こちらに死者が出ていない以上、鷹宮の人間を殺すと――」
「だからなんだ!」
焔羅が、呉代の言葉を怒号で断ち切った。
廊下が震える。
「手を出したのはあいつだ!哀殿は死にかけてる!」
焔羅の炎が、さらに激しく揺れる。
「それに、主が言ってただろ!御三家は潰すと!」
言い切ると、焔羅は大きく息を荒げた。
肩が上下に揺れる。
怒り。後悔。悔しさ。
それらすべてが、燃え盛る炎となって焔羅の身体から溢れていた。
呉代は何も言えなかった。
焔羅の言っていることは、間違っていない。
呉代が言葉に詰まっていると、廊下の奥から呻き声のようなものが聞こえた。
壁際に吹き飛ばされた男が、苦しげに身じろぎしている。
「ぐふっ……はは」
掠れた笑い声。
「その駄犬を止めてくれて感謝するよ」
どういうつもりかは分からない。
だが男は、なおも軽口を叩いていた。
あれだけ叩きつけられたというのに、口元だけはまだ笑っている。
「貴様……!」
焔羅が低く唸る。
今にもとどめを刺そうと、前足へ力を込めた。
だが――男の次の言葉が、それを止める。
「時間をかけてていいの?言い合いするのも、僕を殺すのに時間をかけるのも勝手だけどさ」
男は、頭から血を流していることなどものともせず、醜く顔を歪めた。
「その子も、正面にいる白いのも、死んじゃうよ?」
焔羅が吼える。
「主を侮るな!」
哀の容態が、一刻を争うものなのは分かっている。
それでも、目の前の男が何人いようと白依が負けるなど焔羅には考えられなかった。
「ははははっ」
男は、喉を鳴らして笑った。
「その主くんの相手をしているのはさ、僕や君では傷を負わせることすら万に一つもありえない――」
その瞬間。
空気が、すっと冷えたように感じられた。
「鷹宮家が序列七位、鷹宮櫻佳様だよ」
その名を聞いた瞬間、呉代の表情が強張った。
鷹宮櫻佳。
序列七位。
その意味を、呉代は知っている。
呉代は、焔羅の身体へそっと手を当てた。
その手は震えていた。
「焔羅……急ごう」
声も、わずかに震えている。
「あの子が危ない」
焔羅はその言葉に、さらに怒りを露わにしそうになった。
主が危ないなど、認めたくなかった。
認められるはずがなかった。
だが、呉代のあまりにも怯えた姿を見て、何も言えなくなる。
これは焔羅を不安にさせるためでも、不快にさせるための言葉でもない。
呉代は本気で、白依の危険を感じている。
焔羅は奥歯を噛み締めるように牙を鳴らし、男を一睨みした。
――――――――――――――
「はぁ、はぁ、はぁ……」
白依は息を乱し、着ている純白のワンピースは、至るところが裂け、赤い模様が刻まれている。
「うふふ。もういいかしら」
櫻佳の愉悦の滲んだ声が、石畳や大地は抉れ、黒い羽が突き刺さり惨状と化した旧鞍瀬療養所の前に異様に響く。




