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神も人も〜人に砕かれた神の核を巡る、現代妖異譚〜  作者: 佐藤 潮


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第41話 価値

コンクリートに囲まれた、殺風景な部屋。


その部屋に、鈍い音と呻き声が響いていた。


「がっ……」


哀の身体が鎖に吊られたまま揺れる。


「ねぇ、まだ来ないんだけど」


燈色の着流しをまとった男が、退屈そうに首を傾げた。


「迷子?見た目だけじゃなくて、中身も子供なの?」


哀は腫れた瞼の隙間から、男を睨む。


あれから男は、十数分置きにこの部屋へやって来ては、同じような言葉を吐きながら哀を殴り、蹴った。


痛みで息が詰まる。


脇腹も、肩も、脚も、どこが一番痛いのか分からないほどだった。

それでも、哀は声を上げないよう奥歯を噛み締める。


泣けば、この男は喜ぶ。


それだけは、分かっていた。


「ほんと、つまんないなぁ」


男は不満げに呟き、哀の髪を掴んで顔を上げさせる。


「てかさ、君。もしかして人質としての価値もない?」


その言葉に、哀の息が止まった。


ここがどこなのかは分からない。


けれど、哀が目を覚ましてから、すでに数時間は経っているはずだった。


嫌な想像が、頭をよぎる。


もしかして、白依様は来ないのではないか。


自分など、助けに来る価値もないと思われているのではないか。


そんな考えが胸の奥に冷たく沈みかけ、哀は必死にそれを振り払った。


違う。


そんなはずがない。


自分がいなくなったせいで、移動手段が限られているだけ。

場所を探すのに時間がかかっているだけ。

きっと、もうこちらへ向かっている。


白依様は来てくださる。


焔羅も、きっと一緒に来てくれる。


哀はそう自分に言い聞かせるように、痛む身体で浅く息を吸った。


「黒杖の人間じゃなきゃ、もう殺してたのに」


男は吐き捨てるように言い放ち、そのまま部屋を出ていった。


重い扉が閉まる。


再び、哀は部屋に一人取り残された。


「――っ、ああああああああっ!」


哀は叫んだ。


それは言葉にならない叫びだった。


痛みでも、

恐怖でも、

怒りでもない。


そのすべてがぐちゃぐちゃに混ざり合い、胸の奥から溢れ出したものだった。


こんな何の価値もない自分に、助けが来ると思っている。


そんな自分の浅はかさが、たまらなく嫌だった。


それなのに、白依なら来てくれると信じたい自分がいる。


信じたい。

でも、信じることすら怖い。


もし来なかったら。

もし自分が本当に、その程度の存在だったら。


そう考えた瞬間、胸の奥がひどく冷たくなる。


そして何より哀の心を掻き乱したのは、自分が今も生かされている理由だった。


黒杖の人間だから。


自分がずっと忌み嫌ってきた生まれ。

逃げたいと願い、捨てたいとすら思ってきた血筋。


その生まれが、今の哀を殺されずに留めている。


その事実が、どうしようもなく哀の心を掻き乱した。


「なんで……」


掠れた声が漏れる。


「なんで、こんな時だけ……」


鎖がじゃらりと鳴った。


哀は力なく俯き、震える息を吐く。


助けてほしい。


でも、助けを待つ資格が自分にあるのか分からない。


生きたい。

けれど、生かされている理由があまりにも惨めだった。


暗い部屋の中、哀の嗚咽だけが細く響いた。


――――――――――――


白依たちは、目的地である旧鞍瀬療養所の少し手前に車を停めた。


そこから先は、人の手がほとんど入っていない山道を徒歩で進む。


木々は深く生い茂り、足元には湿った落ち葉が積もっている。

夜気は冷たく、風が枝葉を揺らすたびに、ざわざわと不穏な音が山の中に広がった。


やがて、旧鞍瀬療養所の目視できる位置まで辿り着く。


そこで三人は足を止めた。


朽ちかけた大きな建物が、闇の中に沈むように佇んでいる。

窓のいくつかは割れ、外壁には蔦が這い、入口へ続く道は草に覆われていた。


だが、そこには確かに人の気配がある。


「それじゃあ、作戦通りに」


呉代が小声でそう言った。


白依と焔羅は、小さく頷く。


次の瞬間、呉代と焔羅は建物の裏手へ向かって素早く移動を始めた。


草木の陰へ溶け込むように、二つの気配が闇の中へ消えていく。


少し遅れて、白依も動き出した。


正面から。


隠れる気など、最初からなかった。


白依は茂みを抜け、旧鞍瀬療養所の入口へと続く石畳の道へ出た。


白依が建物を正面に捉えた、その時だった。


軋む音を立てて、入口の大きな扉がゆっくりと開かれる。


中から現れたのは、白い着流しをまとった男女だった。


数名。


年齢も性別もばらばらに見える。

けれど、その全員の顔には、のっぺりとした白紙が貼りつけられていた。


目も、鼻も、口も見えない。


顔を隠しているというより、顔そのものを奪われているような異様さがあった。


白依はただ静かに、その者たちを見据える。


すると、白い着流したちの後ろから、もう一人が姿を現した。


桜色の着流しを纏った女。


薄暗い建物の入口に立つその姿は、周囲の白装束たちとは明らかに異質だった。


女は白依を見つめ、ゆるりと口元を緩める。


まるで、ようやく待ち人が来たとでも言うように。


「よくお越しくださいました」


桜色の着流しを纏った女が、柔らかく微笑む。


「私の名前は、鷹宮櫻佳。以後、お見知りおきを」


櫻佳と名乗った女は、丁寧に会釈をした。


蘭丸の読み通り、鷹宮家。


それも、白依たちを待ち構えていたかのように、堂々と名乗ってみせた。


だが、白依はそれに取り合わない。


「哀はどこだ」


返したのは、それだけだった。


名乗りへの返礼も、

相手への問い返しも、

余計な言葉は一切ない。


櫻佳は困ったように頬へ手を当てる。


「あらあら。こちらが名乗ったのですから、そちらのお名前もお教えして欲しいのですけれども」


その声は柔らかい。


けれど、その奥には白依を試すような響きがあった。


白依は足を止めたまま、櫻佳をじっと見据える。


「もう一度だけ聞く」


低く、冷たい声だった。


「哀はどこだ」


白紙を貼りつけた者たちが、わずかに身じろぎする。


櫻佳はそれを横目で見ながら、なおも微笑みを崩さなかった。


「なんとまあ、せっかちな方ですこと」


そう言って、ゆっくりと袖口へ手を添える。


その所作は優雅だった。


「行きなさい」


先ほどまでとは違う、櫻佳の冷たい声が響いた。


その一言を合図に、白装束の者たちが一斉に白依を取り囲むように動き出す。


顔に貼りついた白紙が揺れる。

その下に表情はない。

意思があるのかすら分からない。


けれど、その動きに迷いはなかった。


白依の前に二人。

左右に一人ずつ。

そして後方へ回り込むように、三人。


逃げ道を塞ぐための配置。


だが、白依は微動だにしない。


ただ、赤い瞳だけがゆっくりと動き、白装束たちを一瞥する。


「邪魔だ」


短く吐き捨てるような声だった。


櫻佳はその言葉に、薄く笑う。


「邪魔をしているんですもの」


その声は美しく整っていた。


白装束たちが、同時に一歩踏み込む。


石畳の上に、乾いた足音が重なった。


次の瞬間、白依の周囲で空気が張り詰める。


白依の前にいた二人が、覆い被さるように襲いかかってくる。


白依はそれを、後方へ跳んで避けた。


だが、それを待っていたと言わんばかりに、後方へ位置取っていた一人が白依へ手を伸ばす。


空中。


足場のないその瞬間を狙った動きだった。


しかし、白依はその伸びてくる腕を掴む。


そのまま空中で身を翻し、相手の勢いすら利用して、白紙の貼られた顔面へ膝を叩き込んだ。


鈍く、乾いた音が鳴る。


白紙の下で何かが砕ける感触。


その身体は力を失い、糸が切れた人形のように石畳へ崩れ落ちた。


白依が地面へ着地すると同時に、左右に控えていた者たちも動いた。


一人が左から。

もう一人が右から。


挟み込むように、白依へ襲いかかる。


今しがた仲間が倒されたというのに、動きに乱れはない。


心配する素振りもなければ、

恐れを見せる様子もない。


ただ命じられた通りに動くだけ。


白依は左から迫る腕を半身で躱し、同時に右から伸びてきた手首を掴む。


そのまま力任せに引き寄せ、右の白装束を左の白装束へ叩きつけた。


二つの身体がぶつかり、鈍い音が石畳の上に響く。


はじめに襲いかかってきた正面の二人は、地面へ叩きつけられた衝撃で両腕が折れていた。


骨の折れた腕は、不自然な方向へ曲がっている。


それでも、彼らは声ひとつ上げなかった。


痛みに呻くことも、動きを止めることもない。


ただ、貼りつけられた白紙の顔を白依へ向け、折れた腕をそのまま差し出してくる。


掴むために。

止めるために。

命じられた役割を果たすためだけに。


後方に控える残りの二人は動かない。


白依を逃がさないように命じられているのだろう。

道を塞ぐように立ち、ただこちらの動きを見ている。


意思がない。


痛みもない。


恐怖もない。


いや――奪われている。


「……不快だ」


白依の声が、低く落ちた。


それはただの苛立ちではなかった。


人を人のまま使わず、道具のように並べ、壊れてもなお動かすその在り方へ向けた、純粋な嫌悪だった。


――――――――――――――


哀の視界は霞んでいた。


目の前にいる男の顔すら、もう朧げにしか見えない。


口元が動いている。

何かを喋っているのは分かる。


だが、その声も遠い。


水の中で聞いているように、輪郭がぼやけて、意味のある言葉として頭に入ってこなかった。


(鼓膜も……やられたかな……)


そんなことを、どこか他人事のように思う。


「ねえ、聞いてんの?君って本当に無――」


男の口が、そこで止まった。


突然、男は斜め上を見上げる。


そして、口角を上げた。


哀には、その行動の意味が分からなかった。


男の唇がまた動く。

何かを言っている。


けれど、聞こえない。


音は遠く、視界は滲み、身体の痛みだけがやけにはっきりしていた。


やがて男は哀から視線を外し、何事もなかったかのように部屋を出ていく。


重い扉が閉まる音さえ、今の哀には振動しか感じられない。


残されたのは、鎖に吊られた身体と、霞む視界。


そして、音も光もほとんど奪われた暗い部屋だけだった。


――――――――――――――


一方、建物裏手。


呉代は割れた窓枠から、音を立てないよう慎重に侵入した。


床へ降り立つ足音は、ほとんどない。


その後ろから、焔羅も身を低くして続く。


薄暗い廊下には、埃と湿気の匂いが淀んでいた。

かつては人が使っていた建物のはずなのに、今はもう、廃墟特有の冷たさだけが残っている。


「どう?」


呉代が小声で焔羅に問う。


焔羅は答えず、鼻をひくひくと動かした。


空気に混じる匂いを探る。


埃。

黴。

古い木材。

人の気配。


そして――


焔羅の動きが、ぴたりと止まった。


爪が、床へ食い込む。


「……いる」


低く、押し殺した声だった。


「哀殿の血の匂いだ……」


小声ではあった。


けれど、その声ははっきりと怒気に染まっていた。


呉代の表情も、わずかに強張る。


「……急ごう」


短くそう告げると、呉代は廊下の奥へ視線を向けた。


焔羅も頷き、牙を噛み締める。


二人は息を潜めたまま、哀の血の匂いがする方へと足を進めた。


匂いを辿る焔羅が先導し、その後ろを呉代が周囲へ警戒を向けながら進んでいた。


薄暗い廊下を、二人は慎重に進む。


床板が軋まないよう足を運び、

壁の向こうや天井裏にまで意識を張る。


だが、しばらく進んだところで、焔羅の足がぴたりと止まった。


そこには何もない。


古びた壁があるだけだった。


「どうしたの?」


呉代が小声で問う。


焔羅は鼻をひくつかせながら、何もない壁の一点を見つめる。


「ここから匂いが――」


そう言いかけた、その瞬間。


何の変哲もない壁から、燈色の着流しを着た男が、ぬっと姿を現した。


「わっ!びっくりした!」


男は心底驚いたような声を上げ、反射的に飛び退く。


それに合わせるように、焔羅と呉代も同時に距離を取った。


「えぇー、なんでこんな所まで侵入されてるの?」


男は頭をぽりぽりと掻きながら、気の抜けた調子で軽口を叩く。


その様子には、焦りも緊張も見えない。


呉代はすぐさま短刀を構え、臨戦態勢を取った。


焔羅は、その男を見た瞬間、牙と爪を剥き出しにした。


喉の奥から、低い唸り声が漏れる。


巨大な鴉の背にいた男。


哀を連れ去った男。


そして――男の手から、ぽたりと滴り落ちる赤い液体。


焔羅の纏う炎が、怒りに呼応するように激しく揺らめく。


「お前……」


声は低く、獣じみていた。


呉代もまた、短刀を構えたまま男の手元へ視線を向ける。

その表情が、わずかに険しくなった。


焔羅は一歩、前へ出る。


床に爪が食い込み、ぎり、と嫌な音を立てた。


「お前、哀殿に何をした!」


殺気を込めた問いが、薄暗い廊下に叩きつけられる。


男はその声を受けても、すぐには答えなかった。


ただ、自分の手から滴る血をちらりと見下ろし、それから首を傾げ笑うように口を歪めた。


「ああ、これ?」


軽い声だった。


「君たちが遅いのが悪いんだよ?不可抗力ってやつさ」


その言葉を聞いた瞬間、焔羅の中で何かが切れた。


「殺す」


低く漏れた声と同時に、青紫の炎が廊下を照らした。

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