閑話 御三家噂話 鷹宮家編
陰務省本部、応接室。
男が部屋へ入ると、そこにはすでに薄紅色の着流しを纏った女がソファに腰掛けていた。
派手さはない。
けれど、所作のひとつひとつが妙に目を引く女だった。
男は一瞬だけ息を呑み、すぐに頭を下げる。
「遅れてしまい、申し訳ありません」
実際には、約束の時刻までまだ余裕があった。
しかし、すでに相手を待たせている。
そして相手が御三家――鷹宮家の者であるならば、謝罪以外の選択肢などなかった。
「構いませんよ。私が早く着いてしまっただけですから」
返ってきたのは、柔らかい声だった。
責めるでもなく、試すでもない。
その穏やかさに、男は内心ほっと息をつく。
「そう言っていただけると助かります」
「そんなにかしこまらなくても大丈夫ですよ。鷹宮家といっても、私は雑用係のようなものですから」
女は微笑みながら、向かいのソファへ視線を向けた。
「失礼します」
男は小さく一礼し、浅く腰を下ろす。
今回の訪問は、あくまで形式的なものだった。
御三家と陰務省は敵対関係にはない。
少なくとも、表向きはそういうことになっている。
互いに無視できる存在ではないが、完全に手を取り合えるほど近しくもない。だからこそ、こうして定期的に顔を合わせ、最低限の交流は保っていると内外に示す。
いわば、儀礼のような場だった。
相手は鷹宮本家の者ではある。
だが、本家の中では立場が低い。
先ほど自ら雑用係と口にしたのも、完全な謙遜ではなかった。
陰務省側も、それを理解している。
だからこそ、この場をあえて若手の職員に任せていた。
重く扱いすぎず、かといって雑にも扱わない。
この応接室にいる二人は、互いの組織にとってちょうどいい駒だった。
男はそれを理解しているからこそ、余計に気が重かった。
そこからは、互いに近況を簡単に報告し合うだけの時間が続いた。
報告とは言っても、内容はあってないようなものだった。
陰務省側は、最近発生している怪異案件の傾向について、差し障りのない範囲で触れる。
鷹宮家側も、管轄内で確認された小規模な異変や、式神の運用に関する定型的な報告を返す。
どちらも、核心には踏み込まない。
何かを教えるためではなく、何も隠していないという形だけを整えるための会話。
男もそれは理解していた。
理解していたが、目の前の女の受け答えは想像していたよりもずっと柔らかく、話の流れも拍子抜けするほど穏やかだった。
このままなら、何事もなく終わる。
そう思った瞬間、男の肩からほんの少し力が抜けた。
「いや、正直……鷹宮家の方と聞いて、かなり緊張していたんですが」
そこまで口にして、男は苦笑する。
女は変わらず、穏やかな笑みを浮かべていた。
だからだろう。
気が緩んだ男の口から、余計な言葉が滑り落ちた。
「噂というのも、案外当てにならないものですね」
瞬間。
応接室の空気が止まった。
会話が途切れた、という程度ではない。
まるで音そのものが部屋から消えたような、奇妙な沈黙だった。
男はすぐに、自分が何かを間違えたのだと悟る。
しかし、その何かを理解するよりも早く、背筋を冷たいものが這い上がった。
「あなたの言う噂が、どのようなものかは存じませんが」
女が、静かに口を開いた。
声は変わらず柔らかい。
けれど、その目だけが違っていた。
先ほどまで穏やかに細められていた瞳が、今はまるで獲物を見据える猛禽のように鋭く男を射抜いている。
「言葉には、お気をつけください」
たったそれだけだった。
怒鳴られたわけではない。
責め立てられたわけでもない。
だというのに、男の喉はひゅっと細く鳴った。
言葉を返そうにも、舌が上手く動かない。
自分の軽率な一言が、どれほど危ういものだったのか。
その目を見た瞬間、嫌というほど理解させられた。
だが、次の瞬間にはもう、女の雰囲気は元に戻っていた。
鋭さは影も形もなく消え、表情もいつの間にか柔らかな微笑へと戻っている。
まるで、今の一瞬など最初から存在しなかったかのように。
「私は、本家の中でも浮いた存在と言いますか……」
女は静かに語り始めた。
その声は、先ほどまでと同じように穏やかだった。
けれど男は、もうその穏やかさだけを素直に受け取ることができなかった。
「あなたの言いたいことは、大体分かります。だからこそ、私がこういった対外的な場へ出されるのです」
男は何も言えなかった。
今の言葉は、ある意味では先ほど男が口にした噂を肯定するものに聞こえた。
彼女が穏やかだから、この場に出されている。
彼女が本家の中で浮いた存在だから、陰務省との顔合わせに回されている。
つまり、男が目にしているこの女の在り方こそが、鷹宮本家においては異質なのだ。
その事実に思い至り、男の背筋に再び薄い冷気が走った。
「鷹宮家に限らず、各御三家の序列入りしている方には、特に、ね」
女は最後に、そう付け加えた。
序列入り。
御三家の中でも、特に力を認められた者たち。
才能、実力、血筋、功績。家ごとに基準は違えど、その名が序列に刻まれるということは、ただ者ではないという証でもある。
鷹宮家。
黒杖家。
言祝家。
そのどれであっても、序列入りの者たちは例外なく、陰務省ですら扱いに気を遣う存在だった。
男の喉が、こくりと鳴る。
生唾を飲み込んだだけの音が、やけに大きく応接室に響いた気がした。
「序列というのは……やはり、単純に実力順なのですか?」
気づけば、男はそんなことを口にしていた。
踏み込みすぎた問いだと分かったのは、言葉にしてからだった。
だが女は怒るでもなく、少しだけ考えるように目を伏せた。
「家によります」
静かな答えだった。
「黒杖家なら、扱える呪具、作れる呪物、あるいは壊せるもの。言祝家なら、言葉の届く範囲、縛れるもの、黙らせられるもの。では、鷹宮家は何を見ると思いますか?」
「……式神の質や数、とかでしょうか?」
女は微笑んだ。
「何を従えたか。どこまで従えたか。そして、従えたものに喰われずに立っていられるか」
男は、思わず息を止めた。
式神。
陰務省の記録上では、術者によって使役される霊的存在、あるいは術式によって形を与えられた使い魔。そう分類されている。
だが、鷹宮家における式神は、そんな簡単な言葉で片づけられるものではないらしい。
「鷹宮にとって式神は、ただの道具ではありません。家の格であり、血の証であり、時には己の半身でもあります」
「半身……」
「ええ。だからこそ、半端な者が身の丈に合わぬ式神を持てば、誓約方法にもよりますが主従は簡単に裏返ります」
女の声音は穏やかだった。
だが、男の脳裏には自然と、式神に使われる術者の姿が浮かんだ。
「鷹宮家において序列入りとは、それでも上に立てる者たちのことです」
女はそこで、ほんのわずかに視線を上げた。
「ですが、天狩の名を持つ方だけは、少し違います」
男の指先が、ぴくりと動いた。
天狩。
鷹宮迅。
資料上では何度も目にした名だった。
鷹宮家序列一位。
現当主・鷹宮勲の懐刀にして、鷹宮本家の最高戦力。
男がその名を思い浮かべた瞬間、女は静かに続けた。
「あの方は、式神をただ使うのではありません」
女は微笑んでいた。
けれどその笑みは、先ほどまでよりも少しだけ遠いものに見えた。
「その場を狩場に変え、式神を牙にし、盾にし、必要とあればその場で使い捨てる」
「……捨てる?」
女は、困ったように微笑んだ。
「ええ。あの方にとって式神とは、ただの道具なのです」
男は、何も言えなかった。
聞き返す勇気はなかった。
ただ分かったことがある。
目の前の女は、鷹宮家の中では穏やかな部類なのだろう。
対外的な場に出されるほど、扱いやすい者なのだろう。
だが、それでも一瞬の視線だけで、男の舌を縫い止めた。
ならば。
鷹宮家の中心にいる者たちは、一体どれほどなのか。
男の沈黙をどう受け取ったのか、女は何事もなかったように湯呑みを手に取った。
「……先程も言いましたが、言葉にお気をつけください。口は災いの元ともいいますしね」
柔らかな声だった。
男は小さく頭を下げる。
「肝に銘じます」
応接室には、再び穏やかな沈黙が落ちた。
ただし男にとって、それはもう安心できる静けさではなかった。
薄紅色の着流しを纏った女は、変わらず柔らかく微笑んでいる。
その笑みを前に、男はようやく理解した。
鷹宮家とは、空を見上げる家ではない。
空の上から、こちらを見下ろす家なのだと。




