第40話 静かに
白依はすぐにでも飛び出そうとした。
だが、その背へ蘭丸が制止の声をかける。
「ちょっと、白依ちゃん?」
「なんだ」
振り返りもせずに返す声は、ひどく冷たかった。
「なんだ、じゃなくて。まさか今からそのまま行く気?」
「当たり前だ。早く車を出せ」
一切の迷いもない即答だった。
蘭丸はそんな白依を見て、ため息混じりに説得を試みる。
「焦る気持ちは分かるけど、一旦落ち着いて?今、一番優先しないといけないのは哀ちゃんの奪還でしょ?ただ攻め込み暴れれば終わり――なんて簡単な話じゃないのよ」
白依は、誰の目にも分かるほど危うかった。
今にも己の内に秘めた力を爆発させ、そのまま旧鞍瀬療養所へ突っ込んでいきそうな気配を纏っている。
蘭丸はそんな白依から目を逸らさず、さらに続けた。
「それに、鷹宮家が相手ならなおさらよ。入念に準備しないと……」
焔羅が白依の足元へ寄る。
そして、ワンピースの裾を爪でそっと引っかけた。
「主……哀殿のためです」
その言葉に、白依は肩で大きく息を吐く。
しばらくそのまま立ち尽くしていたが、やがて諦めたように壁際へ歩き、どさりと座り込んだ。
「……早くしろ」
低く落ちたその一言には、苛立ちも焦燥も、そのまま滲んでいた。
それでも白依は、止まった。
哀を取り戻すために。
今は、感情のまま動くべきではないと、かろうじて飲み込んだのだ。
杣木邸の崩れた居間に、重く張りつめた沈黙が落ちる。
その中心で白依だけが、じっと旧鞍瀬療養所のある方角を睨み続けていた。
蘭丸は、今後の動きについて話し始めた。
「まず、戦闘は避けられないでしょうね。私や呉代ちゃんは表立って一緒には動けないから、基本は白依ちゃんと焔羅ちゃんの二人で動くことになるわ」
「はなからそのつもりだ」
白依が即座に返す。
蘭丸はひとつ頷き、そのまま続けた。
「鷹宮家の目的は、おそらく白依ちゃんでしょうね」
そう言って、細めた視線を白依へ滑らせる。
「だから白依ちゃんには危険だけど、正面で目立ってもらう。その隙に呉代ちゃんに哀ちゃんを救出してもらう――そういう流れがいいと思うの」
その言葉に、白依と呉代がぴくりと反応した。
「必要ない。哀は白依が連れ出す」
白依は、言い切る。
蘭丸はそんな白依をじっと見つめ、静かに問い返す。
「もし、目の前で哀ちゃんを人質として使われたら?」
その一言に、白依の目が見開かれる。
同時に、抑えきれない気がまたわずかに漏れ出した。
蘭丸は一歩も引かず、言葉を続ける。
「そういう可能性もある。いや、十中八九、そうなるでしょ」
白依は何も言えない。
それを見届けると、蘭丸は今度は呉代へ視線を向けた。
その目だけは、先ほどまでとは違ってどこか優しかった。
「やってくれる?」
呉代は一瞬だけ迷う。
けれど、蘭丸の目を見返し、やがて小さく頷いた。
「……了解」
蘭丸は再び白依へ視線を戻す。
「白依ちゃん。これは、呉代ちゃんを助けてくれたことへのお返しでもあるの」
その声音は柔らかかった。
「私、借りを作るのは嫌いなの」
蘭丸は、ぱん、とひとつ手を叩き、次の確認へ移った。
「それじゃあ、大まかな流れはそれでいいとして……」
そう言って、白依と焔羅を交互に見る。
「二人は武器とかは?」
「いらん」
白依は即答した。
「我には牙と爪に炎もある!」
焔羅は胸を張り、牙と爪を剥き出しにしてみせる。
纏う炎も、ぶわりと勢いを増した。
「うーん……」
蘭丸は片手を頬に当て、困ったような声を漏らした。
「焔羅ちゃんはまあ、それでいいとして。白依ちゃんは、何か持っておいた方がよくないかしら?」
その言葉に、焔羅がはっとしたように顔を上げる。
「主! 我が入れば、武器なんて必要なくなりますよ!」
以前、ホテルで白依に憑依した時のことを思い出したのだろう。
焔羅は得意げに胸を張る。
「だめだ」
白依は、焔羅の提案を即座に切り捨てた。
焔羅はしゅんと耳を伏せる。
「お前は、この女についていけ」
そう言って、白依は呉代へ視線を向けた。
「まだ信用できない」
あまりにも裏表のない、真っ直ぐすぎる物言いだった。
呉代は一瞬だけ眉を動かし、蘭丸は思わず苦笑いを浮かべる。
「まあ、白依ちゃんらしいわね」
それから蘭丸は、呉代へ視線を向けた。
「呉代ちゃん、今手持ちで何かあったかしら?」
「車のトランクに、細々したのならいくつか」
「なら、それを取ってきてくれる?」
「了解」
呉代は短く返すと、すぐに踵を返し、車の方へ走り出した。
白依はその背中を黙って見送る。
焔羅もまた、まだ少し不満そうにしながらも、白依の命令を受け入れたように呉代の後ろ姿を目で追っていた。
蘭丸は姿勢を正した。
それまでの軽薄さがふっと消え、真面目な面持ちで白依へ向き直る。
「白依ちゃん」
その雰囲気の変わりように、白依も自然と蘭丸へ視線を向けた。
「こんなことを言える立場じゃないのは分かっているのだけど……もしもの時、あの子――呉代ちゃんのこともお願い」
その声は、切実だった。
先ほどまでの飄々とした調子ではない。
茶化すでも、誤魔化すでもなく、本心から出た言葉だと分かる声音だった。
白依は、じっと蘭丸を見る。
「なら、なぜ行かせる」
当然の疑問だった。
危険だと分かっている。
御三家が絡んでいる。
それでも大切に思っている相手を向かわせる理由が、白依には分からなかった。
蘭丸は一瞬だけ黙る。
そして、柔らかく笑った。
「可愛い子には旅をさせよ、って言うでしょ」
ふふふ、と小さく笑う。
けれど、その笑みはいつものように人を食ったものではなかった。
寂しさと、心配と、それでも背中を押すしかないという諦めにも似た覚悟が、そこにはあった。
白依は、その笑みを見て目を細める。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ、その顔がかつて見た母親の顔と重なった。
自分を抱き、逃がし、白依の命を最後まで諦めなかった人の顔。
気のせいではない。
白依はそう思った。
だからこそ、少しだけ返す言葉が遅れた。
蘭丸は何も言わず、ただ白依の返事を待っている。
やがて白依は、短く息を吐いた。
「……哀のついでだ」
それは、承諾だった。
蘭丸は一瞬だけ目を丸くし、それからいつものように笑みを浮かべる。
「ありがとう。白依ちゃん」
「帰りの足がいるからだ」
白依は、視線を逸らした。
けれど蘭丸は、その返しに何も言わず、ただ静かに笑っていた。
――――――――――――――――
哀は、肩の痛みで目を覚ました。
鈍く、重い痛みが両肩に食い込んでいる。
身じろぎしようとした瞬間、じゃらり、と乾いた金属音が暗闇に響いた。
「っ……」
両腕と両脚が、鎖に繋がれている。
それも、ただ縛られているのではない。
壁に貼りつけられるような形で固定され、まともに身動きが取れなかった。
(ここは……?)
周囲を見回そうにも、視界はほとんど闇に塗り潰されている。
窓はない。
外の光も入ってこない。
分かるのは、ここがどこかの室内らしいということだけだった。
湿った空気。
古い埃の匂い。
冷たい壁の感触。
知らない場所だ。
最後に覚えているのは、杣木邸が大きく揺れたこと。
屋根が崩れ落ち、視界が砂埃に呑まれたところまで。
その先の記憶が、すっぽりと抜け落ちている。
(白依様……)
哀は、反射的にその名を心の中で呼んだ。
だが返事はない。
当然だ。
ここに白依はいない。
その事実を理解した瞬間、胸の奥に冷たいものが広がっていく。
その時だった。
ガゴッ、ギィ――。
重く軋む音が、暗闇の部屋に響き渡る。
次の瞬間、細く差し込んだ光が、哀の視界を白く裂いた。
「うわっ、暗すぎでしょ。明かりくらい付けとけよなー」
男の声だった。
軽い。
あまりにも場にそぐわない、気の抜けた声音。
男は扉を開けると、近くにあったレバーへ手を伸ばした。
ガチャン。
乾いた音とともに、天井の照明が一斉に灯る。
眩しさに、哀は思わず目を細めた。
闇に慣れていた視界が、急に白く塗り潰される。
やがて少しずつ目が慣れてくると、自分がいる場所の輪郭が見えてきた。
コンクリートで囲まれた、窓のない部屋。
壁には鎖を固定する金具が打ち込まれ、床には黒ずんだ染みがいくつも残っている。
ここがただの部屋ではないことは、一目で分かった。
哀は喉を鳴らし、扉の方へ視線を向ける。
そこにいたのは、燈色の着流しをまとい、首にゴーグルのようなものをかけた小柄な男だった。
男は哀を見るなり、軽い足取りで近づいてくる。
「やあ。目、覚めたんだ」
その声はやけに馴れ馴れしかった。
まるで知り合いにでも声をかけるような態度が、妙に鼻につく。
哀は鎖に繋がれた手足をわずかに動かしながら、男を睨んだ。
「あなたは誰? ここはどこなの? なんで私をここに?」
そう問いかけた瞬間、男の表情がすっと変わった。
先ほどまでの軽薄な笑みが消え、露骨に不快そうな顔になる。
「は?」
低い声だった。
「なんでタメ口なの?初対面で質問攻めとかやめてよ」
その声音には、子どもじみた苛立ちと、相手を見下すような不快な響きが混じっていた。
哀は息を呑む。
機嫌を損ねる基準が、分からない。
それが何より気味悪かった。
哀は、とにかく情報を得るため、今度は言葉を改めた。
「……ごめんなさい。ここは、どこなんですか?」
なるべく刺激しないように。
なるべく柔らかく。
そう意識して問いかける。
男は、にこりと笑った。
次の瞬間――
哀の脇腹に、強烈な衝撃が走る。
「うぐっ……!」
身体の奥で、ぱき、と乾いた音が響いた。
痛みが一拍遅れて弾け、哀の呼吸が詰まる。
鎖に繋がれた身体は逃げ場もなく、壁へ押しつけられたまま、ただ衝撃を受け止めるしかなかった。
「そうやってさぁ」
男の声が、すぐ近くで聞こえる。
「上辺だけ取り繕ったって、分かるから」
男は項垂れる哀の髪を無造作に掴み上げた。
強引に顔を上げさせられ、痛みに滲む視界の中で、男の顔が近づいてくる。
「僕のこと、馬鹿にしてんの?」
その目には、光がなかった。
怒っているのに、熱がない。
笑っているようで、愉しんでいるわけでもない。
哀は、痛みに震える息を押し殺しながら、その目を見返すことしかできなかった。
すると、男はぱっと手を離した。
支えを失った哀の頭が、力なく前へ落ちる。
「まあ、君はただの人質だから」
男の声は、もう元の気の抜けた調子に戻っていた。
「そこで大人しくしててよ」
まるで何事もなかったかのようにそう言い残し、男は踵を返す。
そのまま扉へ向かって歩いていく背中に、哀は反射的に声をかけようとした。
「まっ――」
だが。
男が、ぎろりと首だけで振り返る。
その瞳には、やはり光がなかった。
哀の喉が、ひゅっと詰まる。
続けようとした言葉は、声にならなかった。
男はそれを確認すると、満足したのか、また何事もなかったように前を向く。
そして、そのまま部屋を出ていった。
重い扉が閉まる音が、部屋に響く。
再び残されたのは、鎖の重みと、脇腹に残る痛み。
そして、自分がただの人質としてここに吊るされているという、冷たい現実だけだった。
「白依様……焔羅……」
力のない、弱々しい声が零れる。
その声は誰に届くこともなく、冷たい壁にぶつかり、虚しく木霊した。
――――――――――――――――
白依たちは、呉代の運転で旧鞍瀬療養所へ向かっていた。
蘭丸は《夜桜》へ戻っている。
何やら、別でやることがあるらしい。
車内は、異様な雰囲気に包まれていた。
誰も口を開かない。
エンジン音と、タイヤが路面を噛む音だけが静かに響いている。
いつもなら、腹が減ったと騒ぐ焔羅でさえ、今は黙っていた。
白依の隣で身を丸めるように座りながら、その爪をじっと見つめている。
まるで、己の牙や爪を内側から研ぎ澄ませているようだった。
呉代も余計なことは言わない。
ハンドルを握る手に力を込め、ただ前だけを見て車を走らせている。
そして白依は――後部座席で、窓の外を見ていた。
表情は動かない。
だが、その赤い瞳の奥には、静かに燃えるものがあった。
怒りとも、殺意とも、焦燥とも違う。
それらすべてを沈めたうえで、ただ一点だけを見据えているような眼。
哀を取り戻す。
そのために必要なら、誰であろうと砕く。
車内に言葉はなかった。
けれど、その沈黙こそが、白依たちの向かう先にあるものの重さを物語っていた。




