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神も人も〜人に砕かれた神の核を巡る、現代妖異譚〜  作者: 佐藤 潮


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第39話 奪われる

蘭丸たちが帰ったあとの杣木邸。


「白依様、蘭丸さんたちはお帰りになりました」


哀の声は明るかった。


だが、その直後――ふっと足から力が抜けた。


「あ、あれ……」


身体が揺らぎ、その場で膝をついた。


「哀殿、大丈夫か?」


焔羅が慌てて駆け寄り、心配そうに哀の顔を覗き込んだ。


「う、うん……なんだか急に、脚に力が入らなくなって……」


哀は戸惑ったように答える。


白依はそんな哀をじっと見つめていたが、やがてその視線は、蘭丸が哀へ贈った指輪へ落ちた。


黒く鈍い光を宿すそれを一瞥し、白依は短く告げる。


「休んでいろ」


そう言って、白依は立ち上がった。


「白依様、どこへ?」


哀が慌てて声をかける。


「風呂だ」


「そんな!なら、私も――」


哀も立ち上がろうとする。


だが、やはり脚にうまく力が入らないらしく、身体がふらりと揺れた。


「どうせ、その指輪を使った反動だ。大人しくしていろ」


白依は淡々と言い放ち、そのまま廊下へ一歩踏み出した。


――その時だった。


家全体が、まるで暴風に煽られたかのように一瞬だけ揺れる。


一拍。


次の瞬間――


けたたましい轟音が炸裂した。


先ほどとは比べものにならないほど大きく家が揺れ、居間の天井が一気に崩れ落ちる。


「っ――!」


辺り一帯は瞬く間に砂埃に呑まれ、視界が完全に奪われた。


白依と焔羅は咄嗟に後方へ飛び退いた。


だが、その瞬間、二人は同時にはっとする。


「哀殿!無事か!」


焔羅が鋭く吠える。


けれど、その呼びかけに返ってきたのは哀の声ではなかった。


「ごほ、ごほっ!あれー、ちっとズレたか?」


男の声だった。


白依の赤い瞳が、すっと細まる。


次の瞬間、白依は右腕を力いっぱい薙ぐように振るった。


その一振りで土煙が大きく払われる。


そして――視界が開けた先の光景に、白依と焔羅は目を見開いた。


そこにいたのは、白依の何倍もの巨躯を誇る巨大な鴉だった。


異様に大きな翼。

闇を切り裂く鉤爪。

人では到底届かぬ高さから、こちらを見下ろしている。


そして、その足元。


鴉の爪に押し潰されるように掴まれ、気を失っている哀の姿があった。


「ありゃ、そっちだったかー。まあ、一緒に住んでるなら人質にはなるか」


軽薄な調子で喋りながら、鴉の背から男がひょいと顔を覗かせる。


どこかふざけたような声音。

けれど、その足元には確かに、哀が囚われていた。


「えーと。この人質を返して欲しくば、旧鞍瀬療養所まで来い。……これでよかったっけ?」


まるで誰かに言わされた台詞をそのまま読んでいるような、感情の乗っていない棒読みだった。


その瞬間。


焔羅と白依が、同時に地を蹴る。


怒りと殺意を剥き出しにした焔羅。

そして何も言わぬまま、ただ一直線に男を捉える白依。


二つの影が、鴉とその背の男へ一気に襲いかかった。


しかし、一歩遅かった。


鴉がその黒く巨大な翼を広げ、力強く羽ばたく。


轟、と叩きつけられた風圧に、白依は思わず足を止められた。

焔羅は真正面からそれを受け、そのまま壁際まで吹き飛ばされる。


「おお、怖い怖い。場所は伝えたからなー」


男はどこまでも軽い調子でそう告げた。


次の瞬間、鴉は哀を掴んだまま真上へ飛び上がる。


夜気を裂き、黒い巨体はあっという間に闇の中へ溶けていった。


残されたのは、崩れた杣木邸と、舞い上がる砂埃、そして――哀を奪われたという事実だけだった。


「クソッ!また守れなかった!」


焔羅が喉を震わせ、畳を掻きむしる。


悔しさと怒りが、そのまま剥き出しになっていた。


白依は何も言わない。


ただ、先ほどまで鴉がいた場所へ、ひたひたと歩いていく。


そして、哀が連れ去られた道筋を辿るように、ゆっくりと天を見上げた。


(何が起きた?)


白依の思考が、激しく揺れる。


(白依たちの家が……あいつはなんだ?人質?旧鞍瀬療養所?蘭丸が言っていた――)


次々と浮かぶ言葉が、まとまる前に渦へ呑まれていく。


理解しようとするほど、頭の中がぐちゃぐちゃに掻き乱される。


その時。


「白依ちゃん、いったいなにがあったの?」


蘭丸の声がした。


その声を聞いた瞬間――


(ああ)


白依の内側で、何かが軋む。


(あいつと、蘭丸は最初から……)


過去が、唐突に脳裏へ閃いた。


忌々しい記憶の断片。


ようやく手に入れた、狭くても確かにあった居場所。


白依と両親からそれを奪った、村人たちの顔。


そして――


白依を人質のように使い、じじいを砕いた陰陽師ども。


奪われる。

壊される。

踏みにじられる。


守ろうとしたものが、目の前で奪われていく。


あの日と同じだった。


白依は、ゆっくりと声のした方へ顔を向ける。


そこにいるのは蘭丸だ。


けれど、今の白依の目には、もう蘭丸が蘭丸として映っていなかった。


「……お前もなのか」


低く落ちたその声とともに、白依の内に渦巻いていた感情が、気を介して外へ溢れ出した。


燃え上がるような憤怒。


胸の奥に沈殿した、重く苦々しい憎悪。


そして、心のどこかにぽっかりと穴を穿たれたような哀愁。


それらが渾然一体となり、白依を中心にして場へ広がっていく。


まるで、感情そのものが質量を持ったかのように。


蘭丸は息を呑む。


その言葉が、自分へ向けられたものだと頭では理解している。

けれど、白依の赤い瞳は濁りを含み、まるで蘭丸そのものを見ていなかった。


もっと遠く。

もっと古く。

今ここにはいない“誰か”を見つめているようだった。


瓦礫の上で、白依の白い髪が風もないのにふわりと揺れる。


月明かりに照らされたその姿は、美しいはずなのに、今はただただ恐ろしい。


蘭丸は直感した。


――まずい。


今ここで言葉を間違えれば、終わる。


自分も。

呉代も。


居間には、誰ひとり声を発せず、沈黙だけが落ちた。


ただ、白依の赤い瞳だけが、冷たく、昏く、どこか遠い地獄の底を映したまま揺れていた。


その視線の先にいるのが、自分ではないと分かっていてなお、

蘭丸の背筋を這う悪寒は止まらない。


白依は今、ここにいながら、ここではないどこかに立っていた。


そして、その壊れかけた境界の上で――

誰かを、憎んでいた。


蘭丸は、ゆっくりと膝をついた。


圧に屈してそうなったわけではない。


今はとにかく、話を聞き、

そして聞いてもらうための形が必要だった。


白依の前に立つのではなく、

あえて膝を折り、その視線を真正面から受け止める。


蘭丸は白依の赤い瞳を見据えたまま、静かに口を開く。


「白依ちゃん。私は、あなたの味方とは言えない」


その言葉に反応するように、場を満たしていた圧がさらに増した。


空気が軋む。


胸が潰れそうになり、思わず声が漏れそうになる。

けれど蘭丸は、それを押し殺した。


逃げない。

目を逸らさない。


「だけどね、敵でもないわ」


蘭丸は浅く息を継ぎ、それでも言葉を続ける。


「お願い。聞かせて?何があったのか」


白依の濁った赤い瞳は、なお冷たく、昏く揺れている。


その視線の奥には、今ここにいる蘭丸ではなく、もっと遠い過去の誰かを見ているような色があった。


それでも蘭丸は、歯を食いしばりながら、その瞳を見つめ返す。


今ここで目を逸らせば、この少女は完全に“過去”へ引きずられる。


そんな気がした。


白依の目は、まだ蘭丸を見ていなかった。

それでも蘭丸は、白依が“今”へ戻ってくるのを待つように、その瞳を見つめ返していた。


どれほどの時間が経ったのだろうか。


実際には、ほんの数十秒だったのかもしれない。

けれど蘭丸には、それが十分にも、一時間にも感じられた。


やがて――


周囲を満たしていた圧が、少しずつ和らいでいく。


空気の重さが薄れ、

肌を刺すようだった気配も静かに退いていく。


そして、白依の赤い瞳も、ゆっくりと本来の色へ戻っていった。


それを確認した蘭丸は、ようやく深く息をつき、その場に腰を下ろす。


(白依ちゃん、おかえりなさい)


心の中で、そっとそう呟いた。


それから蘭丸は、呉代の様子を窺う。


「呉代ちゃん、大丈夫?」


返事はない。


見れば、身体の震えはもう止まっていた。


――いや、違う。


気を失っているだけだった。


蘭丸は小さくため息をつくと、呉代の頬をぺちぺちと軽く叩いた。


「おーい、呉代ちゃーん。起きてー」


「わぁー!」


呉代は驚いたように声を上げ、そのままはっと意識を取り戻した。


焔羅は、まだ少し震えていた。


「主……ずびっ、我、また哀殿を……」


涙と鼻水を垂らしながら、白依の足元で小さくうずくまる。


いつもの威勢のよさはもうなく、今はただ、悔しさと情けなさを抱えたまま縮こまっていた。


白依はそんな焔羅を見下ろし、ひと言だけ告げる。


「お前は悪くない」


短く、静かな声だった。


それだけで、焔羅は少しだけ顔を上げる。


白依はそれ以上なにも言わない。


「それじゃあ、聞かせてくれるかしら?」


呉代の介抱を終えた蘭丸が、白依へ向き直って静かに問う。


白依は、その場に腰を下ろして少しだけ沈黙し、それから低く答えた。


「突然、上から巨大な鴉が落ちてきた」


その声に、先ほどまでの揺らぎはもうない。


「それで、哀が連れ去られた」


蘭丸は顎へ手を当て、考え込むように目を細めた。


「それで――白依ちゃんは、私たちを何と勘違いしたの?」


白依の赤い瞳が、わずかに鋭さを帯びる。


「あの鴉の背に乗っていた男が、お前の言っていた旧鞍瀬療養所に来いと言った」


それを聞いた瞬間、蘭丸は眉間へ深く皺を寄せた。


「なるほどね……」


その呟きには、納得と苛立ちが半分ずつ混じっていた。


「多分、その鴉は式神ね」


蘭丸が低く言う。


「そして、そんな式神を堂々と使って、京都にある旧鞍瀬療養所へ誘導する。――となれば、十中八九、鷹宮家の仕業よ」


その名に、白依と焔羅が反応する。


御三家。


じじいの仇。


その言葉だけで、空気の温度が変わった。


蘭丸はそんな二人を見ながら、わずかに目を細める。


「どうするの?」


静かな問いだった。


「御三家相手となると、私たちも表立って手助けはできないけど……」


そこまで言って、蘭丸は言葉を切る。


助けられないわけではない。

だが、動けばこちらもただでは済まない。


それを分かった上で、どうするのかと問うているのだ。


白依は立ち上がり、当然のように言い放った。


「叩き潰す」


それを聞いて、蘭丸は思わず口を開けた。


「待って!話、聞いてたでしょ?御三家よ!」


蘭丸は、白依を見誤っていた。


先ほどの圧をその身で受けたことで、白依への評価は否応なく引き上げられた。

それでもなお、御三家を相手取るには厳しすぎる。

そう思わざるを得なかった。


だが、蘭丸の言葉を白依は一刀両断する。


「知ったことか」


低く、冷たい声だった。


「白依の哀を連れ去り、白依の家を壊した。それがなくても、どのみち御三家を潰すことは決まっていた」


そこで一拍置き、白依は言い切る。


「ただ、それが今になっただけだ」


白依はそのまま蘭丸へ視線を向けた。


「お前に潰すのを協力しろとは言わない。今すぐ白依を旧鞍瀬療養所まで連れていけ」


その声は、先ほど瞳が濁っていた時と同じ響きを孕んでいた。


けれど今は違う。


濁ってはいない。


真っ直ぐに、はっきりと、蘭丸だけを見据えていた。


蘭丸は呆気に取られながらも、理解してしまった。


――止めても無駄だ。

そして、止めることもできない。


白依はもう、誰に何を言われようと引かない。

そのことを、蘭丸は嫌というほど悟っていた。


やがて蘭丸は、わずかに乱れていた呼吸を整え、いつもの微笑みを取り戻す。


「呉代ちゃん。この子たちを送ってあげて」


「……了解」


呉代は、未だ先ほどの圧を引きずっているのか、声にわずかな硬さを残したまま頷いた。

それでも拒まないあたり、状況の重さは十分に理解していた。


白依は次に、焔羅へ視線を向ける。


その意図を即座に読み取ったのだろう。

焔羅は胸を張り、声を張り上げた。


「もちろん、我も行きますよ!哀殿を絶対助けます!」


その言葉に迷いはなかった。


つい先ほどまで震えていたのが嘘のように、今の焔羅の瞳には強い意志が宿っている。


白依はそんな焔羅を一瞥し、短く言った。


「行くぞ」


それだけで十分だった。


杣木邸に残る崩落の跡も、まだ宙に漂う砂埃も、今はもう誰の意識にも入らない。


奪われたのなら、取り返す。


その一点だけを胸に、白依たちは旧鞍瀬療養所へ向かうため、動き出した。

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