第37話 贈り物
夜が明け、白依たちは宿を後にしていた。
「まさか到着したその日に解決してしまうなんて……さすが白依様です」
ハンドルを握りながら、哀が嬉しそうに白依へ声をかける。
だが、白依はそれに答えない。
自然と車内には沈黙が落ちた。
けれど、それは居心地の悪い静けさではなかった。
無理に言葉を探す必要もなく、何かを埋めようとする必要もない。
ただ穏やかに流れる沈黙だった。
だから、誰もそれを気にしない。
「主は、あの黒髪の女も吸収したんですよね?あの蜘蛛に続いて黒髪の女まで吸収したなら、めちゃくちゃ強くなったんじゃないですか?」
焔羅が楽しげな声で尋ねる。
確かに、白依は封印から目覚めた時よりも、身体の中を巡る気の量そのものは増えていた。
だが、それ以上に白依の中で大きかったのは、身体の使い方と、力の扱い方の変化だった。
ただ気が多いだけでは足りない。
どう巡らせるか。
どう乗せるか。
どう使えば最も効率よく相手を崩せるのか。
それを、白依は実戦の中で少しずつ身につけ始めていた。
「……哀」
不意に名を呼ばれ、哀はびくりと肩を揺らした。
「な、なんでしょう?」
「今の白依なら、御三家を潰せるか?」
あまりにも平然と告げられたその言葉は、ただの音として聞き流せるような軽さではなかった。
何気ない声音。
けれど、その一言には妙に重いものがあった。
哀は思わず息を呑む。
御三家。
それは、この世界に身を置く者なら誰もが知る名だ。
長い年月をかけて力と地位を積み上げてきた、怪異とはまた別種の“巨大な力”。
それを、潰せるか――と。
白依は、窓の外を見たまま、ただ静かに、哀の返答を待っている。
哀は乾いた唇をそっと舐め、慎重に言葉を探す。
哀には、白依が敗れる姿が想像できなかった。
だが――それは、御三家も同じだった。
哀のような分家の、それも末端に近い立場では、本家中枢の詳細な情報などそう簡単に入ってこない。
それでも、嫌でも耳に入ってくるものはある。
噂、畏れ、そして、実力を示す名。
鷹宮家の天狩・鷹宮迅。
言祝家の縛鳴・言祝悠吃。
黒杖家の滅儀・黒杖棗。
各御三家の序列一位たち。
その名は、ただ強いというだけでは語られない。
一人ひとりが、御三家の“力”そのものとして囁かれていた。
さらに、御三家の力は個人だけではない。
家そのものが抱える術者。
蓄えられた呪具や術。
長い年月をかけて張り巡らされた繋がり。
組織としての力もまた、計り知れなかった。
哀は答えられない。
白依が負ける姿は思い浮かばない。
けれど、御三家を“潰す”となれば話は別だ。
個の強さだけでは済まない。
相手は、積み重ねそのものを武器にしている。
答えを探すまま、車内にわずかな沈黙が落ちた。
その時間を、白依は短い一言で断ち切る。
「わかった」
「えっと……」
白依は窓の外を見たまま言った。
「お前が即答しない時点で、今は難しいのだろ」
その通りすぎて、哀は何も言えなかった。
哀は、もし自分にもっと力があれば、何か言えたのだろうかと考え――情けなくなった。
昨夜、白依に認められたと感じて胸を満たしていたあの感情さえ、少しだけ揺らぐ。
結局、自分はまだその程度なのだと、思い知らされた気がした。
すると、焔羅が空気を読んだのか、読まなかったのか、白依に問いかける。
「主、我の質問は無視ですか?」
焔羅が頬を膨らませ、白依の膝の上からその顔を見上げる。
白依は一瞬、何のことか分からず小さく首を傾げた。
それを見た焔羅は、さらに頬を膨らませた。
「もういいです!」
ぷい、とそっぽを向く。
だが、白依には焔羅がなぜ怒っているのか分からなかった。
哀は、拗ねている焔羅へ話を振るように、口を開いた。
「そういえば……昨日は焔羅、急に瞬間移動してたよね」
その言葉に、焔羅の耳がぴくりと動く。
「そうだった!主はどうやってあいつ倒したんですか!?ていうか、あいつ何だったんですか!?」
さっきまで拗ねていたのも忘れたように、焔羅は勢いよく身を乗り出した。
「人の形はしてましたし……霊の類でしょうか?」
哀もまた、あれの正体について考えていたらしい。
白依は静かに口を開いた。
「……人間」
「「え……」」
あまりにも予想外の答えに、哀と焔羅の声が重なる。
白依は窓の外へ視線を向けたまま、淡々と続けた。
「半分だけだが」
“半分”と聞き、哀はさらに混乱した。
「白依様、半分人間とは……どういうことでしょう?」
その問いに、白依は少しだけ考えてから答える。
「分からない」
あまりにも率直な返答に、哀と焔羅は何か言いかける。
だが、白依はその前に続けた。
「ほとんど妖になっていた。だが、核の半分は確かに人間だった」
その言葉に、哀の手がハンドルの上で強張る。
一度、頭をよぎったことがある。
――白依様は、人間の核すら内へ引き込み、砕くことができるのではないか。
その可能性が、今ここで確かなものになってしまった。
哀は前を向いたまま、小さく息を呑む。
それがどういう意味を持つのか。
今すぐ言葉にはできない。
けれど、白依という存在が、自分の思っていた以上に人の理から遠い場所にいるのだと――改めて思い知らされるには十分だった。
それでも。
哀の胸に浮かんだのは、恐れより先に、別の感情だった。
白依はそんな哀の内心など気にした様子もなく、窓の外へ視線を向けたまま静かに目を細めている。
その横顔は、どこまでも変わらない。
哀は、ぎゅっと唇を引き結んだ。
車はそのまま、朝の道を静かに走り続けていた。
昼過ぎには、杣木邸へ戻ってくることができた。
車が止まり、扉が開く。
すると、白依の膝の上で眠っていた焔羅がむくりと起き上がり、そのまま車から飛び降りて大きく伸びをした。
「くぅー、つかれたー」
「焔羅は寝てただけじゃない」
哀が呆れたように言う。
「うん!哀殿、腹減った」
焔羅は哀の言葉などまるで聞いていない。
屈託のない笑みを浮かべたまま、真っ先に飯を催促する。
哀はもう諦めたように、小さくため息をついた。
「はいはい……」
白依は、自身のワンピースの裾を見下ろした。
焔羅の顔が乗っていたそこには、大きな濡れ染み。
白依は、車の横でのんきに伸びをしている焔羅を、冷たい目で見下ろした。
だが、その時。
「白依様も、お食事になさいますか?」
哀の声が聞こえ、白依はふと我に返る。
「ああ」
「では、すぐにご用意しますね!」
嬉しそうにそう言って、哀は先に家の中へ入っていった。
白依は小さく息をつくと、車から降りる。
そして杣木邸――
今では、自分たちの家と呼んでもいいその場所へ、静かに足を向けた。
――その日の夜。
相も変わらず、哀が白依を風呂へ誘っていた、その時だった。
家の呼び鈴が鳴る。
「……白依様」
哀の声には、強い警戒の色が滲んでいた。
床に寝転んでいた焔羅も、すぐに身を起こす。
耳を立て、毛をわずかに逆立てながら、扉の方へ視線を向けた。
それも仕方のないことだった。
ここは、白依たち以外ほとんど人のいない辺鄙な廃村だ。
そんな場所で、こんな時間に呼び鈴が鳴ること自体がおかしい。
しかも、焔羅は気配に敏感だ。
その焔羅に気づかれないまま、扉の前まで来て呼び鈴を鳴らした。
それだけで、相手が普通ではないことは十分すぎるほど分かる。
だが、白依だけは違った。
白依は、その気配に気づいていた。
そして――その正体も分かっている。
「さっさと出ろ」
白依が短く哀へ告げる。
その一言に、哀と焔羅は互いに目配せを交わし、揃って玄関へ向かった。
廊下を進み、扉の前で足を止める。
曇りガラスに映っているのは、二つの人影だった。
哀は小さく息を呑み、焔羅も耳を立てたまま身構える。
そして意を決して、扉を開く。
「サプラーイズ!」
――ぱっと目の前に広がったのは、場違いなほど軽い声と、見覚えのある顔だった。
哀と焔羅は、揃って呆然とする。
そこに立っていたのは――蘭丸と呉代だった。
「うるさいぞ。要件はなんだ」
部屋から出てきた白依が、冷たく言い放つ。
「白依ちゃんは相変わらずクールねぇ」
蘭丸はまるで気にした様子もなく、楽しげに目を細めた。
「今日は、呉代ちゃんを助けてくれたお礼と、ちょっとした相談があるの。――とりあえず、中へ入れてくれる?」
そう言って、わざとらしくウインクを寄越してくる。
白依はそれを一瞥し、小さく息を吐いた。
断ってもどうせ帰らない。
そんな確信めいた諦めが、そのため息には滲んでいる。
「……勝手にしろ」
それだけ言い残し、白依は踵を返し、諦めたようにそのまま部屋の奥へ戻っていく。
哀と焔羅は顔を見合わせてから、玄関先の二人を中へ通した。
白依たちは横並びに座り、その向かいには机を挟んで蘭丸と呉代も腰を下ろしていた。
「とりあえず、呉代ちゃんを助けてくれたお礼を渡しておくわね」
蘭丸がそう言うと、呉代が無言のまま包みを取り出し、白依たちそれぞれの前へ差し出していく。
包みは三つ。
哀は反応に困っている様子で、焔羅は露骨にそわそわし始めた。
白依だけが、包みには手をつけず、蘭丸をじっと見ている。
「……なんだ」
「開けてみれば分かるわよ」
蘭丸は楽しげに笑う。
その声に促されるように、哀がおそるおそる自分の包みへ手を伸ばした。
焔羅も待ちきれない様子で鼻先を寄せる。
白依は少し遅れて、その包みへ視線を落とした。
まず真っ先に、焔羅が爪と牙を器用に使って包みを開けた。
中に入っていたのは、様々な食べ物だった。
「飯だ!」
焔羅は目を爛々と輝かせ、纏う炎をぱちぱちと弾けさせる。
「喜んでもらえて良かったわ。焔羅ちゃんは食いしん坊って聞いたから、食べ物で正解だったわね」
蘭丸が楽しげに笑う。
白依は、素直に喜んでいる焔羅を一瞥してから、ゆっくりと蘭丸へ視線を向けた。
(……一体、どこからそんな情報を得たのか)
そう思わずにはいられない。
その不審げな視線を感じ取ったのか、蘭丸はにこりと笑って、今度は白依へ包みを開けるよう促した。
白依も渋々、自分の包みを開けた。
中から現れたのは、黒を基調に白いレースで飾られたゴシックロリータのドレスだった。
「……なんだ、これは」
白依は包みの中身を見下ろしたまま、怪訝そうな視線を蘭丸へ向ける。
蘭丸はにこにこと満足げに笑った。
「正直、白依ちゃんには何を贈れば喜ばれるのか分からなかったから、似合いそうなお洋服にしてみたの! どう? 気に入ってくれた? 絶対似合うと思うのよ!」
白依は小さくため息をつき、そのまま包みごと突き返そうとした。
「いら――」
だが、その言葉を遮るように哀が声を上げる。
「白依様、着ましょう」
真剣な目だった。
白依は思わず動きを止める。
「こんなの、動きにくいだけだ」
そう言って断ろうとするが、哀はさらに一歩踏み込むように言った。
「一度着てみてから判断してもよろしいかと!」
その声音には妙な熱がこもっていた。
白依はじとりとした目で哀を見る。
哀も一歩も引かず、まっすぐ見返してくる。
焔羅は食べ物を咥えたまま、興味津々といった顔で二人を見比べていた。
蘭丸に至っては、もはや完全に面白がっている笑みを隠そうともしない。
白依はしばらく無言だったが、やがて深く息を吐く。
こうなっては、もう哀は引かない。
白依はそれをよく分かっていた。
たかが服だ。
一度着てやれば済む話――そう自分に言い聞かせ、白依は渋々それを飲み込むことにした。
「……一度だけだ」
その一言に、哀の顔がぱっと明るくなった。
「はい!」
返事だけはやたらと元気だった。
白依はそんな哀を見て、余計なことを言ったかもしれないと早くも少しだけ後悔した。
そして、最後に哀が包みを開き、小さく声を漏らした。
「……指輪?」
哀の包みの中に入っていたのは、黒く鈍い光を宿した指輪だった。
「呪具よ」
蘭丸が、さらりと言う。
「中には結界術が込められてるわ」
その説明を聞いた瞬間、哀はわずかに俯いた。
「すみません……でも、私には多分使えません」
声は弱々しかった。
「私は陸災位のものしか、まともに扱えないので……」
自分の力量不足を言葉にするたび、哀の声音は少しずつ小さくなる。
呪具は誰にでも扱えるものではない。
特に強い術が込められたものほど、扱う側にも相応の力と適性が求められる。
だからこそ、せっかく渡されたものを前にしても、素直に喜ぶことができなかった。
そんな哀の様子に、蘭丸は笑みを崩さぬまま声をかけた。
「大丈夫よ。つけてごらんなさい?」
蘭丸にそう促され、哀は戸惑いながらも指輪を手に取った。
そして言われるまま、渋々と左手の中指にはめる。
――驚くほど、ぴたりと収まった。
まるで最初から、哀の指のために作られていたかのような収まり方だった。
哀がわずかに目を見開く。
その様子を見ながら、蘭丸が白依へ向けて意味ありげにウインクを飛ばした。
刹那。
呉代が、何の前触れもなく哀へ向けて短刀を突き出した。
「きゃっ――」
哀の短い悲鳴が上がる。
焔羅が即座に毛を逆立て、呉代へ飛びかかろうとした。
だが、その動きは白依が片手を上げただけで止まる。
白依は動かない。
ただ、静かにその一瞬を見ていた。
呉代が突き出した短刀の刃は、哀の喉元まであと十センチというところで、ぴたりと止まっていた。
見えない膜に阻まれたように、それ以上、刃は一切進まない。
呉代は結果を確かめるように一瞬だけ目を細めると、すぐに短刀を引き、何事もなかったように席へ戻ってそれを鞘へ収めた。
「いきなり驚かせてごめんなさいね。だけど、大丈夫だったでしょ?」
蘭丸が、くすりと笑う。
「あの短刀も呪具だし、呉代ちゃんの実力もなかなかなのよ」
けれど、哀にはその声がほとんど届いていなかった。
突然襲われたことへの驚きは、もちろんある。
だが、それ以上に哀の心を強く打っていたのは――この指輪の性能だった。
そして何より。
自分が、それを使えたという事実。
哀は左手を見つめる。
黒く光る指輪は、何事もなかったかのように静かにそこにはまっていた。
喉元を守った見えない結界。
あれは紛れもなく、自分の身を守るために発動したものだ。
自分には扱えないと思っていた。
もっと格の低いものしか使えないと、そう思い込んでいた。
それなのに。
哀の胸の奥で、驚きと、信じられないような喜びが一気に広がっていく。
「私、これを……使えた……?」
掠れた声で、ぽつりと呟く。
その顔には、まだ混乱が残っている。
けれど瞳の奥には、確かな光が灯り始めていた。
蘭丸はそんな哀を見て、満足そうに目を細める。
「使えた、というより――」
そこでわざとらしく一拍置き、楽しげに続けた。
「今のあなたなら使えると思ったから、渡したのよ」
その言葉に、哀ははっと顔を上げた。
「ありがとうございます」
哀は蘭丸へ深く頭を下げた。
「いいのいいの!お礼なんだから、気にしないで!」
蘭丸はいつもの軽い調子で手をひらひらと振る。
けれど、そのまま続けた言葉で、空気が少しだけ変わった。
「それに――」
蘭丸の声が、一段低くなる。
「最初に言った“相談”にも関係あるから」
声とは裏腹に、にこりと笑う。
だがその笑みは、先ほどまで浮かべていた柔らかなものとは明らかに違っていた。
甘い。
けれど温度がない。
こちらに“与える側”の顔ではなく、何かを持ちかける側の顔。
哀と焔羅は自然と背筋を伸ばし、蘭丸を見た。
白依だけは相変わらず表情を変えない。
その赤い瞳が、静かに蘭丸を見据えていた。




