第36話 見ている
「総帥、首無妖精が消失しました」
「えー、あの子やられちゃったの?最近ようやく力も自信もつき始めて、ここからってところだったんだけどなあ。ざんねん、ざんねん」
窓もない、コンクリート打ちっぱなしの暗い部屋。
その中で唯一の光源となっているのは、複数並んだディスプレイの青白い光だけだった。
その前には、小さな背中がひとつ。
肩を揺らしながら、ピコピコとコントローラーを操作している。
響く声は、幼さの残る男の子のものだ。
けれど、その言葉の端々には妙に温度がない。
本当に残念がっているようには聞こえない。
かといって、興味がないわけでもない。
壊れた玩具を眺めながら、次はどれで遊ぼうか考えているような――そんな薄気味悪さがあった。
「まあでも、種は撒いたし他にも有望そうなのいるから、そっちに期待かなー」
軽い声。
その言葉は、反響することもなく、すっと闇に溶けるように消えていく。
そして再び、部屋の中にはコントローラーを操作する乾いた音だけが残った。
――――――――――――――
呉代が部屋を出たあと、白依と哀も買っておいた食事を口にした。
「そういえば、哀殿は殴られたところ、大丈夫なのか?」
すでに自分の分を食べ終えたのだろう、焔羅が哀の手元の食事をじっと見つめながら聞いてくる。
「うん。咄嗟だったけど、一応受け身は取ったから……」
そう言いながら、哀は焔羅に食事を少し分けた。
だが、その返事にはどこか自信がない。
焔羅はもらった分をはむはむと食べながらも、じっと哀の顔を見ていた。
哀はふと視線を落とし、白依の膝元あたりを見つめるようにして言葉を続ける。
「白依様、申し訳ありませんでした」
その声は小さい。
「出る前にあんな大口を叩いた挙句、結局は庇われて、下がることしかできなくて……」
そこで言葉が詰まる。
悔しさと情けなさが、喉の奥で絡まっているのが分かった。
哀はぎゅっと膝の上で手を握りしめた。
「私、全然……役に立てませんでした」
部屋の中が、少しだけ静かになる。
焔羅も口を閉じたまま、白依の反応を窺っていた。
白依はしばらく何も言わない。
ただ、手にしていた食事をひと口だけ咀嚼し、飲み込んでから、ようやく口を開く。
「役に立たなかったなら、お前は今ここにいない」
淡々とした声だった。
慰めるような響きはない。
けれど、突き放す響きでもない。
「白依は、お前に特段期待などしていない」
その言葉に、哀の心臓はきゅう、と締め付けられた。
やはり。
そうだろうと思っていたはずなのに、いざ言葉にされると、胸の奥がひどく冷える。
けれど――
「それでも、お前が白依の為に努力し、行動しているのは見ている」
次の言葉で、哀ははっと顔を上げた。
真っ赤な瞳が、まっすぐに自分を見つめている。
慰めではない。
気休めでもない。
ただ、見ていたと。
ちゃんと分かっていると。
それだけを、その目は静かに告げていた。
その瞬間、哀の全身を、何とも言えない感覚が駆け巡った。
胸の奥が熱い。
息が詰まりそうで、
それなのに、嫌ではない。
目元までじわりと熱くなって、哀はたまらず再び視線を落とす。
「ありがとう……ございます……」
掠れた声で、それだけを返すのが精一杯だった。
人生で初めて、誰かに認められたような気がした。
それが、自分が神と讃えるお方から――
たったそれだけで、胸の奥がどうしようもなく熱くなる。
今まで自分がしてきたこと。
頑張ってきたこと。
足掻いてきたこと。
それら全部を、ようやく誰かが見ていてくれたのだと思えた。
哀は俯いたまま、そっと息を呑む。
嬉しくて、苦しくて、泣きそうで。
それでも、その熱を手放したくなかった。
「主、我は?我は?」
焔羅が、口元に米粒をつけたまま白依へ身を乗り出すようにして尋ねる。
白依は一瞥だけくれて、素っ気なく言った。
「お前は、もう少し食い意地を抑えろ」
「えぇー……」
露骨にしょんぼりする焔羅の姿に、哀は思わず笑いそうになってしまう。
ついさっきまで胸がいっぱいで、どうしていいか分からなかったのに。
そんな空気さえ、この二人のやり取りはあっさりと和らげてしまう。
哀は口元を押さえ、こぼれそうになる笑みをどうにか飲み込んだ。
胸の奥は、まだじんわりと熱いままだった。
(あぁ……やっぱり)
そっと、心の中で呟く。
(私、この方――白依様についてきて、良かった……)
その想いは、もう迷いなく哀の内に根を張っていた。
食事を終えたあと、哀は白依のためにお茶を淹れた。
「どうぞ」
そう言って、湯気の立つ湯呑みを白依の前にそっと置く。
それから自分もそのまま向かいへ座った。
少しの沈黙。
やがて哀が、どこか気がかりそうに口を開く。
「呉代さんはああ言っていましたが……大丈夫でしょうか。かなり手荒なことをしてしまいましたし、蘭丸さんとの関係に影響が出るかもしれません……」
声音は、少し落ち込み気味だった。
相手が蘭丸の関係者だと分かった以上、余計に気になるのだろう。
助けたとはいえ、縄で縛り、警戒し、あまつさえ白依は呉代の仕事を奪ったと言って差し支えない。
穏便とは、とても言えない。
だが白依は、湯呑みに手を添えたまま平坦な声で返す。
「あれでいい」
短いひと言だった。
「……白依様」
哀が顔を上げる。
白依はそのまま、淡々と続けた。
「あの女を、お前が助けたのは事実だ。もし、それで白依たちと敵対すると言うなら――それまでのこと」
その言葉には、迷いがなかった。
気を遣って関係を繋ぐつもりも、必要以上にへりくだるつもりも、最初からない。
助けた。
それをどう受け取るかは向こう次第。
もし敵になるなら、それはそれで切り捨てるだけ。
あまりにも白依らしい、冷たくて真っ直ぐな答えだった。
哀はその言葉を聞いた瞬間、上がりそうになる口角を堪えようとした。
けれど、堪えきれない。
口元はどうしても緩み、声まで弾んでしまう。
「そうですね!白依様に敵対するなら、それがどこの誰だろうと関係ありませんよね!」
「また哀殿がへんなテンションに……」
焔羅が、やや引き気味に呟く。
その声音にすら、哀はまったく気づいていない。
目の前の湯呑みを両手で包み込むように持ちながら、頬をほんのり赤くして、どこか幸せそうに笑っている。
白依はそんな哀を見て、小さく息を吐いた。
まるで面倒なものを見てしまったと言わんばかりの反応だったが、追及はしない。
焔羅は焔羅で、「あーあ」とでも言いたげに耳を伏せる。
けれど、部屋の空気は不思議と悪くなかった。
戦いの後だというのに、妙に気の抜けた、けれど穏やかな空気が、静かにそこに流れていた。
そうして、白依たちは床についた。
戦いの熱も、わだかまりも、今はひとまず胸の内へ沈めたまま――。
――――――――――――――
――BAR《夜桜》。
「いつもどうもね。また新しい情報があったらお願い」
「そうだな。最近は御三家――特に鷹宮家が、少しキナ臭そうだからな」
そう言い残し、男はぱたんと扉を閉めて店を出ていった。
蘭丸は煙草をくわえ、火をつける。
ゆっくりと煙を吸い込み、ひと息ついた、その時だった。
店の裏手の扉が開く音がする。
蘭丸はちらりと時計へ目をやった。
まだ、時刻は午前五時。
蘭丸は煙を細く吐きながら、ゆるりと視線を向けた。
奥から顔を出したのは、呉代だった。
「あら、呉代ちゃん。どうしたの?」
蘭丸は軽い調子で声をかける。
けれど、その目はすぐに細まった。
呉代の姿は、明らかに普段と違っていた。
服のあちこちが擦れ、ところどころ破れている。
髪も少し乱れ、頬や腕には浅い傷が残っていた。
無事に帰ってきたとはいえ、穏やかな帰還とは到底言えない有様だ。
「どうした、じゃないでしょ」
呉代がむっとした声で返す。
「なんであいつらがあそこにいたの。ていうか、話より怪異強かったし……あと――」
「ちょ、ちょ、待って待って。一つずつお願い」
蘭丸が片手を上げて制する。
呉代は露骨に不満げな顔をしたものの、ひとつ深く息を吐いて気持ちを落ち着けた。
それからカウンター席へ歩み寄り、どさりと腰を下ろす。
蘭丸は煙草を灰皿へ押しつけながら、改めて呉代を見た。
「で?」
その一言で、店の空気が少しだけ引き締まる。
呉代は眉を寄せたまま、低く言った。
「今回の調査。想定では高くて参災位だって聞いてたのに、あれは確実に弐災位レベルだった」
呉代は、眉間に皺を寄せたまま言った。
蘭丸は何も挟まず、黙って続きを促す。
「あれは空間を操ってた。首を落としても効果はなくて……それで、私はやられた」
そこで呉代は一瞬だけ言葉を切る。
あの時の衝撃を思い出したのか、無意識に脇腹へ手が伸びた。
「……で、そこにあいつらがいた」
蘭丸の口元が、わずかに動く。
「あいつら、ね」
「この前来た、白い子供ら」
呉代ははっきりと言った。
「ボス、なんで黙ってたの」
責めるような視線だった。
だが蘭丸はそれを真正面から受けながら、どこか飄々としたままだ。
煙草を指先で弄び、少しだけ肩をすくめる。
「だって、白依ちゃんたちに神隠しの案件を送ったの、ただの手違いだったんだもの」
「……は?」
呉代の目が据わる。
蘭丸は悪びれもせず続けた。
「本来あれは、白依ちゃんたちに送るつもりじゃなかったし、呉代ちゃんをあの子たちと鉢合わせさせるつもりもなかったのよ」
「笑えないんだけど」
「そうねえ。でも、結果的には良かったんじゃない?」
呉代は深く息を吐いた。
本気で殴ってやろうかと思うくらいには腹が立つ。
だが、目の前の男にその程度で堪える神経がないことも分かっていた。
「……で?」
呉代が低く言う。
「その“良い”っていうのは、白いのが怪異を祓ったこと?」
蘭丸はそこで初めて、少しだけ目を細めた。
「ええ」
短い返答だった。
「それも、呉代ちゃんが手も足も出なかった相手を、ね」
店の空気がわずかに沈む。
呉代はカウンターの天板を指先で軽く叩いた。
「ボス。あれ、本当に何なの」
蘭丸はすぐには答えなかった。
代わりに、火の消えかけた煙草を灰皿へ押しつける。
「さあ、何かしらね」
甘い声音。
けれど、その奥には笑っていない色があった。
「ただ、少なくとも――」
蘭丸はゆっくりと顔を上げる。
「あの子たちは、呉代ちゃんを助けてくれた」
呉代は、その言葉にだけは小さく頷いた。
軽く扱っていい相手ではない。
敵に回していい相手でも、おそらくない。
だが同時に、無条件で味方と決めつけられるほど単純でもない。
蘭丸は新しい煙草を一本取り出しながら、ふっと笑う。
「ま、呉代ちゃんが無事で戻ってきたんだから、今夜はそれでよしとしましょうか」
「雑」
「生きてるなら上等よ」
呉代は呆れたように目を細めたが、それ以上は何も言わなかった。
「それはそうと、今回の件のお礼は何かしないとね。それと今後は、こういう案件もあの子たちに回してみちゃおうかしら」
蘭丸が、楽しげにそう言った。
呉代は半眼になる。
「ボスは相変わらず逞しいね」
「あら、強かって言ってよ」
蘭丸は口元に笑みを浮かべたまま、肩をすくめる。
夜明け前の《夜桜》には、再び小さな静けさが戻る。
その静けさの中で、蘭丸だけが、愉しげとも警戒ともつかない目で、まだ見えぬ先を見ていた。
――――――――――――
――陰務省・総監室。
「総監、鷹宮家に目的不明の動きがあります」
澪が端末を見ながら、淡々と報告する。
すると緋珠は、露骨に嫌そうな顔をした。
「えぇ……やだやだ。見なかったことにしよ?ね?」
そう言って、上目遣いのまま両手を合わせ、澪にお願いするような仕草を見せる。
「あんた、幾つだよ」
(そうはいきません)
一瞬、室内の時が止まった。
澪は、自分の心の声がそのまま口から漏れたことに気づき、はっと口に手を当てる。
慌てて訂正しようとしたが、もう遅かった。
「あー、そーですねー」
緋珠の声が、わざとらしく低く伸びる。
「私は、お・ば・さ・ん、ですからねー。すみませんねー」
いつの間にか緋珠はソファへ移動しており、うつ伏せになったまま足をばたばたとさせていた。
どう見ても、完全に拗ねている。
澪は小さく目を閉じる。
こうなると、もうどうしようもない。
しかも長引く。
それを、澪は経験でよく知っていた。
今回は自分の落ち度だと分かってはいる。
分かってはいるのだが――それでも、ひたすら面倒くさい。
(はぁ……仕事辞めたい……)
澪は心の中で深くため息をつきながら、拗ねた総監をどう立て直すべきか、静かに思案し始めた。




