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神も人も〜人に砕かれた神の核を巡る、現代妖異譚〜  作者: 佐藤 潮


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第35話 拾った女

白依は、一人、路地を歩いていた。


夜気はまだ湿っていて、戦いの熱が引いたあとには妙に肌寒く感じられる。


今日は、白依にとって初めてが多すぎた。


戦いの中でここまで頭を使ったこと。

自分の能力を、ただ喰うためではなく、見極め、崩し、追い詰めるために応用したこと。

そして――人間とも怪異とも言える、“あれ”を喰ったこと。


あの黒髪の女が、どのように生まれたのかは分からない。


何を経て、あの歪な在り方へ至ったのか。

最初から人ではなかったのか、

それとも人だったものが、ああなったのか。


答えはもうない。


けれど、白依はふと考えてしまう。


自分もまた、人間の両親から生まれたとはいえ、普通の人間とは言えないのだということを。


村では“穢れ”と呼ばれた。

じじいに拾われてからも、結局は人と同じ側へは立てなかった。

依代であり、身体の成長は止まり、霊も妖も喰らう。


そんなものを、ただの人間とは呼べない。


(……白依も、同じようなものか)


胸の内でそう零しながら、白依は空を見上げる。


あの女のように、人を喰らって怪異になろうとしたわけではない。

哀も焔羅もいる今、自分をあれと同じだと思いたいわけでもない。


それでも、境の外にいる者としての感覚だけは、妙に近く思えてしまった。


白依は小さく息を吐く。


夜の路地は静かだ。

けれど、その静けさの中で、今夜喰ったものの残滓だけがまだ薄く内側に残っている気がした。


白依はそれを振り払うように、再び前を向く。


考えても仕方のないことだ。


白依は白依でしかない。

じじいの核を取り戻すために進む。

今は、それだけでいい。


「ところで、あいつらはどこに行った……」


――――――――――――――


負傷した女を背負ったまま、哀と焔羅は一旦宿へ戻っていた。


部屋へ入るなり、哀は女を布団の上へ慎重に寝かせる。


「哀殿、この人間をどうするんだ?」


焔羅が、不思議そうに首を傾げながら尋ねた。


哀は手早くリュックを開ける。


「とりあえず応急処置して――」


そう言いながら、中から包帯や消毒用の道具を取り出していく。


そして最後に。


哀は、するりと一本の縄を引っ張り出した。


「縛る」


「え?」


焔羅が間の抜けた声を漏らす。


哀は真顔だった。


「急に暴れられても困るし、警戒しておいて損はないよ」


そう言って、哀は寝かされた女を静かに見下ろす。


「助けたことに恩を感じてくれるタイプならいいんだけど……」


その声音には、どこか温度がなかった。


焔羅は一瞬きょとんとしたあと、感心したように耳を立てる。


「……哀殿も意外と容赦ないな」


(というか、どこか主に似てきてる?)


そんなことを思いながら焔羅が見上げると、哀は手を止めずに答えた。


「白依様の役に立つためにね」


その言葉とともに、哀は女の所持品を手早く回収していく。


短刀に護符。

その他、身につけていた細々したものまで確認し、使えそうなものと危険そうなものを分ける。


それが終わると、今度は傷の具合を見て、最低限の手当を施す。


血を拭い、包帯を巻き、呼吸と脈を確かめる。


そこまで済ませてから、最後に哀は縄を取り、女の手首へしっかりと巻きつけていった。


善意で助けたわけではない。

(白依様に害をなすなら……)


その線引きだけは、もう哀の中でもはっきりしていた。


女の腕と脚を縛り終える。


「主のところへ戻るか?」


焔羅がそう尋ねた。


哀は縄の具合を最後にもう一度確かめてから、顔を上げる。


「焔羅は道、覚えてる?」


「主の場所は何となく分かるぞ!」


焔羅は胸を張るように答えた。


だが、哀はじとっとした目を向ける。


「それじゃ、宿まで戻れないじゃない」


「あ……」


焔羅の耳が、ぺたりと伏せた。


哀は浅くため息を零し、立ち上がった。


「きっと白依様は、もうあの怪異を倒してるだろうから……私がお迎えに行く。焔羅はこの女を見張ってて」


そう言って、哀は縛られた女へ一度だけ視線を落とす。


「もし変な動きをしたら――」


「わかった」


焔羅が短く頷いた。


さっきまでの気の抜けた様子はない。


哀はそんな焔羅を見て、小さく息を吐いた。


本当なら、一人で戻るのは不安だった。

けれど、白依を待たせる方がもっと嫌だった。


それに――白依が負けるとは、思っていない。


哀は刳斬舞へ手を添え、戸へ向かう。


「いってくるね」


そう言い残して、哀は夜の外へ足を踏み出した。


部屋の中には、縛られた女と焔羅だけが残る。


焔羅は女をじっと見下ろしながら、ぼそりと呟いた。


「……腹減ったな」


誰に聞かせるでもないその声だけが、静かな宿の部屋に小さく落ちた。


哀は駆け足で、白依と別れた場所まで戻った。


息を整える間もなく周囲を見渡す。

その時だった。


背後で、足音がした。


哀が反射的に振り向くと、そこには白依が立っていた。


「あれ?白依様?」


思わず、間の抜けた声が漏れる。


「こんなところにいたのか。さっさと宿に戻るぞ」


白依はそれだけ言う。


「は、はい」


哀は慌てて頷いた。


なぜ白依が自分の後ろから現れたのか。

それは少し不思議だった。


けれど、あえて聞かないことにする。


白依が無事なら、それでいい。


哀は胸の内でそう言い聞かせると、白依と並んで宿への道を戻り始めた。


夜の住宅街を、二人の足音だけが静かに響いていた。


宿の部屋の前まで辿り着いた時、中から騒がしい声が聞こえてきた。


「これを解け! なんでお前がここに!」


「我たちは神隠しの――」


「お前らは、あの神隠しの仲間だったのか!」


「いや、だから話を聞けと――!」


女の怒鳴り声と、焔羅の苛立った声が扉越しにぶつかり合っている。


白依は無言で戸へ手をかけ、勢いよく開け放つ。


部屋の中には、四肢を縛られたあの負傷していた女と、毛を逆立てた焔羅がいた。


女は白依の姿を認めた瞬間、露骨に警戒を強める。


「主!哀殿!」


焔羅がすぐさま白依たちの方へ駆け寄った。


「あいつ、全然我の話聞かないんです!」


耳を立て、尻尾の火を揺らしながら訴えるその様子に、部屋の中の空気は妙にちぐはぐだった。


一方で、布団の上にいる女は、白依から一瞬たりとも目を離さない。


まるで、ここにいる誰よりも白依を警戒すべき相手だと、本能で理解しているようだった。


哀はそんな女と焔羅を見比べ、小さく息をつく。


どうやら、自分が出ているあいだに事情はさらにややこしくなっていたらしい。


白依は無言のまま、部屋の中へ足を踏み入れた。


その赤い瞳が静かに女を捉えると、さっきまで喚いていた女もさすがに口を噤む。


宿の一室に、張りつめた沈黙が落ちた。


白依は女から視線を外すと、そのまま座布団へ腰を下ろした。


「哀。お前が拾ったんだ。なんとかしろ」


「は、はい……」


突然丸投げされた哀は、わずかに肩を跳ねさせながらも頷く。


「哀殿! 我は飯!」


「はいはい……」


焔羅がすかさず不満を訴え、哀は半ば諦め気味に返した。


緊張感のあるはずの場面なのに、どこか妙に気の抜けたやり取りだった。


だが、その緩さの中でも、布団の上の女だけはまったく気を緩めていない。


四肢を縛られたまま、じっと白依を見つめている。

先ほどまでの強い警戒を、まだ少しも解いていなかった。


白依はそんな視線も気にした様子はない。


哀は、元々買っておいた食料を白依と焔羅へ渡すと、そのまま女のそばへ腰を下ろした。


「あなたは、何者ですか?」


声は淡々としていた。


助けた相手へ向けるものとしては、あまりに温度がない。

けれど、今の哀にはそれくらいでちょうどよかった。


女は答えない。


ただ、じっと哀を見返している。


哀は表情を変えないまま、もう一度問うた。


「あなたは、何者ですか?」


すると女は、こちらの問いには答えず、逆に問い返してきた。


「お前たちは、あそこで何をしていた」


哀の目が、わずかに細まる。


質問を返してきたことよりも、その言葉の方が引っかかった。


“あそこで”。


それに加えて、先ほどの焔羅とのやり取りへの反応。

ここまでの様子を見る限り、この女は明らかに自分たちのことを知っている。


哀は静かに刳斬舞へ手を添えた。


その動きは露骨ではない。

けれど、いつでも抜ける位置だった。


「質問しているのは、こちらです」


今度の声は、先ほどよりもわずかに硬い。


布団の上の女は、それでもなお口元を歪めることなく、哀を見返していた。


部屋の端では、焔羅が食べ物を咥えたまま、もぐもぐしながら様子を窺っている。

白依は何も言わず、座布団に座ったまま成り行きを見ていた。


小さな宿の一室に、妙に重たい沈黙が落ちる。


哀は女から目を逸らさない。


この女が何者で、何を知っていて、どこまで危険なのか。


それを聞き出すまでは、少なくともこちらが先に気を緩めるつもりはなかった。


すると、そこで白依が口を開いた。


「お前――あの蘭丸のところにいたやつだろ」


「……!」


女の表情が、はっきりと強張る。


「え!?」


哀が思わず素っ頓狂な声を上げた。


「主、知ってたんですか?」


焔羅は食べる手を止めずに聞いてくる。


白依は視線だけを女へ向けたまま、淡々と続ける。


「あの時は奥に引っ込んでいたが、気配は覚えている」


その一言で、部屋の空気が変わった。


哀は改めて目の前の女を見る。

焔羅も、先ほどまでの気の抜けた様子を消し、じっと女を見つめた。


縛られた女――呉代は、しばらく黙っていた。


やがて、小さく息を吐く。


「……気づいてたんだ」


その声音には、観念と、わずかな苛立ちが混じっていた。


「拾った時は、弱っていて気づかなかった」


白依は、あくまで淡々とそう言った。


よくよく考えれば、蘭丸から送られてきた資料の場所にいたのだ。

蘭丸の関係者であったとしても、別段不思議ではない。


呉代の眉が、ぴくりと動く。


「さっきも言ってたけど……“拾った”ってのは、私を助けたってこと?」


「そこの哀に聞け」


白依はそれだけ言って、興味を失ったように視線を外す。


呉代は、哀へ視線を向けた。


咄嗟に話を振られ、まだ状況の整理が追いついていないのか、哀はわたわたと視線を揺らしていた。


だが、呉代の視線を受けると、すぐに背筋を伸ばす。


「私が、あの場で負傷しているあなたをここまで運び、手当しました」


少しだけ恩着せがましい言い方だった。


けれど、蘭丸の関係者とはいえ、こちらに恩を感じてもらって損はない。

哀なりに、そう考えての言い回しでもあった。


「そうか、そのことは感謝する。私は呉代。そちらのことは大体把握してる」


軽く頭を下げながら、呉代はそう言った。


そして少し間を置き、続ける。


「ところで、素性が分かったなら縄は解いてくれないか?敵対するつもりはない」


哀は白依を見る。


だが、白依は我関せずといった態度だった。


興味がないのか、好きにしろという意味なのか、そこまでは読み取りづらい。


ただ少なくとも、この場の判断を哀に任せていることだけは分かった。


哀はひとつ息を吐くと、呉代を縛っていた縄へ手をかけた。


「言っておきますが、あなたのことを完全に信用したわけではありません」


結び目を解きながら、静かに言う。


呉代はそんな哀を見下ろし――


「ああ」


短く相槌を打った。


その声音に不満も反発もない。

むしろ、それで当然だと言わんばかりの受け止め方だった。


哀は手を止めず、最後の縄まで解いていく。


呉代は解かれた手首を擦りつつ、肩や腕を小さく動かして身体の具合を確かめた。


「この処置、大したものだな」


何気ない調子の言葉だった。


だが、その一言に、哀は少しだけ俯く。


「いえ……慣れているだけです」


その返しは淡々としていたが、わずかに硬かった。


「じゃあ私は任務に戻るから。この恩はいずれ返す」


そう言い残し、呉代が部屋を後にしようとした、その時だった。


白依が、静かに口を開く。


「お前の任務が何かは知らんが――あそこにいた黒髪の女は、もういないぞ」


呉代の足が、ぴたりと止まる。


ゆっくりと振り返ったその目が、白依をまっすぐに捉えた。


「……どういう意味だ?」


その問いに、白依は特に勿体ぶることもなく答える。


「そのままの意味だ」


一瞬、部屋の空気が止まった。


呉代は、数秒ほど完全に言葉を失っていた。


やがて、僅かに眉を寄せる。


「……君がやったのか?」


「ああ」


白依は淡々と頷く。


呉代はしばらく白依を見つめていた。


冗談を言っている顔ではない。

事実をそのまま述べているだけの顔だ。


それが分かるからこそ、余計に反応に困る。


「……そうか」


ようやく、それだけを絞り出すように呟く。


任務の対象は、すでに消えている。

なら、戻る意味はない。


だが同時に、自分が命懸けで戦った怪異を、目の前の白い少女が祓ったと平然と言ってのけた事実が、呉代の中でまだ上手く整理できずにいた。


呉代は小さく息を吐いた。


「わかった。重ね重ね感謝する。どのみち、現場の確認は必要だ。私は行く」


「そうか」


白依は短く返す。


それ以上は何も言わない。

引き止める気も、見送る気もない。


呉代はその反応に小さく目を細めたが、すぐに踵を返して宿を出た。


夜気を裂くように足を速め、呉代は急いで現場へ戻る。


だが、そこにはもう、あの黒髪の女の気配はなかった。


住宅に挟まれた、ただの細い路地。

異様な湿り気も、肌を這うような不快な気配も消え失せている。


あるのは、何の変哲もない夜の路地だけだった。


呉代はその場に立ち止まり、静かに辺りを見回す。


「……本当に、あんな少女が……」


ぽつりと漏れた声は、半ば独り言だった。


あの白い少女が、自分をあれほど追い詰めた怪異を祓った。

それだけでも十分に現実味がない。


だが、それ以上に呉代の中で引っかかっていたのは、別のことだった。


「というか……彼女たちは、なんでこんなところに来てたんだ?」

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