第34話 神隠し その4
白依は、すぐに減速した。
そしてその場で足を止める。
次の瞬間には、まるで何事もなかったかのように、ゆっくりと歩き始めた。
走るでも、踏み込むでもなく。
ただ、一定の速度で前へ進む。
黒髪の女は、その先ほどまでとは明らかに違う行動に、わずかに戸惑いを見せた。
だが――白依が二歩目を踏み出したところで、女はまた視界から消える。
それでも白依は、素知らぬ顔で歩き続けた。
一歩。
視界が揺らぐ。
また一歩。
今度は逆側で、気配がずれる。
白依には分かっていた。
自分が歩を進めるたびに、黒髪の女が視界の外で移動し続けていることが。
けれど、それでいい。
白依は表情ひとつ変えず、ただ淡々と足を運ぶ。
焦る必要はない。
追う必要もない。
(……やはりか)
白依は、そこで確信した。
理由までは分からない。
しかし、どうやら黒髪の女は――白依自身を動かすことはできないらしい。
もしそれが可能なら、先ほど白依が逃走を図ろうとした時、わざわざ前へ回り込む必要などなかった。
白依を直接、別の場所へ飛ばせばそれで済んだはずだ。
それをしなかった。
いや、できなかった。
そして今。
白依が歩くたびに、術の揺らぎは起きる。
けれど、揺らいでいるのは白依ではない。
動かされているのは、常に黒髪の女の方だ。
それが、この瞬間にはっきりと確定した。
「なんなのよ!」
ついに黒髪の女が、白依の目の前へ立ちはだかり、怒気の混じった声で叫んだ。
白依もそこで立ち止まる。
そして、淡々と言った。
「なら、どこかへ行け。今なら見逃してやる」
女は鼻息荒く、ぶつぶつと文句を垂れていたが、白依のその言葉を聞いた瞬間――ぴたりと動きを止める。
髪の奥で、口元だけが歪む。
「……クソガキが」
低く、重い声だった。
先ほどまでの愉快そうな調子は、もう欠片もない。
そこにあったのは、はっきりとした苛立ちと、剥き出しの悪意だけだった。
白依は、その変化を赤い瞳で静かに見据える。
ようやく。
目の前の怪異は、遊ぶ側ではいられなくなっていた。
「絶対、泣かす……」
女はそう吐き捨てるように言い、臨戦態勢のままぴたりと動きを止めた。
一方で、白依はただ一歩、前へ出る。
――刹那。
視界が揺らぐ。
だが白依は、その揺らぎを待っていた。
次の瞬間には振り向きざま、迷いなく拳を突き出す。
鈍い衝撃。
白依の拳は、女の腹へ深くめり込んでいた。
「がっ……」
空中へ移動した直後だったのだろう。
受け身を取る間も、踏みとどまる暇もない。
女の身体はそのまま勢いよく吹き飛ばされた。
別に、白依は黒髪の女の術を完全に見切ったわけではなかった。
それでも、今まで白依か黒髪の女かの二択だった移動先は、すでに一択まで絞れている。
加えて、術が起こる瞬間にはわずかな揺らぎと予兆がある。
そして何より――あの女の性格だ。
苛立ち、熱くなり、確実に泣かせるつもりで来るのなら、わざわざ真正面から殴り合うとは考えにくい。
先ほどまでの移動も常に白依の視界外へ移動していたことを考慮すると、狙うのは白依の死角。
背後へ回り込み、強襲する。
そこまで予想するのは、難しくなかった。
さらに言うなら、白依は最初から黒髪の女を逃がすつもりなど毛頭なかった。
白依は、哀が殴られたことを忘れていない。
あの瞬間の悲鳴も、塀へ叩きつけられた姿も、背に女を負ったまま、それでも歯を食いしばって立ち上がったことも。
全部、ちゃんと覚えている。
だから――一発殴ることだけは、最初から決めていた。
でなければ、先ほどの接近の時点で、呼水を使ってそのまま吸収することもできたのだから。
白依は赤い瞳を細め、吹き飛ばした黒髪の女を静かに見据えた。
この一撃は、ただの反撃ではない。
哀に手を出したことへの、白依なりの答えだった。
黒髪の女は、ゆっくりと立ち上がった。
「この……ガキ……喰えば……もっと……だから……」
女はぼそぼそと呟きながら、背を丸めたまま白依へ向かって歩き出す。
その足取りは最初こそ鈍かったが、一歩ごとに速度が増していく。
赤黒いワンピースの裾から覗く細い脚からは、とても想像できない脚力だった。
あっという間に、白依の間合いへ迫る。
――あと一歩。
その瞬間に合わせ、白依も踏み込んだ。
呼水で、決める。
狙いも、間合いも、 折も。
すべてが噛み合っていた。
白依が掌底のように掌を向け、女の腹部へ打ち込もうとした――その瞬間。
視界が揺らぎ、白依の一撃は、空を切った。
「ざーんねーん」
間延びした声が響く。
白依は、ほんの僅かに目を見開いた。
女の首から下が、消えていた。
頭部だけが、白依の目の前をゆっくりと落下しているのだ。
一瞬、何が起きたのか理解が追いつかない。
だが、白依がその状況を認識しきるより早く――
再び、視界が揺れた。
しかし――この揺れは、これまでの術の揺らぎとは違っていた。
側頭部に強烈な衝撃が叩き込まれる。
「っ――」
白依の身体は、そのまま横へ吹き飛ばされた。
その刹那。
塀まで飛ばされる一瞬のあいだに、白依は確かに見た。
首のない女の身体が――白依の立っていた位置、その背後で、腕を振り切っているところを。
勢いのまま塀へ叩きつけられる。
鈍い音。
視界が一瞬だけ白く弾け、遅れて僅かに痛みが走る。
現代で目覚めてから、初めて感じる痛みだった。
白依は、決して黒髪の女を侮っていたわけではない。
厄介な術を使うことも、力任せではどうにもならない相手であることも、理解はしていた。
だが――
どこかで、慢心があったのだろう。
自分なら捉えられる。
自分なら喰える。
そう思っていたからこそ、この一撃は白依の中に想像以上の重さを残した。
それでも白依は、この瞬間も、女から目を離していない。
黒髪の女の身体は、白依を殴り飛ばした勢いのまま、器用に落ちてきた自身の頭を掴み取っていた。
まるで、それが当たり前であるかのような動きだった。
首のない胴体。
それに拾われる頭部。
その光景は、怪異としてすら歪だった。
白依は塀に身体を預け、浅く息を吐く。
痛い。
視界もまだ完全に回復してはいないが、頭は冴えた。
目の前のそれは、ただ道を狂わせる怪異ではない。
頭と胴が分かれてなお成り立つ、もっと異質な“何か”だ。
そして今度こそ、白依はその異常さを正しく脅威として見据えていた。
「かったいわねー。でも、少しは驚いてくれたようね。くふふ」
女は嬉しそうな声を漏らしながら、自身の頭を首の上へ乗せる。
その仕草さえ、どこか遊んでいるみたいだった。
白依はそんな女に何も返さない。
ただ、静かに思考を巡らせる。
術による移動は、黒髪の女の一択だと見ていた。
だが、今の一撃でその前提は崩れた。
再び二択へ戻った。
いや――
頭と身体が別々に動けるのなら、頭部と胴体だけではない。
腕だけ、脚だけといった単位での移動すら可能かもしれない。
白依は塀に背を預けたまま、赤い瞳で女を見据える。
分かったことが、増えた。
同時に、厄介さもさらに増した。
目の前の怪異は、“ひとつ”として見てはいけないのかもしれない。
そう理解した瞬間、白依の中で女の危険度は一段階引き上がっていた。
「あらー?見逃すとか言ってたけど、随分大人しくなったわねー?」
黒髪の隙間から、女の口角がゆるりと上がる。
白依はその声を無視した。
代わりに、女の口元だけをじっと凝視する。
(……血)
女の口の端に、血が垂れていた。
出会い頭にはなかった血だ。
だが、白依がこれまで与えた攻撃は腹部への一撃だけ。
吐血なら、あり得る。
そこで白依は、新たな可能性に気づく。
白依は、己の内に満ちている気を静かに放った。
それは一気に爆ぜるようなものではない。
じわり、じわりと滲み出し、白依と黒髪の女を包み込むように広がっていく。
夜の空気が、わずかに重くなる。
見えない圧が路地を満たし、塀も、地面も、その場のすべてが白依の感覚の内側へ取り込まれていくようだった。
「くふふ、凄いわね」
黒髪の女が喉を鳴らして笑う。
「霊力に、妖力まで混じってる。やっぱ上物だわ」
その声には、隠しきれない喜色が滲んでいた。
どうやら完全に勝負あったと思っているらしい。
白依が力を見せたことすら、自分が喰う獲物の価値が高い証としか受け取っていない。
白依は、自らの気が十分すぎるほど周囲へ満ちたことを感じ取ると、赤い瞳で黒髪の女をまっすぐ見据えた。
そして、右手の人差し指をすっと前へ突き出す。
狙いを定めるように。
あるいは、そこに見えない境を引くように。
次の瞬間、その指先を女の首を断ち切るように横へ滑らせた。
「――線引」
一瞬の沈黙が落ちた。
「なに? おまじない?」
女が鼻で笑うように問う。
それに対して、白依はたった一言で返した。
「似たようなものだ」
言うと同時に、白依が一歩踏み出す。
視界が揺らぐ。
「え……?」
次の瞬間、白依の視界から消えた女の、間の抜けた声がすぐ背後から漏れた。
白依は半身だけを振り返る。
白依のすぐ背後は塀で、白依と塀に挟まれた女。
そのまま、右の掌をそっと女の腹部へ添えるように触れた。
「ざーんねーん。だったか?」
平坦な声でそう告げる。
そして、そのまま――呼水。
女の身体がびくりと震え、白依の掌から内側へと引き込まれていく。
白依の予想は、当たっていた。
女の頭部と身体は、別々に動いていたわけではない。
やはり、あの口元の血は吐血によるものだった。
もし頭部と身体が本当に別個に動いているのなら、身体に受けた損傷が頭部へ反映されることはないはずだ。
だが実際には、腹部へ叩き込んだ一撃の影響が、口元の血となって現れていた。
つまり――頭部と身体は、見えない形で繋がっている。
そのあいだの空間が歪んでいるのか、ずらされているのか。
理屈まではまだ分からない。
だが少なくとも、首から先と胴が完全に切り離されているわけではなかった。
そしてきっと、その歪みこそが――あの位置移動の能力にも繋がっている。
そして白依は、普段なら呼水・線引・呑口を一連の流れとして使っている、その工程のひとつを切り離して使っていた。
線引。
本来なら、引き込んだものの内と外を分け、形を定めるための工程。
だが今回は、それを女の中にある“曖昧さ”へ向けて使った。
首と胴。
本来なら断たれているはずなのに、断たれていない。
離れているはずなのに、どこかで繋がっている。
その歪んだ空間へ、無理やり境界を引いたのだ。
曖昧なものを曖昧なままにしておけば、あの怪異は成立する。
ならば逆に、そこへ明確な“区切り”を与えてしまえばいい。
そのためには、周囲そのものを白依の内側に近い状態へ塗り替える必要があった。
だからこそ白依は、自らの気を周囲へ放ったのだ。
あの場一帯を、白依にとって“内側と同じように扱える領域”へ変えるために。
あの時、女が身体だけを移動させようとしたのか、それとも頭部だけを移動させようとしたのか――そこまでは定かではない。
だが、あの反応を見る限り、おそらく頭部と身体を別々に移動しようとしたのだろう。
そして、曖昧なまま繋がっていた首と胴の空間を、無理やり区切られたことで、女の術は成立の形を失ったのだ。
黒髪の女は、白依の掌からずるりと吸い込まれ、白依の内で激しく暴れていた。
だが、白依はただ呼水で引き込んでいただけではない。
吸い込みながら、同時に線引を続けていた。
そうしなければ、あの移動の術を使って外へ逃げられる可能性があったからだ。
曖昧な空間を許せば、またすり抜ける。
ならば、取り込んだ内側でなお境界を定め続け、逃げ場そのものを潰すしかない。
白依は赤い瞳を細めたまま、女が内側で暴れ狂う感触を静かに受け止めていた。
すべてを内へ引き込み、線引を終えたところで、白依は僅かに眉を顰めた。
線引によって、女の全容がようやく見えたのだ。
そして、その中身は白依の予想と少し違っていた。
――この黒髪の女は、半分、人間だった。
『くそ!くそ!ここはどこよ!?外に出しなさい!』
白依の内側で、黒髪の女が喚き散らす。
霊や妖の類なら、線引を終えた時点で抵抗の意思は大きく弱まる。
残るのは本能めいた命乞いか、根にこびりついた衝動や願望くらいのものだ。
だが、こいつは違った。
『私はただ……人間になれないなら、せめて……!』
言葉になりきらない叫びが、白依の内側でなお暴れる。
白依はわずかに目を細めた。
白依の体質と術なら、たしかに人間も呼水で引き込むことはできるが、実際にやったことはない。
だから断言はできない。
だが――線引を終えてなおここまで抵抗し、我を強く残しているのは、やはり半分が人間だからなのだろうか、と白依は思った。
怪異でもなく、人でもなく、そのどちらにもなりきれないまま歪んだもの。
それが今、白依の内で喚いていた。
もし相手が人間なら、呼水で引き込んだとしても、白依に取り込まれるのは核だけのはずだ。
肉体は、その場に残る。
だが――この黒髪の女は違った。
肉体ごと、白依の内へ取り込まれている。
つまり、半分が人間であったとしても、その在り方は人間よりも、霊や妖――怪異の側へ大きく傾いているということだろう。
白依は静かにそう結論づけ、目を閉じ、最後の工程へ入る。
――呑口。
黒髪の女は、最後の最後まで喚いていた。
自分は悪くない。
仕方がなかった。
こうするしかなかったのだと。
自身を正当化するための言葉を、見苦しいほどに吐き散らし続ける。
だが、白依はもう聞いていない。
すでに線は引いた。
逃げ場も残していない。
あとは、噛み砕くだけだ。
がり。
鈍く、嫌な音が口内で響いた。
「……」
白依は何も言わない。
ただ静かに、それを噛み砕いた。




