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神も人も〜人に砕かれた神の核を巡る、現代妖異譚〜  作者: 佐藤 潮


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第33話 神隠し その3

白依と哀は咄嗟に焔羅のいる位置まで下がった。


その時、角の向こうから、白く細長い指が、ぬるりと壁にかかる。


焔羅は牙を剥き出しにし、低く喉を鳴らした。


哀は、背に負傷した女を背負ったまま右手を刳斬舞へ添える。


白依だけは、変わらずじっとその角を見据えていた。


足音はない。

気配だけが、じわじわと近づいてくる。


夜の住宅街に、誰も息をする音すら立てない緊張が満ちる。


そして、ゆるりと角から姿を現したのは――黒髪が顔を覆い隠すほど長く垂れた、長身の女だった。


「あれぇ。今度はゆっくり出てきてみたけど、反応は微妙ね」


女は心底つまらなそうに、残念がる声音で呟く。


「白依様、どうしますか?」


哀が小声で問う。


その声には、警戒と焦りが滲んでいた。

背には未だ意識のない女を負っている。まともに戦える状況ではないのは、哀自身が一番よく分かっていた。


白依は、哀が背負う女へ一度だけ視線をやった。


「お前は、それを背負ったまま戦えるのか?」


淡々とした問いだった。


哀は奥歯を噛み締める。


否定したくない。

自分ならやれると言いたい。

だが、今この状況でそれを口にすることはできなかった。


背中の重み。

片手を塞がれる不利。


哀は何も言えないまま、ただ唇を引き結ぶ。


その沈黙だけで、答えは十分だった。


白依は視線を前へ戻す。


赤い瞳が、黒髪の女を静かに捉える。


女はそんなやり取りを見ながら、くふ、と喉を鳴らして笑った。


「なにぃ?もしかして、その子庇いながら戦うつもりだったの?優しいねぇ」


その声音には、愉悦が滲んでいる。


白依は一切相手にせず、短く言った。


「そいつを連れて下がれ」


その一言で、空気が変わる。


「焔羅、お前もついててやれ」


今ここで前に出るのは、白依だと。

そう告げるには十分だった。


二人は渋々といった様子で、前方の女を警戒しながら後ろへ下がった。


白依は、その間にも先ほどの女の言葉を反芻していた。


あの言い草からして、哀の背にいる女は、この目の前の怪異にやられたのだろう。


白依は赤い瞳を細め、目の前の女へ向かって一歩踏み出した。


その瞬間――


白依の視界が揺れ、女の姿が、ふっと目の前から消えた。


同時に、背後から哀の悲鳴が上がる。


「きゃっ――!」


白依は即座に振り向いた。


「哀殿!大丈夫か!」


焔羅が鋭く叫ぶ。


白依は、ほんの僅かに目を見開いた。


哀は、背負っていた女ごと塀へ叩きつけられていた。


鈍い衝突音の余韻が、まだ夜気に残っている。


焔羅はすぐさま哀と黒髪の女の間へ割って入り、毛を逆立てて低く唸った。

青白い火が、怒りに呼応するように強く揺れる。


白依は、無言のままその光景を見ていた。


一瞬たりとも、女から目を離してはいなかった。


それなのに。


あの女は、白依の目の前から姿を消し――次の瞬間には背後へ回り込み、哀を襲っていたのだ。


速い、などという話ではない。


「焔羅、どうにかして哀を下がらせろ」


白依が短く命じる。


「え、この女の人は?」


焔羅が、哀の背にまだ残っている女へちらりと目をやる。


だが、そんなことは白依にとってどうでもよかった。


「知らん」


冷たく、言い放った。


その一言に、焔羅は一瞬だけ口を噤んだ。


哀が助けたがったから連れてきただけ。

それ以上でも、それ以下でもない。


今この場で優先すべきは、哀と焔羅を下げること。

そして、目の前の怪異をどうにかすることだけだった。


焔羅はすぐに白依の意図を理解し、小さく耳を伏せる。


「……はい」


短く返すと、焔羅は哀の方へ身を寄せた。


「だ、大……丈夫です……」


哀が、焔羅を制するように手を伸ばした。


「私は足手まといなので……自力で下がれます……」


掠れた声だった。

それでも、意地だけはまだ折れていない。


哀は背に女を負ったまま、ふらつきながらも立ち上がる。


「哀殿!よかった!」


焔羅が安堵したように声を上げる。


白依はその様子を一瞥しただけで、すぐに視線を前へ戻した。


そして哀と焔羅へ、短く告げる。


「なら、早くしろ」


哀が自力で動けるのなら、それでいい。

ここで少しでも距離を取らせなければ、また同じことが起きる。


焔羅もそれを察し、すぐに哀の横へついた。


「哀殿、行けるか?」


「……はい」


哀は唇を引き結び、小さく頷いた。


その間にも、黒髪の女は動かない。


いや――動かずに、見ている。


まるで、獲物がどう逃げるのかを愉しむように。


「くふふ、話し合いは終わったかしら?」


黒髪の女が、愉快そうに笑いながら言う。


「行くぞ、哀殿!」


「うん!」


焔羅に促されるようにして、二人は同時に白依の方へ駆け出した。


白依の横を抜け、そのまま後方へ下がるためだ。


黒髪の女はそれを見て、髪の奥で口元だけをにたりと歪める。


まるで、逃がす気など最初からないと言わんばかりに。


白依は女を見据えたまま、一歩も動かない。


二人とすれ違う、その一瞬。


白依は小声で、ひとつだけ指示を飛ばした。


「前だけを見て、真っ直ぐにだけ進め」


哀も焔羅も、振り返らない。


ただ、その言葉に従うように足を動かし、白依の横を抜けていく。


足音が、少しずつ遠ざかっていく。


それでも――


白依も、黒髪の女も、動かなかった。


互いに視線を外さず、ただじっと相手を見据えている。


二人の足音が完全に聞こえなくなった時、黒髪の女がため息混じりに声を漏らした。


「あーあ。せっかくの獲物だったのに……でも、まさか一番の獲物が残ってくれるなんてね。くふふ」


「ああ。まさか何もせず、逃がしてくれるとは思わなかった」


白依は淡々と返す。


黒髪の女は、髪の奥で口元だけを歪めた。


「あら、わかってて逃したわけじゃないのね」


白依は答えない。


その代わり、一歩だけ踏み込んだ。


その瞬間――白依の視界が揺れる。


(……来た)


次の瞬間には、目の前にいた黒髪の女の姿が消えていた。


だが、白依は即座に振り返る。


そこに、黒髪の女はいた。


まるで最初から背後に立っていたかのように、何食わぬ顔で。


これに、白依は驚かなかった。


まだすべてを理解したわけではない。

だが、いくつか見えてきたことがある。


何かしらの行動をきっかけにして――その行動を起こした者か、あるいは黒髪の女のどちらかが、一瞬で位置を移している。


焔羅が角を曲がった時のように。

白依が一歩踏み込んだ、今のように。


そしてもうひとつ。


この移動には、おそらく範囲の制限がある。


もし制限がないのなら、女はわざわざ白依の相手などせず、先に逃がした哀たちの方へ向かっているはずだ。


そうしないということは、できないのだ。


さらに、ここから先はまだ憶測でしかない。


だが、きっかけを待っている間、黒髪の女は動けないのではないかと白依は考えていた。


そして、きっかけを起こせる者は、その瞬間ひとりに限られる。


その者が行動を起こし終えるまで、黒髪の女は対象を切り替えられない。


そうでなければ、哀たちを逃したこれまでの動きに説明がつかなかった。


白依は静かに黒髪の女を見据える。


術の正体は、まだ曖昧だ。

だが、無敵ではない。


しかし、白依の読みが当たっているとして――今、きっかけの対象になっているのは白依自身だ。


白依が動けば、その瞬間に白依か、あるいは黒髪の女のどちらかが移動する。


つまり、下手に踏み込めばまた術に乗せられる。


白依は黒髪の女を見据えたまま、小さく眉を寄せた。


(面倒くさい……)


「あなた、本当につまらないわね」


黒髪の女が、心底辟易したように言った。


「どうせ、もうなんとなく私の能力、分かってるでしょ」


その声が、そこでふっと低くなる。


まるでノイズでも混じったように、ひどく耳障りな響きを帯びていた。


「もういいわ。今日は散々だわ」


吐き捨てるように言うと、女はくるりと背を向ける。


長い黒髪が、夜気の中でゆるりと揺れた。


白依の読みでは、黒髪の女は“待ち”の間、動けないはずだった。


だが、今の動きはその前提と噛み合わない。


ということは――待ちの間も動けるのか。

あるいは逆に、“動かない”状態そのものが能力の発動条件なのか。


どちらにせよ。


ここで見送れば、また逃げられる。


なら、今この瞬間に動くしかない。


白依は脚へ力を込めた。


次の瞬間、アスファルトを踏み抜かんばかりの勢いで、黒髪の女へ突っ込む。


白依が、黒髪の女の背へ迫る。


腕が届く距離。


拳に力を込め、その背へ叩き込もうとした――その瞬間だった。


ぴたり、と。


黒髪の女の足が止まる。


次の瞬間、女の頭が勢いよく百八十度回転した。


「ざーんねーん」


間延びした声が響くのと同時に、白依の視界が揺らぎ、拳は、空を切った。


その一瞬のあいだにも、白依の思考は止まっていなかった。


術は、まだ続いている。


なら、やはり――


あの女は“止まっている時”にのみ、この術を発動している。


白依は揺らぐ視界の中で、即座に状況を探る。


黒髪の女はどこへ移動したのか。

それとも、移動させられたのは白依の方なのか。


白依は拳を引き戻しながら、次の一瞬に備えて目を細めた。


――だが。


その結論が出るより早く、答えは白依の背中へ叩き込まれた。


「っ――」


凄まじい衝撃。


ただでさえ自分でつけた前方への勢いに、さらに背後から強烈な一撃が重なる。


白依の身体はそのまま激しく前方へ吹き飛ばされた。


肺の空気が一気に押し出され、息ができない。


それでも白依は、空中で無理やり身体を捻った。


崩れた体勢を立て直し、足から地面を捉える。


ざ、とアスファルトを削るようにして着地し、そのまま数歩分滑る。


ようやく勢いを殺しきった時、白依は浅く息を吸い込んだ。


背に残る鈍い衝撃。


白依はすぐに顔を上げる。


今の一撃で、ひとつだけはっきりした。


移動させられていたのは、白依の方ではない。


あの女自身が、白依の死角へ回り込んでいる。


分かることが増えるほど、逆に謎も増えていく。


そもそも、あの女があの状況で自由に動けたのなら――なぜ哀たちを逃がしたのか。


白依は考える。


だが、その思考の最中も、赤い瞳だけは一瞬たりとも黒髪の女から逸らさない。


一方で、黒髪の女は楽しそうに笑っていた。


「くふふ、くふふふふふ……」


髪の奥で、口元だけがゆっくりと歪む。


「さっきのは凄いわね。少し、ひやっとしたわ」


そこでわざとらしく言葉を切り、女はさらに喉を鳴らした。


「――なんてね。くふふふ」


その声音には、明らかな愉悦が滲んでいた。


本当に焦ったのか。

それとも、そう見せかけているだけなのか。


どちらにせよ、あの女がこの状況そのものを楽しんでいることだけは間違いなかった。


白依は、静かに息を整える。


目の前の怪異は、ただ厄介なだけではない。


思考を乱し、

答えへ辿り着きかけた瞬間に、また別の問いを差し込んでくる。


そうして相手の足を止めることに、慣れている。


白依は、常に新たな可能性を考えていた。


白依の勝利条件は明確だ。


相手の動きを封じ、

呼水を打ち込み、

そのまま白依の内へ取り込むこと。


それが、この怪異を喰うための形だった。


だが――それはあくまで“勝つため”の条件だ。


負けないためだけなら、別に倒す必要はない。


逃げればいい。


白依はわずかに眉を寄せる。


癪ではあった。

目の前で好き放題され、このまま引くのは気に食わない。


それでも今は、逃げるという選択肢も視野に入れる。


勝ちに固執して、負ける意味はない。


白依は黒髪の女から目を離さぬまま、静かに呼吸を整えた。


勝てる形を探す。

それが無理なら、退く形を作る。


そう切り替えるには十分なほど、この怪異は厄介だった。


しかし、逃げるにしても、そう簡単ではないことは明白だった。


(……試すか)


白依は、黒髪の女が先ほどと同じように動くのを待った。


どう動くにせよ、あの術が発動すればどうしようもない。

ならば、自分から仕掛けるのではなく、相手に先にきっかけを作らせるしかない。


白依は一切動かず、ただじっと女を見据え続ける。


数刻。


張りつめた沈黙の末、ついに黒髪の女が痺れを切らした。


「あーもう!本当につまんない!」


苛立ちを隠さず吐き捨てるように言い、女が一歩踏み出す。


その瞬間――


白依は即座に振り返り、駆け出した。


「なっ……!?」


黒髪の女が、意表を突かれたような声を漏らす。


「ちっ!」


その直後、後方から舌打ちが聞こえた。


同時に、白依の視界が揺らいだ。


次の瞬間には――目の前に、黒髪の女が立っていた。


やはり追いつかれる。


そう思った、その時だった。


白依は、そこでひとつの違和感に気づく。


――――――――


白依と別れた哀たちは、息を切らしながら走っていた。


「どこまで行けばいいのかな……」


「んー、とりあえずこの結界の外まで出ればいいんじゃないか?」


「結界って……あの護符が貼られてた外ってことよね」


「ああ!もう少しだ、頑張れ!」


焔羅が前を見たまま声を張る。


哀は返事をしなかった。


ただ走りながら、腰に携えた刳斬舞へ視線を落とす。


(白依様……)


胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。


出る前には、あれほど「役に立ちます」と自分で口にした。


それなのに現実はどうだ。


負傷した女を背負ったままではまともに戦えず、

結局は白依に庇われ、

下がることしかできなかった。


悔しい。


情けない。


全身に走る痛みよりも、その事実の方がずっと重く哀を打ちのめしていた。


それでも足は止めない。


止まれば、白依が稼いでくれた時間まで無駄にしてしまう気がした。


哀は歯を食いしばり、背の女を落とさぬよう支え直しながら、暗い道をひたすら前へと走り続けた。

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