第30話 次は
「ボス、裏で携帯鳴ってるよ。あと私、そろそろ出るから」
奥の扉から、蘭丸の携帯を片手に持った呉代が顔を出し、カウンターで煙草をくゆらせていた蘭丸へ声をかける。
「ありがとね。大丈夫だと思うけど、気をつけて」
「うん」
呉代は短く返すと、そのまま店を出て行った。
ひとり残された蘭丸は、受け取った携帯へ視線を落とす。
画面を確認した瞬間、ふっと口元に笑みが浮かんだ。
「そろそろとは思ってたけど、せっかちね」
煙草の先から細く煙が立ちのぼる。
籠杜の件があった以上、もう連絡は来ないかもしれない――蘭丸は、そう考えていた。
それでもなお、向こうはこちらを利用し続ける気なのか。
それとも、蘭丸と籠杜は別だと割り切っているのか。
そこまでは、まだ分からない。
けれど今は、それで構わない。
どうせ最初から、信用で繋がった縁じゃない。
互いに使えるうちは使い合う。
その程度の関係が、一番長持ちすることもあるのだから。
――――――――――
「白依様。蘭丸さんから、次の案件をいくつか送ってもらいました。どちらにしますか?」
哀が湯気の立つ茶と一緒に、携帯を差し出した。
白依は黙ってそれを受け取る。
最初こそ戸惑っていたが、最近ではもう扱いにもだいぶ慣れていた。
細い指が迷いなく画面の上を滑り、送られてきた案件へ順に目を通していく。
相変わらず縁側で丸まっている焔羅が、のそりと顔を上げて話しかける。
「主、もう次に行くんです?もう少しここでゆっくりしても……哀殿も一応、病み上がりですし……」
それに対して、白依は画面から目を離さずに返した。
「時間が無いわけじゃない。だが、ここで時間を無駄にする理由もない」
淡々とした声音だった。
蘭丸から送られてきた案件の一覧を指先で流しながら、白依は心のどこかで思っている。
ここで暮らすのも、悪くない。
静かな村。
ようやく呪いを失った家。
縁側に座れば風が通り、哀と焔羅の声がすぐ近くにある。
こんな時間が、これからも少し続けばいいと――ほんの僅かに、そう思ってしまう自分がいる。
だが、それを白依は許さない。
目的を忘れたわけではない。
そして胸の底に沈み続けている、あの怨嗟も。
何ひとつ消えてはいないのだから。
言い出した焔羅自身が、苦い顔をして黙り込む。
白依は、別に焔羅を責めたつもりはなかった。
だが、焔羅の方は白依の言葉に思うところがあったのだろう。
その沈黙に、白依は何も言わない。
携帯を操作していた白依の指が、ぴたりと止まった。
最後までスクロールし終え、白依は資料の末尾へ視線を落とした。
そこに並んでいたのは、これまでと同じような物件紹介だった。
場所、概要、曰くの内容、危険度。
だが、その一番下にだけ、少し毛色の違う見出しがあった。
【滋賀県 天塚市 神隠し案件】
その一文を見た瞬間、白依の視線が止まった。
特に引っかかったのは――“神隠し”という文言だった。
“神”という文字に、白依が敏感になっているのは確かだろう。
じじいの核を追っている以上、そうした言葉に無意識に意識が向くのは自然なことだ。
だが、それだけではなかった。
その文字列を見た時、白依の胸の奥に、言葉にできない感覚が微かに走った。
引っかかる。
しばらくその画面を見つめていると、不意に横から哀が身を寄せてきた。
「……こちらが気になるのですか?」
白依の手元を覗き込みながら、控えめにそう尋ねる。
「……あぁ」
白依は短く答えると、携帯を哀へ渡した。
哀は受け取った画面へ視線を落とし、詳細を確認していく。
だが、すぐに小さく首を傾げた。
「でも、これだけ物件とは違いますよね? 手違いでしょうか」
普通なら、そう思うだろう。
けれど――あの男。
蘭丸が、こんな分かりやすいミスをするとは思えない。
白依は黙ったまま、考える。
(……なにか、意図的なものを感じる)
ただ紛れ込んだ案件ではない。
あえてここへ入れたのだとしたら、理由があるはずだった。
「うん?もう次に行く場所が決まったのです?」
焔羅が、とてとてと縁側から哀の元まで歩いてきて、横から画面を覗き込む。
「うん。拠点はとりあえずこの家があるから、これになるかな」
哀がそう答えると、焔羅は表示された文字を追って、ふうんと鼻を鳴らした。
「ふーん、神隠しかぁー」
“神隠し”。
その言葉が、胸の奥でまだ小さく引っかかっている。
理由は分からない。
けれど、見過ごしてはいけない気がした。
白依はゆっくりと立ち上がる。
「そこに行く」
短い一言で、行き先は決まった。
縁側を抜ける風が、三人のあいだを静かに通り過ぎていく。
束の間の平穏は、もう終わる。
次に向かうのは――滋賀県天塚市。
神隠し案件。
白依は、まだ見ぬその場所へ思いを向けながら、静かに目を細めた。
――――――――――
白依たちが次の目的地を決めた、ちょうどその頃。
蘭丸は、白依たちへ送った資料をひとり見返していた。
「あの子たちは、どれに行ってくれるかしら」
誰に聞かせるでもなく零した声は、思わず少し低くなる。
指先で画面を流し、送信した内容を追っていた蘭丸は――ふと、ぴたりと動きを止めた。
「あ……やっちゃった」
小さく呟く。
「呉代ちゃんの案件も、間違えて送っちゃってるわ」
蘭丸は携帯を見つめたまま、しばし考え込む。
訂正を入れるべきか。
今のうちに連絡するべきか。
だが、やがて小さく肩をすくめた。
「ま、あの子たちは拠点が欲しいって言ってたし。わざわざこの案件には行かないでしょ」
そう言って、自分を納得させるように携帯を伏せる。
久世蘭丸とは、こういう人間だった。
――――――――――
そんなことになっているとは露知らず、白依たちは準備を終え、すでに車で出発していた。
それと時を同じくして――
黒い大型バイクに跨る呉代は琵琶湖沿いの道を、滑るように走っていた。
夕日を受けた湖面がきらきらと反射し、その光を浴びた車体もまた鈍く艶めいている。
どこか出来すぎなくらい、絵になる光景だった。
バイクは速度を落とさぬまま走り続け、やがて現れた【天塚市】の標識を曲がる。
その先に広がっていたのは、商店と住宅が入り乱れる街並みだった。
古くからある個人商店。
建て替えられたばかりの家。
生活感の残る細い道。
人の営みが折り重なるように続く、どこにでもありそうな地方都市の一角。
だが、その何気ない景色の奥に、何かひとつ異質なものが潜んでいるような気配があった。
呉代は、夕暮れに染まるその街へと、まっすぐ進んでいく。
バイクは住宅街と商店の並びを抜け、やがて趣のある宿の前で静かに止まった。
エンジンを切ると、夕暮れの音がゆっくりと戻ってくる。
呉代はフルフェイスのヘルメットを脱ぎ、若干汗ばんだ栗色の髪を軽く振った。
そのまま慣れた足取りで宿の中へ入っていく。
手早くチェックインを済ませ、通された部屋へ入ると、すぐに背負っていた鞄を下ろした。
そして休む間もなく、その中から護符や呪具を取り出し、ひとつずつ準備を始める。
観光でも、気まぐれな立ち寄りでもない。
この街へ来た目的が、最初から別にあることだけは、その手際の良さではっきりと分かった。
「よし、準備終わり」
そう呟くと、呉代は窓の外と時計を見比べた。
日はまだ完全には落ちきっていない。
外へ出るには少し早い。
「まだ時間あるし、お風呂とご飯、済ませちゃお」
声音そのものは平坦だった。
けれど、その口調にはほんの少しだけ、喜色が混じっていた。
任務の前に、きっちり風呂と食事を済ませる。
そういう小さな楽しみを、ちゃんと楽しみにしているのだと分かるくらいには。
張り詰めた準備の空気が、そこで少しだけ和らぐ。
呉代は荷物をざっと見渡して忘れ物がないことを確認すると、軽く息を吐き、今度は休息のために部屋を出ていった。
――――――――――
「くみちゃん!また明日!」
「うん!また明日!」
夕日に照らされた道に、子どもたちの明るい声が響く。
ランドセルを揺らして駆けていく小学生。
買い物帰りの主婦。
店先で立ち話をする老人たち。
人の行き交うその通りは、どこにでもある平穏な日常そのものだった。
けれど――
そんな何の変哲もない景色の中にこそ、異物は紛れ込んでいる。
誰も気づかないまま。
誰にも知られないまま。
当たり前の顔をして、すぐそこに潜んでいた。
――町内放送で、十八時を告げる音楽が流れ始めた。
「あ、早く帰らないと、お母さんにまた怒られちゃう!」
天塚小学校に通う四年生――中村くみは、そう言っていつもの帰り道を駆け足で進んでいく。
ランドセルの肩紐が跳ね、足音が軽く弾む。
見慣れた通学路だった。
何度も通っている道。
曲がる角も、並ぶ家も、小さな公園も、全部知っている。
だから、くみは疑わなかった。
今日もこのまま家に帰るだけだと。
いつも通り、少し怒られて、それからご飯を食べるだけだと。
そう思っていた。
息が切れる。
でも、この角を曲がれば、家はもうすぐそこだ。
くみは最後の力を振り絞るように、速度を上げた。
ランドセルを揺らし、夕暮れの道を駆け抜ける。
――だが。
角を曲がった先に広がっていたのは、知っているはずなのに、ありえない光景だった。
「えっ……」
くみは思わず足を止めた。
曲がった先にあったのは――ついさっき、自分が通ってきたはずの道だった。
夕日に染まる電柱。
見覚えのある塀。
小さな花壇。
間違えるはずがない。
さっき角を曲がる前に見ていた景色、そのままだった。
くみは慌てて後ろを振り向く。
けれど、そこにあるのも変わらない帰り道の光景だ。
「……な、なんで?」
小さく呟く声が震える。
くみは首をぶんぶんと振ると、もう一度走り出した。
勘違いだ。
急いでいるから、変に見えただけだ。
そう思い込むようにして、再び角を曲がる。
しかし、またしても前の道に戻っていた。
「やだ……早く帰りたい……お母さん……お父さん……」
目の奥が熱くなる。
くみは半泣きのまま、無我夢中で駆け出した。
曲がって、走って、また曲がる。
けれど、何度角を曲がっても――戻ってくるのは同じ道だった。
どれだけ走っても、どれだけ急いでも、家へは近づけない。
「なんでっ……なんでぇ……!」
息は上がり、足も痛い。
ランドセルが背中でがたがたと揺れ、涙で前が滲む。
それでも止まれなかった。
止まったら、もう本当に帰れなくなる気がして。
くみはしゃくり上げながら、またひとつ角を曲がる。
――それでも、景色は変わらない。
まるで道そのものが、くみをどこにも行かせまいとしているようだった。
ふと、くみは思いついた。
来た道を引き返して、別の道から帰ればいいのではないか、と。
くみは慌てて振り返る。
すると、少し奥のほうから、誰かがこちらへ歩いてくるのが見えた。
夕暮れの中に浮かぶ人影。
「くふ、くふふふふふふ……」
その者は、小さく声を漏らしていた。
まるで喉の奥で笑いを噛み殺すような、湿った笑い声。
くみには、まだその声は届いていない。




