第28話 もうひとつの目
夜。
黒塗りのバンが数台、杣木邸のある村へ向かって山道を走っていた。
ヘッドライトが闇を裂き、低い駆動音だけが静かな夜気を震わせる。
そのうちの一台の中で、籠杜が気楽な調子のまま隊員へ声をかけた。
「じゃ、僕は一足先に“白い童”の様子を隠れて観察しとくから、あとはよろしくね」
「了解しました」
運転中の隊員が短く応じた、その直後。
籠杜は何の躊躇いもなく、走行中の車の扉を開けた。
誰かが声を上げるより早く、籠杜の姿は外へ躍り出ていた。
黒い猫の着ぐるみが夜風をはらみ、狐の面だけが一瞬、ヘッドライトの端に白く浮かぶ。
次の瞬間には、籠杜は路肩へ着地し、そのまま闇夜の中へ溶けるように駆け去っていた。
まるで最初から、そこに人などいなかったかのように。
車内には、わずかな沈黙だけが残る。
やがて運転席の隊員が、前を見たまま小さく息を吐いた。
「……相変わらずだな」
黒塗りのバンは速度を緩めることなく、そのまま杣木邸のある村へ向かって走り続けた。
籠杜は車道を外れ、木々が生い茂る中へ躊躇なく踏み込んだ。
道と呼べるものはない。
人が通ることなど最初から想定されていない獣道未満の地形を、籠杜はまるで獣そのものの速度で駆けていく。
枝を避け、根を飛び越え、足場の悪い斜面すらほとんど減速しない。
その身のこなしは、隠密というより野生に近かった。
すべては、蘭丸から受けた依頼のためだ。
依頼内容そのものは単純だった。
杣木邸の怪異を、蘭丸が派遣した者たちが解決した際に発生した――村人たちの遺体の処理。
ただし、そこには条件が三つある。
ひとつ。
陰務省の人間だとバレないこと。
ふたつ。
派遣した者たちへ、こちらから接触しないこと。
みっつ。
何か新たな情報があれば、蘭丸へ共有すること。
蘭丸は最後まで“白い童”とは明言しなかった。
だが、提示された条件を見れば分かる。
派遣された者たちの中に、その“白い童”がいるのだと。
「にしても、あの蘭丸が相当警戒してるなあ」
籠杜は闇の中を駆けながら、ひとりごちる。
「てか、もう接触してたとか……」
独り言めいた声を漏らしつつも、その速度は一切落ちない。
そうして籠杜は、いつの間にか村の近くまで到達していた。
一方、杣木邸。
「白依様、そろそろお湯がたまります。たくさん汚れましたし、入りましょう」
哀が、着替えとタオルを抱えて立っていた。
しかも一人分ではない。
きっちり二人分だ。
当然のように一緒に入るつもりでいるらしい。
白依は、その様子を無言で見つめた。
怪異を喰い、村を片づけ、拠点を得た直後だというのに、哀の頭の中ではもう風呂の段取りが最優先になっているらしい。
その切り替えの早さには、ある意味感心すら覚える。
だが――
「……一緒に入る気か?」
白依が低く問うと、哀はきょとんと目を瞬かせた。
「あ、えっと……」
哀は白依の様子をちらちらと窺いながら、さっきまでの勢いを少しだけなくした声で言葉を継いだ。
「その……白依様お一人で入るのは、まだ色々と不便かもしれませんし。髪も長いですし……もし、お嫌でなければ……」
語尾が、だんだん弱くなっていく。
先ほどまでは当然のように二人分の着替えとタオルを抱えていたくせに、いざ白依に正面から見られると、さすがに少しは気まずくなったらしい。
それでも引っ込めないあたりが、哀だった。
その時、腹を満たして丸くなっていた焔羅の耳が、ぴくりと動いた。
むくりと身を起こし、壁を――いや、そのさらに向こうを見据える。
「近づいて来る。たぶん、車の音」
その言葉に、哀が思い出したように言う。
「あ、それは……村人の遺体を処理するために、蘭丸さんが派遣すると言っていた人たちだと思います」
白依は仰向けに寝転んだまま、天井を見つめて言った。
「なら、風呂はそれが終わってからでいい」
「はい……」
哀は肩を落としながらも、素直に頷く。
せっかく湯を張ったのに、という気持ちは顔に出ていたが、今は仕方がない。
哀は気持ちを切り替えるように小さく息を吐くと、そのまま玄関へ向かった。
「焔羅。お前も哀についていけ」
白依が続けて言う。
「え、わかりました」
焔羅は一瞬きょとんとしたものの、すぐに返事をした。
言われるがまま、哀の後ろを追うようにそのまま玄関の方へついて行く。
白依だけが、その場に残った。
天井を見上げたまま、表情は変わらない。
けれど、その赤い瞳だけは、どこか静かに細められていた。
その後、杣木邸の前に数台の車が音もなく止まった。
中から降りてきたのは、黒装束に身を包んだ者たちだった。
誰ひとり無駄口を叩かない。
哀たちに視線を向けることすらなく、最初からそこにいないものとして扱わないような自然さで、黙々と村人たちの遺体を車へ積み込んでいく。
手際は異様なほどよかった。
死体の状態を確認し、
運び、
積む。
その一連の動作に一切の淀みがない。
まるで、こうした“後処理”に慣れきっているかのようだった。
それも、五分とかからなかった。
村人たちの遺体はあっという間に回収され、黒装束の者たちは来た時と同じように何も残さず車へ乗り込む。
そしてそのまま、数台の車は村を去っていった。
あまりの手際のよさと、徹底した無関心ぶりに、哀と焔羅はしばらくその場で固まっていた。
「すごいね……」
「いや、なんかもう、すごいを通り越してちょっと怖いよ……」
二人の感想は、だいたい同じだった。
二人が部屋へ戻ると、白依は先ほどと変わらず、仰向けのまま寝そべっていた。
「白依様、終わりましたよ。それで、お風呂は……」
哀がそう声をかけると、白依は一度だけ瞬きをする。
それから、ふん、と小さく鼻を鳴らして起き上がった。
「湯が冷める」
短く告げ、そのまま風呂場へ向かって歩き出す。
その後ろを、哀が嬉しそうについて行く。
さらにその後ろで、焔羅がその様子を見て、呆れたように耳を揺らした。
村を後にした車列、その先頭車の窓が、外からこんこんと叩かれた。
運転席の隊員が一瞬だけ目を見開き、すぐにロックを外す。
次の瞬間、ドアが開き――籠杜がするりと滑り込むように車内へ入ってきた。
「いやー、ご苦労さまー」
籠杜は端末を片手で器用に操作しながら軽い口調のまま、隊員たちへ労いの言葉を投げた。
「お疲れ様です。お目当てのものは見れましたか?」
隊員のひとりが、控えめに尋ねる。
「見れたけど――こっちも見られちゃったかなー」
籠杜は、あくまで軽い調子でそう答えた。
「えっ……」
思わず、隊員の口から声が漏れる。
それも無理はなかった。
籠杜伝は、十九歳という若さで隠密部隊の隊長を務めている。
それだけでも異例だ。
だが、隊員たちが籠杜に従っている理由は、年齢や肩書きではない。
実力だ。
気配を消し、入り込み、見つからず情報を入手し戻ること。
その一点において、籠杜は間違いなく本物だった。
だからこそ、その籠杜が“見られた”という言葉は、隊員たちにとって小さくない衝撃だった。
車内の空気が、わずかに張る。
だが当の本人は、そんな空気もどこ吹く風といった様子で、狐の面の奥から気の抜けた声を続けた。
「ま、でも別に追ってきてはないし。たぶん“見えた”ってだけだと思うよ」
その一言で、隊員たちはさらに黙り込んだ。
見つからずに潜む籠杜を、“見えた”だけで済ませる相手。
それがどれほど厄介か、分からない者はこの場にいなかった。
籠杜は端末を操作し終えると、大きくため息を吐いた。
「遺体の処理は、いつも通りに。その後は本部に戻って。僕は少し寝る」
軽い口調のままそう言い残すと、籠杜はそれ以上何も話さなかった。
狐の面の奥から気配がすっと薄れ、車内は急に静かになる。
隊員たちは短く返事を交わし、それぞれ黙って前を向いた。
車は、道をそのまま走り続ける。
その中でただひとり、籠杜だけが先ほど見た“白い童”の姿を、まだ瞼の裏に残していた。
――――――――
蘭丸はカウンター席に腰掛けたまま、携帯の画面をじっと見つめていた。
「まさか、籠杜くんの隠密に気づいちゃうなんて……」
独り言のように零した声は、甘いのに少しだけ低い。
その時、奥の扉から呉代がひょこりと顔を出した。
「ボス?」
少し心配そうな声だった。
蘭丸はその呼びかけに顔を上げると、いつものように笑みを浮かべて返す。
「大丈夫よ」
声音は軽い。
けれど、その目の奥には考えが残っていた。
「とりあえずは、様子見ね」
そう言って携帯を伏せた。
――――――――
陰務省本部、総監室。
緋珠のすぐ横で、澪の持つ端末が短く鳴った。
その音に、澪は画面を確認し――一瞬だけ目を見開く。
「総監」
「だから、総監じゃなくて――」
いつものやり取りを返しかけた緋珠の言葉を、澪が途中で切った。
「籠杜隊長が、例の“白い童”を直接見たそうです」
その一言で、室内の空気が変わる。
「さすが、伝くんだね。でも……」
緋珠の声音が、そこで少しだけ低くなる。
「あの伝くんが“情報を手に入れた”じゃなくて、“見た”って表現をしてるのが気になるね」
その言葉に、澪も小さく頷いた。
籠杜伝は、見て終わる男ではない。
見たなら見たで、その先まで掴んで戻ってくる。
少なくとも、これまでの彼はそうだった。
だからこそ、今回わざわざ“見た”とだけ上がってきた報告には、引っかかるものがある。
「今、本部へ向かっているそうです。戻り次第、詳しく聞きましょう」
澪は端末を見ながら、冷静に告げる。
緋珠は椅子の背にもたれ、細く目を眇めた。
「そうね」
そして、薄く笑う。
「その時は、また隊長全員、会議室に集合させて。そこで聞きましょ」
その笑みは柔らかいのに、どこか楽しげだった。
“白い童”。
その存在が、また陰務省の中枢を揺らし始めている。
そんな予感だけが、総監室に静かに広がっていた。
――――――――
白依は、身体を洗う哀の横で、静かに湯船へ浸かっていた。
湯気が立ちのぼり、古い浴場の中にやわらかな熱が満ちている。
ちゃぷ、と小さく湯が鳴る。
白依は目を伏せ、考えていた。
焔羅が車の音に反応した、その時にはすでに――屋根裏に、何者かが潜み、白依たちを見ていた。
だが、その時の白依は動かなかった。
敵意がなかったからだ。
少なくとも、あの時点では。
覗き込むような気配こそあれ、殺意も害意も感じなかった。
だから白依は、あえて手を出さなかった。
無闇に騒げば、せっかく片づいた場をまた荒らすことになる。
哀も焔羅も疲弊していた以上、余計な衝突は避けるに越したことはない。
それが正しかったのか、間違っていたのか。
今はまだ、分からない。
ただひとつ確かなのは――
あの時、杣木邸には白依たち以外の“目”もあったということだけだった。




