第26話 杣木邸から
哀は、声のした方へはっと視線を向けた。
そこにいたのは月明かりに照らされた、白依だった。
白い髪が淡く光を弾き、
赤い瞳は夜の中でひどく静かに冴えている。
白い糸に塗り潰された異界の内側から現れたその姿は、哀の目にはもはや“神秘的”としか映らなかった。
その足元では、顔から地面に落ちたらしい焔羅が、もぞもぞと起き上がろうとしている。
「いっ……たたた……」
間の抜けた声まで聞こえてきて、あまりに白依との落差がひどい。
だが、その情けない姿すら、今の哀にはひどく頼もしく見えた。
白依たちが、戻ってきた。
その事実に、哀の胸の奥で強張っていたものが、ようやく少しだけほどける。
「白依様! 焔羅!」
哀は、すぐさま二人のもとへ駆け寄った。
「ご無事でよか――」
言いかけた、その時だった。
哀の目から、ぽろりと涙が零れた。
張り詰めていたものが、一気に切れたのだろう。
二人の傍まで辿り着いたところで、哀はその場に崩れ落ちた。
脚から力が抜ける。
腰が抜けてしまったのだ。
「哀殿!大丈夫か!?」
焔羅が慌てて駆け寄り、哀の膝へ前足を乗せる。
「傷だらけじゃないか!?」
心配そうに顔を覗き込む焔羅の声は、さっきまでの軽口とはまるで違っていた。
哀の頬には汗と涙が張りつき、息もまだ荒い。
腕も、肩も、頬も、切り傷や掠り傷だらけで、服は黒で目立たないが、ところどころ血が滲んでいた。
それでも哀は、震える息のまま首を横に振る。
「わ、私は大丈夫。白依様も焔羅も無事で良かった……」
全然平気そうには見えないが、その顔には確かな安堵が滲んでいた。
白依たちは戻ってきた。
ちゃんと無事だった。
それをこの目で確認した瞬間、今まで無理やり繋ぎ止めていた緊張が、とうとう限界を迎えたのだ。
白依は哀を見下ろし、何も言わない。
ただ、その赤い瞳が、哀の全身についた傷を静かに確認していた。
そんな哀の姿を目にし、白依の胸の奥に、ちくりと小さな痛みに似た感覚が走る。
ほんの僅かなものだ。
けれど、確かにそこにあった。
相坂トンネルの時にも、似たような違和感はあった。
あの時は、気のせいだと流した。
哀の実家で見たものに触れた時には、もっとはっきりと感情が揺れた。
だが、それも認めたくはなかった。
そして今。
白依は、否応なく理解し始めていた。
哀という存在が、自分の中で少しずつ、けれど確かに大きくなっていることを。
鬱陶しいはずだった。
勝手に懐き、騒がしく、弱いくせに無茶をする。
本来なら、放っておけばいい相手だったはずだ。
なのに――傷つけば気にかかる。
無事とわかると、わずかに安堵する。
そんな自分の変化を、白依は認めたくなかった。
認めれば、それはきっと“弱さ”になる。
あの時のじじいのように。
じじいを失ったあの日から、抱えるべきではないもののはずだった。
それでも、目の前で息を荒げ、涙を零しながらなお「大丈夫」と言い張る哀を見ていると、その感情をまるごと切り捨てることもできなかった。
白依は何も言わない。
ただ静かに、赤い瞳で哀を見つめていた。
その視線の奥で、自分でもまだ名前をつけたくない何かが、確かに息をしていた。
その後、白依は、未だ青白く燃え続ける桜の木へ視線を移した。
この木から、あの白い空間へ炎が移ったのだと、白依は瞬時に理解する。
ならば――まだ断ち切れていない何かが、ここに残っている。
「焔羅。この炎を消せるか?」
「え、あ、はい!」
焔羅が慌てて返事をする。
つい先ほどまで哀の傍で騒いでいたせいか、どこか鼻にかかった声だった。
泣いていたのかもしれない、と白依は思ったが、あえて何も言わない。
焔羅は桜の木へ向き直ると、小さく息を吸い込んだ。
次の瞬間、青白い焔がするりと揺れ、そのまま糸を引くように桜の木から剥がれていく。
枝を舐めていた火が縮み、
幹を包んでいた焔がほどけ、
やがて夜の中へ溶けるように消えていった。
周囲を照らしていた異質な光が失われ、再び残ったのは月明かりだけになる。
すると、さっきまで燃えていたはずの桜の木の異様さが、かえってはっきりと浮かび上がった。
黒く焼けたのではない。
灰になったのでもない。
葉のない枝と、生気の薄い幹はそのままに、ただ“中身だけを炙られた”ような不気味さを残してそこに立っている。
白依は、その木を静かに見据えた。
ここで終わったわけではない。
そう告げるように、桜の木の周囲にはまだ薄く、嫌な気配が残っていた。
白依は、なんの躊躇いもなく哀の横を通り過ぎ、そのまま、真っ直ぐ桜の木へ向かって歩を進める。
月明かりの下、木の周囲には村人たちの死体がいくつも転がっていた。
首を落とされたもの。
手足を断たれたもの。
そのいくつかが、まだ僅かに動き出そうとしていた。
指先が震える。
腕が持ち上がりかける。
胴がわずかに捩れる。
だが、もう先ほどまでの勢いはない。
青白い炎によって力が削がれたのか、死体たちは立ち上がることすらできず、地を這うように蠢くだけだった。
白依はそれらを一瞥しただけで、そのまま進もうとした。
だが、不意に下から聞こえた声に、足を止める。
「……とま、れ」
低く、掠れた声だった。
白依が視線を落とす。
転がっている死体のうちの一体が、僅かに口を動かしていた。
「わしには、もう力は残っていない。こうして話すのも、やっとだ」
途切れ途切れの言葉。
だが、その声音には奇妙な違和感があった。
白依にはすぐに分かった。
今その口を使って喋っているのは、この骸本人ではない。
その死体を操っている“何か”――その言葉だった。
「だからなんだ」
白依は、淡々と返した。
死体の口が、ぎこちなく動く。
「お前は、ただの人間ではないだろう。今までわしを退治しようとしてきた者たちとも違う」
掠れた声が、死んだ喉を無理やり震わせるように続く。
「どちらかといえば……お前は、こちら側に近いはずだ」
月明かりの下、転がる死体の口元だけが不自然に動く。
その光景は異様でしかないのに、そこから発せられる言葉には妙な理があった。
「ここは手打ちにしてくれ」
それは命乞いではなかった。
交渉だった。
「お前は白依たちを襲った。傷つけ殺そうとした」
白依の声に、淀みはなかった。
「それに、お前が何者で、白依が何であろうと関係ない」
転がる死体を、赤い瞳が冷たく見下ろす。
「お前は白依と焔羅を襲った。哀も傷つけた。――手打ちなど、笑わせるな」
その言葉には、怒鳴るような激しさはない。
だが、だからこそ余計に容赦がなかった。
情けをかける余地も、
交渉の余地も、
最初からそこには存在していない。
白依は更に、桜の木へ近づく。
「それに、ここは白依たちが使う」
静かに、だが断定するように言い切る。
「その傍に、お前は邪魔だ」
月明かりの下、その宣告だけが冷たく落ちた。
白依は、枝先から根元へと観察するように視線を滑らせた。
やがて白依の目が、根元に半ば埋もれるようにしてある石のようなものを捉える。
「焔羅。ここを掘り起こせ」
「えぇー、掘るんですかー?」
焔羅が露骨に嫌そうな声を出す。
だが、白依は一切取り合わない。
「掘れ」
「は、はい!」
即座に態度を改め、焔羅は白依に示された場所へ飛びついた。
前足で土を掻き、爪を立て、根の隙間を縫うようにして掘り返していく。
その最中も、転がる死体の口を使って“何者か”が騒ぎ立てていた。
やめろだの、触るなだの、喚くような声が、途切れ途切れに夜気へ漏れる。
だが、それだけだった。
反撃するでもなく、別の死体を動かすでもなく、ただ口を借りて騒ぐことしかできない。
おそらく、力が残っていないという言葉は本当なのだろう。
だが、その発言こそが、白依の確信をさらに強めた。
そこまで必死に止めようとするのなら――
それこそが、こいつにとっての核なのだ。
白依は、騒ぎ立てる死体から静かに焔羅へ視線を戻す。
掘り返された土の中から現れつつあるそれは、何なのか、分かる形になっていた。
「お地蔵様……」
白依の背後から、哀の声が落ちた。
掘り起こされたそれの正体を告げるように。
土の中から現れたのは、石地蔵だった。
ただし、まともな形ではない。
地中から出てきたのは、その上半分だけ。
下半分は失われ、胴の途中で無残に断たれている。
表面は汚れ、ところどころ欠けてもいた。
それでもなお、手を合わせた姿だけは辛うじて残っている。
まるで――
本来ここで祀られていたが、無理やり壊され、地中へ押し込められたような有様だった。
白依はその欠けた地蔵を、赤い瞳で静かに見下ろす。
桜の木。
白い糸の巣。
死体を操る力。
それらすべての根にあったのが、この石地蔵なのだとすれば――
白依たちは知らないが、あの日――最初に越してきた家族が苗木を植えるために掘り返し、そして砕いたものが、これだった。
土地に埋もれ、長いあいだ忘れられていた石地蔵。
それを壊し、上から桜を植えた。
死体の口は、なおも騒ぎ続けている。
だが、その言葉にもう力はない。
白依はそれを一切意に介さず、石地蔵へ手を伸ばし触れる。
――呑口。
白依が、静かにそれを発動する。
今度は違った。
大蜘蛛に触れた時のような、空虚な手応えではない。
確かな“芯”があった。
石地蔵に触れた掌から、白依の内へそれが流れ込んでくる。
ひび割れた地蔵から、根を張った桜の木から、そして、その糸に繋がれ、使い潰された村人たちの屍からも。
ばらばらに散っていたものが、一本の流れとなって白依へ集まってくる。
長いあいだ土地に染みつき、歪み、絡まり合っていた怨みも、呪いも、穢れも。
そのすべてを、白依は呼び込んだ。
白依は、すぐさま線引へ移ろうとした。
だが、吸収したそれは驚くほど大人しい。
暴れない。抗わない。
大蜘蛛の時のような空虚さとも違う、確かな“中身”がありながら、妙に従順だった。
そして――また、白依へ語りかけてくる。
『頼む……。これからは、お前たちに協力する。だから、わしを消さないでくれ……』
弱々しい口調だった。
先ほどまで死体の口を借りて喚いていた時とは違い、今度は本当に追い詰められた者の声音に聞こえる。
だが、白依はそれを聞いて眉を顰めた。
白依の中へ吸収された時点で、浅くとも深層で繋がる。
言葉だけではない。
表層の奥に沈んだ本音もまた、わずかに触れてくる。
そして、こいつは――まだ諦めていない。
人を喰らうことを。
今は弱っているから媚びているだけだ。
生き延び、力を蓄え直す機を窺っているだけだ。
時が来れば、また喰らう。
いずれは、白依も、哀も、焔羅も。
その思考に一片の迷いもないことを、白依は知った。
ならば、答えはひとつだった。
白依はそいつに一気に線を引く。
境を定め、逃げ場を塞ぎ、内側へ押し込める。
続けて、呑口。
形を再構築し、噛み砕く。
今度こそ何も残さぬように。
二度と、どこにも染み出さぬように。
白依は冷たく、容赦なく、逆にそれを喰らい潰した。
口の中に残った残滓を、白依は地面へ吐き捨てた。
黒く濁ったそれは、土の上に落ちるとじわりと滲み、やがて灰のように吹き消えた。
白依は腕で口元を乱暴に拭った。
村人たちは、もう完全に動かなくなっていた。
糸に操られていた気配も消え失せ、そこにあるのはただの屍だけ。
あれほど肌にまとわりついていた謎の視線も、もうない。
村を覆っていた息苦しい圧はすっと薄れ、空気そのものが入れ替わったようにさえ感じられた。
転がる村人たちの屍と、傷だらけで膝をつく哀の姿さえなければ――
ここはただの、静かでのどかな山村に見えただろう。
白依は哀と焔羅へ向き直り、短く告げた。
「終わったぞ」
その一言を聞いた瞬間、哀と焔羅はそろって深く息を吐いた。
張り詰めていたものがようやく解けたのだろう。
「「よかったぁー……」」
二人の安堵の声が、静まり返った村に重なるように落ちた。
「これで拠点獲得ですね!主!」
「早速、掃除や寝泊まりの準備をしますね!」
「哀殿はまず傷の手当が先だろう!」
先ほどまでの緊迫した空気は、もうどこにもなかった。
安堵しきった声で次々と言葉を重ねる哀と焔羅。
さっきまで傷だらけで泣いていたくせに、当然のように世話を焼き始める哀も、その横ではしゃいでいる焔羅も、いつもの調子を取り戻している。
その様子を見て、白依は胸の奥に、ぽかぽかとした感覚が広がるのを感じていた。
熱いわけではない。
ただ、じんわりと、内側を温めるような感覚だった。
じじいと過ごしていた頃に、確かに知っていたはずのもの。
けれど長い間、もう二度と触れることはないと思っていたもの。
白依はそれが何なのか、はっきりとは考えない。
考えてしまえば、また名前を与えてしまいそうだったからだ。
だから何も言わず、ただ静かに二人を見た。
哀は傷だらけの顔で笑っていて、
焔羅はそんな哀に呆れながらも嬉しそうに尻尾の火を揺らしている。
その光景が、なぜだか少しだけ眩しかった。
白依はそっと目を細める。
そして、誰にも聞こえないほど小さく息を吐いた。
この場所を、拠点にする。
そう決めたはずなのに――
気づけば白依の中では、この家そのものよりも、今目の前にいる二人の方が、ずっと強く“帰る場所”のように感じられていた。




