第25話 杣木邸 その4
「あーるーじー。もう燃やしてよくないですか?」
焔羅が、心底退屈そうな声で言った。
白依と焔羅は、奥の広間で並ぶように座り込み、しばらくぼうっとしていた。
――――――――
白依が広間へ足を踏み入れた瞬間、襲いかかってきたのは――白依の倍はあろうかという、巨大な蜘蛛だった。
広間の内側には、白い糸が幾重にも張り巡らされている。
壁から壁へ。
柱から天井へ。
床にまで絡みつくように広がるそれは、もはや巣というより、この空間そのものを支配する結界のようだった。
そしてその中央に陣取る大蜘蛛は、まさにこの巣の主と呼ぶに相応しい異様さを放っていた。
襲いかかってきた大蜘蛛の牙には、赤い液体がべっとりと付着していた。
先の不快な異音――ぶち。べちゃ。
その正体が何だったのかは、もう想像するまでもなかった。
何かを食っていたのだ。
肉を裂き、
潰し、
体液ごと啜るように。
広間に濃く漂っていた血の匂いも、そのためだったのだろう。
だが、白依にとってその大蜘蛛は、そこまで脅威ではなかった。
確かに巨体で、異様で、並の相手ならそれだけで怯むだろう。
だが所詮は、分かりやすく牙を剥いて襲ってくるだけの敵だ。
搦め手ではない。
本体が自ら前へ出てくるのなら、対処はむしろ簡単だった。
白依は、飛びかかってきた大蜘蛛を横へ滑るように躱す。
その動きとほとんど同時に、すれ違いざま大蜘蛛の脚へ触れた。
――呼水。
白依の必勝法だった。
大蜘蛛は、何の抵抗もできなかった。
白依の掌が触れた脚から、ずるりと輪郭が崩れる。
巨体は暴れる隙も、牙を剥く暇もなく、ただ白依へ触れた場所から一方的に呑まれていった。
脚が消え、胴が崩れ、白い糸に覆われた広間の中で、大蜘蛛の身体は音もなく白依の掌へ吸収されていく。
あまりにも呆気ない。
そのまま白依は、次の動作へ移ろうとした。
線引。
呼水を流し込んだ相手へ線を引き、呑口で形を奪う。
それがいつもの手順だった。
だが――その動きは、無駄になった。
白依はわずかに目を細める。
抵抗がない。
白依の内へ流れ込んできたはずのそれは、何ひとつ抗おうとしなかった。
暴れるものも、拒むものも、形を保とうとする核さえない。
線を引く必要がない。
いや、そもそも――呑口で形取るべき“何か”そのものが、なかった。
そこにあったのは、ただ中身の抜けた殻のようなものだけ。
白依は掌を見下ろしたまま、ほんのわずかに眉を寄せる。
この巣の主にしては、あまりにも薄い。
まるで最初から、こいつ自身には“本体”と呼べるものが入っていなかったかのようだった。
もしこの大蜘蛛が、この巣の主なのだとすれば。
そう考えた瞬間、白依は違和感を覚えていた。
大蜘蛛は消えた。
白依の内へ呑まれ、もはや形ひとつ残っていない。
それなのに――この空間には、何の変化もなかった。
白い糸に覆われた壁も、床も、天井も、そのまま。
巣の気配も薄れない。
張りつめた湿った空気も、視線のような圧も、何ひとつ消えてはいなかった。
「主、終わったんですか?」
焔羅が、恐る恐る声をかける。
先ほどまで蜘蛛の群れが押し寄せていた廊下の先も、今は嘘みたいに静かになっていた。
かさかさという脚音も止み、あの不快な気配も引いている。
けれど、その静けさが終息を意味しないことくらい、白依には分かっていた。
「分からない……」
白依が、低く呟いた。
「え……?」
焔羅が目を丸くする。
白依が“分からない”と言うのは珍しい。
まして、今のように相手を呑み込んだ直後ならなおさらだった。
大蜘蛛は確かにこの巣の中心にいた。
広間を支配するように陣取り、糸を張り巡らせ、血に濡れた牙で何かを喰っていた。
どう見ても、巣の主にしか見えなかった。
だが、違う。
消えたはずなのに、空間は何ひとつ変わらない。
巣は崩れず、気配も消えず、あの纏わりつくような視線だけが、なおもどこからともなく降り注いでいる。
核がない。
抵抗もない。
呑口で形取るべきものすら、あの大蜘蛛の中には存在しなかった。
中身のない殻。
それだけを呑まされたような、妙な感触だけが白依の中に残っていた。
焔羅が、ごくりと唾を飲み込む。
「じゃあ……今の、主じゃなかったんですか?」
白依はすぐには答えなかった。
赤い瞳が、広間の奥を、壁を、床を、天井を――白く塗り潰されたこの空間そのものを静かに見渡していく。
分からない。
何が核で、
どこが本体で、
何をどうすれば終わるのか。
この巣は、あまりにも歪だった。
そして――
だからこそ。
白依と焔羅は、奥の広間で並ぶように座り込み、しばらくぼうっとしていた。
「あーるーじー。もう燃やしてよくないですか?」
焔羅が、心底退屈そうな声で言った。
「駄目だ。お前は家まで燃やしかねん」
白依が淡々と言う。
「えぇー……」
焔羅が露骨に不満そうな声を漏らした、その時だった。
ぱちり、と。
焔羅の纏う焔が、小さく弾ける。
「主!」
焔羅がはっと顔を上げた。
「哀殿に、何かあったっぽいです!」
先ほどまでの気の抜けた声音は消えていた。
慌てたように声を上げる焔羅の耳がぴんと立ち、尻尾の火も落ち着きなく揺れる。
白依の赤い瞳が、すっと細まった。
「何か、とは何だ」
白依の声が低く落ちる。
「えっと、そこまでは分からないんですけど……でも、何かが起きてるのは確かで……」
焔羅の返答は、珍しく歯切れが悪かった。
普段なら勢いだけで押し切るくせに、今は曖昧な感覚しか拾えていないのだろう。
それでも、哀にかけた“おまじない”を通して伝わってくる気配が、先ほどまでとは明らかに違っていることだけは分かるらしい。
それを聞いても、白依は動かなかった。
「主? ここはもう燃やして出て、哀殿を助けに行きません?」
焔羅は落ち着かない様子で声を上げる。
耳は忙しなく動き、尻尾の焔も揺れていた。
白依はそんな焔羅に、短く返す。
「駄目だ」
それだけ言って、わずかに視線を落とす。
「それに――あいつは今、自分にできることをしているのだろう」
焔羅が、ぴたりと口を閉じた。
白依はそのまま、誰に聞かせるでもない独り言のように、ぽつりと続ける。
「あいつに任せると言って、あいつは任せろと言った」
赤い瞳は、白い糸に覆われた広間の奥ではなく、もっと遠く――今この場にはいない哀の方を見ているようだった。
「なら、あとはなるようになる」
それは突き放した言葉ではなかった。
不安がないわけではない。
気にならないわけでもない。
けれど、一度任せると決めたのなら、最後まで任せる。
その不器用な信頼だけが、白依の言葉の奥に静かに滲んでいた。
焔羅はそんな主の横顔を見上げ、何か言いかけて――結局、何も言わなかった。
(任せるとは言ってなかったけど……)
ただ、小さく鼻を鳴らす。
主なりに、ちゃんと哀殿を信じている。
それが分かったからこそ、軽々しく急かすことができなかった。
広間には再び、白い糸の気配と湿った静けさだけが満ちる。
――――――――
同時刻、杣木邸の外。
哀は息を切らしていた。
肩で呼吸を繰り返し、額には汗が滲んでいる。
身体の至る所には、すでに浅くない生傷がいくつも刻まれていた。
頬を掠めた刃の線。
腕を裂いた鎌の跡。
農具を受け損ねた脇腹の鈍い痛み。
一つ一つは致命傷には遠い。
だが、避け続け、受け続け、斬り返し続けたことで、確実に体力は削られていた。
それでも、哀の目はまだ死んでいない。
月明かりの下、刳斬舞を握る手に力を込めたまま、迫りくる村人たちを睨み据えていた。
月明かりに強く照らされたことで、哀にはっきりと分かったことがある。
ひとつ目。
――この村人たちは、すでに死んでいる。
ふたつ目。
――あの桜の木から伸びる糸によって、無理やり動かされている。
その確信に至る理由は、あまりにも明白だった。
月明かりに照らされ見えた極細の糸。
そして哀の目の前には、今までの応酬で首を落としたはずの村人が、なお立ちはだかっていたからだ。
切断された首は地に転がっている。
それでも胴体は倒れない。
白い糸に吊られたまま、がくり、がくりと不自然に揺れながら、それでも哀へ向かって一歩ずつ迫ってくる。
生きた人間なら、ありえない。
首と胴が分かれてなお動いている時点で、もはや正気かどうかの話ではなかった。
あれは死体だ。
とっくに命を失っている肉の塊を、あの桜の木が糸で繰り、無理やり“人の形”のまま動かしている。
哀は荒い息のまま、刳斬舞を握り直した。
つまり、斬るべき相手は村人ではない。
この村を呑み込み、死者を操り、白依たちまで内と外に分断した――その中心。
桜の木だ。
今の哀の技量と、刳斬舞の扱いでは――あの糸そのものを断つことはできなかった。
何度か狙ってみて、すでに分かっている。
刳斬舞の力は確かに強い。だが、今の哀では刳斬舞の真価を発揮することはできない。
それに、相手がすでに死人だと分かっていても、村人たちの身体を斬りつけることには、どうしても負い目があった。
だが、その一方で、手応えもあった。
村人たちの動きは、確実に鈍くなっている。
手足を断てば動きは鈍る。
胴を崩せば足が止まる。
完全には止めきれなくとも、“器”を壊せば操り方にも無理が出るのだ。
そして村人たちはもう、先ほどのように積極的に哀へ襲いかかってはこなかった。
代わりに動きを変え、哀が気づいたであろう、あの桜の木。
その前へ出るように。
根元へ近づかせまいとするように。
村人たちは、桜の木を守るための壁へと変わっていた。
それだけで確信を得るには十分だった。
正直、もう村人たちは先ほどまでの脅威ではなくなっていた。
数は多い。
見た目の不気味さも変わらない。
それでも、動きの鈍った死体の群れなら、哀ひとりでも十分に捌ける。
問題は、その先だ。
桜の木をどうにかしなければならない。
けれど、今の哀には決定打が足りない。
(焔羅のような力があれば……)
そう思った、その瞬間だった。
白い空間の中で、焔羅がぴくりと耳を動かした。
「哀殿!?なんか呼んでる?」
空を見上げるようにして、焔羅が独り言みたいに呟く。
その横で、白依は無言のまま焔羅を見た。
焔羅は「うぅー……」と唸りながら眉間に力を込め、何かを送るように意識を研ぎ澄ませている。
哀にかけた“おまじない”を通して、向こうの思いに応えようとしているのだろう。
白依は口を挟まない。
ただ、その様子を静かに見守った。
その時、哀の手にある刳斬舞が、ふっと青白い炎を纏った。
「……っ」
哀は目を見開く。
白依と焔羅のように、哀と焔羅が深く繋がっているわけではない。
心が直に流れ込むわけでも、力を完全に重ねられるわけでもない。
それでも――今の哀には分かった。
これは焔羅の力だ。
そしてただ力を寄越しただけではない。
自分の背を押そうとする意志まで、熱ではなく感覚として、確かに伝わってきた。
燃やせ、道を開け、お前ならやれる、と。
刳斬舞を包む青白い焔は激しくはない。
けれど、強い。
哀は柄を握る手に、改めて力を込めた。
「……ありがとう、焔羅!」
その声には、先ほどまでの焦りはもうなかった。
月明かりの下、青白い焔を纏った刳斬舞が、静かに輝く。
哀は桜の木を見据える。
今なら届く。
そう確信できるだけの熱が、刃の上に宿っていた。
「はぁぁぁぁあっ!」
気合いを込めた叫びとともに、哀は地を蹴った。
立ちはだかる村人たちは、もはや完全な肉壁だった。
鍬を振るい、鎌を突き出し、糸に操られた死体の群れが桜の木の前を塞ぐ。
だが、哀は止まらない。
最小限の動きで身を捌く。
迫る腕を外し、
振り下ろされる農具の軌道を紙一重で逸らし、
わずかに開いた隙間へ身体を滑り込ませる。
青白い焔を纏った刳斬舞が、月明かりの下で鋭く閃く。
そして哀は、そのまま桜の木の幹へ向けて、力の限り斬りかかった。
刳斬舞の刃が、桜の木の幹へ食い込む。
深くは入らない。
数センチ――その程度だった。
だが、それで十分だった。
刃に宿っていた青白い炎が、触れた箇所からするりと桜の木へ移る。
次の瞬間、火は一気に走った。
幹へ、枝へ、根元へ、青白い焔が桜の木の全体を瞬く間に包み込んでいく。
ぼう、と。
夜の闇の中で、冷たい色の炎が大きく広がった。
その光は杣木邸の壁を、地面を、そして周囲に群がる村人たちの姿までも容赦なく照らし出す。
月明かりとは違う、異質な青白さ。
それはただ木を燃やしているのではなく、この村に張り巡らされた見えない何かごと炙り出しているようだった。
同時に、白依たちのいる白い空間にも異変が起きた。
床、壁、天井に。
張り巡らされていた白い糸へ、どこからともなく青白い炎が走る。
「っ……」
白依が立ち上がる。
「わっ、わっ、主! 我、まだ何もしてない!」
焔羅が慌てて声を上げた。
だが、その言葉通りだった。
これは今この場で焔羅が放った炎ではない。
外で灯った火が、糸を伝ってこちらへ回ってきている。
青白い炎は白い糸を舐めるように広がり、たちまち空間の全体を包み込んでいく。
燃えているのに、熱だけが妙に薄い。
けれど、巣そのものを支えていた何かが焼き切れていく感覚だけは、はっきりとあった。
びき、びき、と。
白い壁に亀裂のような歪みが走る。
床が波打ち、天井がたわみ、糸に塗り潰されていた空間そのものが、徐々に形を保てなくなっていく。
「崩れる……!」
焔羅が目を瞑る。
白依は揺らぐ白を見据えたまま、短く吐き捨てる。
「やればできるじゃないか」
その直後、支えを失った白い空間は、音を立てて崩れ始めた。
「ぎゃっ!」
焔羅の間抜けな悲鳴が、哀の背後――杣木邸の玄関の方から響いた。




