第24話 杣木邸 その3
――時は少し遡る。
杣木邸、玄関前。
「白依様、お気をつけ――」
そう言って、哀が頭を下げかけた、その時だった。
バンッ!
前方で、激しい音が弾ける。
白依たちが入っていった戸が、凄まじい勢いで閉まったのだ。
哀は、はっと顔を上げた。
「っ……!?」
目の前で起きたことを、すぐには理解できなかった。
白依たちが、あのような勢いで戸を閉めるとは思えない。
だが一方で、古びた引き戸が自然にあんな音を立てて閉まるはずもなかった。
風ではない。
偶然でもない。
まるで、何かが意志をもって――家の内と外を拒絶したような、そんな閉まり方だった。
次の瞬間、哀は戸へ向かって駆け出した。
迷う暇などなかった。
玄関へ飛びつくようにして手をかけ、そのまま勢いよく引き開ける。
「白依様……!」
叫ぶように名を呼ぶ。
けれど――
哀は目を見開いた。
つい数秒前まで、たしかにそこにいたはずの二人の姿が、消えていた。
戸の向こうに広がっていたのは、ただの暗い玄関。
しかし、白依と焔羅が足を踏み入れたはずの場所から、気配だけが綺麗に抜け落ちている。
いるはずの者が、いない。
その事実だけが、ぞっとするほどはっきりと目の前にあった。
哀は、焦る気持ちをひと息で押し沈めた。
速くなる鼓動。
浅くなりかけた呼吸。
喉元までせり上がる不安。
それらを無理やり押さえ込み、意識を引き戻す。
白依と出会う前の自分なら、きっとこうはいかなかった。
何が起きたのかも分からず、どうすればいいのかも考えられないまま、ただその場に立ち尽くすことしかできなかっただろう。
だが、今は違う。
恐怖はある。
足だって震えそうになる。
それでも――動ける。
白依に任された。
ここで、自分にできることをしろと。
その言葉が、哀の背中を支えていた。
だから哀は、戸の前で立ち尽くさない。
すぐに顔を上げ、周囲へ意識を巡らせた。
今、自分がやるべきことは何か。
何を見て、何を確かめるべきか。
恐怖に呑まれるより先に、思考を動かす。
それができるだけの強さを、哀はもう手にしていた。
哀は腰の刳斬舞を抜き、静かに構えた。
呼吸を整えながら、まず周囲を見渡す。
あれだけ大きな声を出したにもかかわらず、村人の声も、家の中から様子を窺う気配もない。
灯りは点いているはずなのに、村そのものが息を潜めているようだった。
哀は眉をひそめる。
それでも、勢いのまま玄関へ踏み込んだりはしなかった。
白依に言われた言葉が、まだ胸の内に残っている。
――できることをしろ。
哀は右手に刳斬舞を構えたまま、左手の懐中電灯をゆっくりと戸の奥へ差し入れた。
白依たちが消えた、あの内側へ。
光が暗がりを舐めるように照らす。
だが、異変はない。
何かが襲いかかってくる気配も、灯りを拒むような反応も見られなかった。
(異変なし……)
哀は胸の内でそう呟き、さらに神経を研ぎ澄ませる。
見た目には、ただの玄関だ。
けれど――だからこそ、不気味だった。
つい数秒前まで、確かに白依と焔羅はそこにいた。
それが何の痕跡も残さず消えている時点で、“何もない”はずがないのだから。
バキ。
横合いから響いた唐突な音に、哀は反射的にそちらへ身体ごと向けた。
心臓が強く跳ねる。
額にじわりと汗が滲み、呼吸が一瞬だけ浅くなる。
刳斬舞を握る手に力が入り、懐中電灯の光もぶれる。
視線の先にあったのは、葉を一枚もつけていない木だった。
資料に載っていた、あの桜の木。
家の脇に立つその枝先が、夜風に揺れている。
今の音は、どうやらその細い枝が折れたものらしい。
「……ただ、枝が折れただけか……」
そう呟きながらも、哀の胸のざわつきは収まらない。
この村に入ってからずっと感じている、あの“見られている”感覚。
それが、桜の木のあたりだけひときわ濃くなった気がした。
懐中電灯の光が、白く乾いた枝をなぞる。
風に揺れているだけの木。
それだけのはずなのに――
哀には、まるで木の向こう側から何かがこちらを窺っているように思えた。
違和感が残る。
哀は桜の木を見つめたまま、浅く息を吸った。
よくよく考えれば、おかしい。
ここへ来るまでに見た林や周りの木々には、葉がついていた。
季節相応に色は落ちていても、枝先まで完全に裸になっていたわけではない。
それなのに、この桜の木だけが違う。
葉が一枚もない。
しかも、ただ枯れた木という感じではなかった。
幹も枝もしっかりしていて、朽ちているようには見えない。
生きてはいる。だが、生きている木の気配だけが、妙に薄い。
この桜の木だけ、こうなっている。
それはつまり――自然ではない、ということだった。
哀は刳斬舞を握り直し、懐中電灯の光を桜の木へ向けたまま、じっと目を細める。
風に揺れる枝先は、さっきと何も変わらない。
だが今は、その静けさそのものが不気味に思えた。
「…………」
白依たちが中へ入る直前、白依も一度この木を見ていた。
あの時は気にもとめなかった。
けれど今なら、少しだけ分かる気がする。
この桜の木だけが、明らかに異質だった。
哀は懐中電灯の光を、枝先から幹へ、そして根元へとゆっくり滑らせていく。
(なにか、土が盛り上がって……)
そう思った、次の瞬間だった。
ざっ、ざっ、ざっ。
土を踏む足音が、不意に夜の静けさを裂いた。
哀の肩がぴくりと揺れる。
一人ではない。
何人かの気配が、足音とともにこちらへ近づいてくる。
哀は反射的に懐中電灯をそちらへ向け、刳斬舞を握る手に力を込めた。
視線の先、家々の暗がりの向こうに――十数人ほどの人影が見えた。
村人たちだ。
そう分かる格好をしているはずなのに、哀の背筋を走ったのは安堵ではなかった。
遅い。
あまりにも遅すぎる。
あれだけの音を立てても、白依たちが消えても、今まで誰ひとり姿を見せなかった。
それが、このタイミングで、まとまって現れる。
そのこと自体が、もう異様だった。
人影たちは無言のまま、じり、じりと距離を詰めてくる。
哀は息を殺し、目を細めた。
――何かがおかしい。
「止まってください! 先程は大きな声を出してすみません!」
哀は先ほどと同じくらいの声量で、村人たちへ制止の声を張った。
だが――止まらない。
十数人の人影は、返事ひとつ寄越さず、ただじりじりとこちらへ歩みを進めてくる。
哀は眉をひそめ、さらに目を凝らした。
薄い月明かりと懐中電灯の光に浮かび上がった村人たちの手には、それぞれ得物が握られていた。
鍬。
鎌。
鋤。
木槌。
それだけではない。
中には、包丁を持っている者までいる。
どれも村では日常的に使う道具のはずだった。
だが、今この場で、無言のままそれらを手に近づいてくる姿は、どう見てもまともではない。
哀の喉が、ごくりと鳴る。
話し合いに来た者の持ち物ではない。
それは明らかに、“何かをするため”の手だった。
村人たちとの距離が縮まるにつれ、ようやくその口から漏れる音が聞こえてきた。
「うぅぅ……」
「あぁ……うぅぅ……」
それは、言葉になっていなかった。
呼びかけでも、
返答でも、
威嚇でもない。
ただ喉の奥から漏れ続ける、濁った呻き声。
哀は刳斬舞を構えたまま、息を詰める。
そして、相手の表情が目視ではっきり分かる距離に入った時――
先ほどの声に反応しなかった理由を、そこで理解した。
村人たちの目は、誰ひとりとして哀を見ていなかった。
焦点が合っていない。
視線はこちらを見ているのに、そこに意思はない。
口元はだらりと開き、涎を垂れ流している。
表情は完全に抜け落ちていた。
人間の顔をしているはずなのに、そこに人の気配がない。
まるで中身だけが抜き取られ、
身体だけを無理やり動かされているようだった。
哀の背筋に、冷たいものが走る。
正気ではない。
――いや、そもそも。
目の前のそれらが、本当にまだ生きているのかどうかさえ怪しかった。
互いの間合いへ入った、その刹那だった。
先ほどまで鈍かった村人たちの動きが、突然跳ね上がる。
「っ――!」
ひとりが鍬を振りかぶり、哀の頭めがけて一気に振り下ろしてきた。
重い風切り音。
だが哀は、反射的に身を捌く。
余裕をもってそれを躱し、刃の軌道から外れる。
鍬の先が地面へ叩きつけられ、土が跳ねた。
けれど、それで終わりではなかった。
避けた瞬間にはもう、別の村人が横から距離を詰めてきている。
背後にも気配。
横にも、前にも。
哀はそこで、自分がすでに囲まれていることを悟った。
逃げ場がない。
十数人の村人たちは、のろのろと迫ってきていたはずなのに、間合いへ入った途端、まるで合図でもあったかのように一斉に牙を剥いたのだ。
哀は刳斬舞を握り直し、低く息を吐く。
もはや、躱すだけでは捌ききれない。
哀にも、一通りの武芸の心得はある。
相手が素人で、しかもただの老人であれば、後れを取ることはない。
少なくとも、一対一や二対一程度なら捌けたはずだ。
だが――目の前の村人たちは、もはや“ただの老人”ではなかった。
踏み込みが異様に速い。
振るう農具は重いのに、その動きに淀みがない。
痩せた身体のどこにそんな力があるのかと思うほど、膂力も強かった。
更に厄介なのは、それが個々の力だけではないことだ。
一人を躱せば、すぐ別の一人が詰めてくる。
逃げ道を塞ぐように動き、間合いを潰すように囲い込み、まるで最初から哀を仕留めるためだけに配置されていたような連携を見せていた。
(白依様の言う通りだった……)
哀は歯を食いしばる。
この場で自分に任された役目。
家の外にある異変。
それらを警戒しろという意味を、今さらながら痛感していた。
これまで哀は、ひたすら回避に徹していた。
鍬を躱し、
鎌を避け、
農具の振り下ろしと包丁の切っ先を紙一重でいなす。
だが、数が多すぎる。
一撃一撃は見えている。
反応もできる。
それでも、避け続けるだけではじりじりと追い詰められていく。
風切り音が、少しずつ近づいていた。
ひゅ、と頬のすぐ脇を掠め、
ぶん、と髪先を揺らし、
次の一撃は肩を、
その次は脇腹を狙ってくる。
距離が詰まっていく。
このまま躱すだけでは、いずれ潰される。
こうなったら――と、哀は躱すだけの立ち回りを切り替えた。
振り下ろされる一撃へ、自ら刳斬舞を合わせる。
金属と金属がぶつかるような、まともな打ち合いではない。
哀が狙ったのは、村人たちそのものではなく――その手に握られた得物の無力化だった。
呪刀・刳斬舞の力。
空間を抉り切る。
その異能を使えば、ただ刃をぶつけるだけでは届かない場所まで断てる。
鍬も、鎌も、包丁も。
振るわれる軌道ごと抉り取ってしまえば、少なくともこの包囲に穴を開けることはできる。
哀は息を詰め、迫る農具へ刃を滑らせた。
片手でも十分に断ち切れる――哀はそう踏んでいた。
だが、その瞬間。
右腕に、とてつもない力がのしかかった。
「っ……!」
振り下ろされる鍬を受けた刳斬舞の刃は、たしかに柄へ食い込んだ。
空間ごと抉り切るはずの一撃だった。
それなのに、断ち切れない。
刃は柄へ浅くめり込んだだけで、そのまま凄まじい力に押し込まれていく。
重い。
ただの腕力ではない。
老人の身体から繰り出されるとは到底思えない、異様な膂力だった。
哀の足が地面を滑る。
受けた衝撃が腕から肩へ、骨の芯まで軋ませるように伝わった。
「っ……なんで……」
息を詰めたまま、哀は目を見開く。
その一瞬の隙を、村人たちは見逃さなかった。
横からは首を狙う鎌。
正面からは腹部を抉るように突き出される包丁。
さらに別の手からも、農具が追い打ちのように振るわれる。
どれも偶然ではない。
明確な殺意をもって、哀を仕留めにきていた。
哀の喉がひゅっと鳴る。
だが、次の瞬間にはその迷いを振り払っていた。
左手に持っていた懐中電灯を投げ捨てる。
地面に落ちた光が乱れ、夜の地面を斜めに照らした。
同時に、哀は刳斬舞を両手で握り直す。
受けるだけでは押し切られる。
ならば、この瞬間をまとめて断つしかない。
そう判断するのに、もう迷いはいらなかった。
するり、と。
哀は押し込まれていた鍬の軌道をわずかに外し、そのまま身体を滑り込ませた。
踏み込んできた村人の懐へ潜り込み、流れるような動きのまま刳斬舞を振り抜く。
次の瞬間、刃は村人の太腿を一刀で断ち切っていた。
肉を裂き、骨を断つ。
それはこれまで鍛練に使っていた巻藁や木人形とは違う、本物の肉を斬る感触だった。
鈍く、重く、いやに生々しい手応えが、刃を通して両腕へ伝わる。
哀の呼吸が、一瞬だけ止まった。
だが、斬られた村人は悲鳴を上げなかった。
絶叫も、苦悶の声もない。
ただ糸が切れた操り人形のように、その場へ崩れ落ちるだけだった。
その異様さに、哀の背筋がぞくりと粟立つ。
――やはり、普通ではない。
けれど、そんなことを考える間さえ与えられない。
倒れた村人など眼中にないとでも言うように、ほかの村人たちは一切動きを止めず、なおも哀へ襲いかかってきた。
一人が潰れれば、すぐ次。
次が崩れても、また次。
数で押し潰すことだけを命じられたように、無言のまま殺到してくる。
哀は刳斬舞を握り直し、強く息を吐いた。
もう躊躇っている暇はなかった。
その時だった。
空を覆っていた雲が、ふっと流れる。
闇を裂くように落ちてきた月明かりが、哀を、村人たちを、杣木邸を――そして、家の脇に立つ桜の木を照らした。
青白い光の下で、今まで闇に紛れていたものが、はっきりと浮かび上がる。
「……これは」
哀は息を呑んだ。




