第23話 杣木邸 その2
二人の目に映った色は、白だった。
それは焔羅の青白い炎に照らされたからではない。
玄関の戸を塞いでいた、あの白い壁。
それと同じ質感の白が、壁も、床も、天井も――この場にあるすべてを覆い尽くしていた。
布のようでありながら、ただの布ではない。
柔らかそうに見えるのに、空間そのものに張りつくように広がり、家の内側を根こそぎ塗り潰している。
白依たちが今立っているのは、もはや杣木邸の玄関ではなかった。
家の形をした、何か別のものの内側。
そう思わせるには十分すぎる光景だった。
その光景を見た瞬間、白依の脳裏に、ひとつの記憶がよぎった。
まだ村を追われる前のことだ。
家の中だけが世界のすべてだった頃。
狭く、薄暗い家の天井の隅に、小さな蜘蛛の巣が張っていた。
そこに、一匹の蛾が絡まっていた。
最初は激しく羽を打ち、必死に逃れようともがいていた。
ばたばたと暴れ、糸を震わせ、少しでも巣から抜け出そうとしていた。
だが、暴れれば暴れるほど、糸は深く絡みついていく。
やがて蛾の動きは鈍くなり、
羽ばたきは弱まり、
ついには、ほとんど動かなくなった。
そこへ、巣の主である蜘蛛がゆっくりと近づいてくる。
逃げる術を失った獲物へ、
何のためらいもなく牙を立てるために。
白依は、目の前の白に覆われた空間を見つめたまま、静かに理解する。
――これは、巣だ。
「主、どうします?」
焔羅が、白く塗り潰された奥を見据えたまま問う。
白依は迷わなかった。
「とにかく奥へ進む」
短い返答。
ここで立ち止まっていても埒が明かない。
この異様な空間の核があるとすれば、表ではなく奥だ。
焔羅もそれは分かっているのか、小さく頷いたあと、ふと思い出したように耳を動かした。
「哀殿は大丈夫ですかね?」
白依は白い道の先から目を逸らさず、淡々と返す。
「それはお前の方が分かるだろ」
「え?」
焔羅が素っ頓狂な声を上げる。
白依はようやく横目で焔羅を見た。
「この家に入る前。お前、哀になにかしていただろ」
「あっ!」
焔羅の口から、間の抜けた声が漏れる。
思い出したらしい。
焔羅はその場で眉間にぐぐぐと力を入れ、何かを探るように目を閉じた。耳がぴくぴくと動き、尻尾の火も落ち着きなく揺れている。
どうやら、先ほど哀にかけた“おまじない”を通して存在を探っているらしかった。
白依はその様子を見て、小さく息を吐く。
呆れを隠す気もない、短いため息だった。
(やはりこいつは、ただの阿呆だな)
焔羅はそんな白依の内心など知らず、しばらく「むむむ……」と唸ったあと、ぱっと顔を上げた。
「――いた!主!哀殿は無事です!」
声には、あからさまな安堵が滲んでいた。
やはり先ほどの“おまじない”は、ただの気休めではなかったらしい。
白依は小さく頷く。
「一応、常に哀のことを感知しておけ」
それは確認ではなく、命令だった。
この家の内側がどうなっているのか分からない以上、外の哀との繋がりは途切れさせない方がいい。
完全に切り離されれば、何か起きた時に対応が遅れる。
焔羅もそれを察したのか、今度はふざけず真っ直ぐに返した。
「わかりました!」
その声を聞きながら、白依は再び白く歪んだ奥へと視線を向ける。
哀は無事。
ならば、今やるべきことはひとつだった。
「行くぞ」
それだけ告げ、白依は足を踏み出した。
焔羅も慌ててその後に続く。
「主、これって何なんですかね」
周囲を警戒しながら問う焔羅に、白依は前を見たまま答えた。
「巣だろうな」
焔羅の炎に照らされたことで、ようやくはっきりと分かった。
布のように見えていた壁は、布ではなかった。
細く白い糸が、綿密に、幾重にも折り重なってできている。
壁も。
床も。
天井も。
この空間そのものが、無数の糸で編み上げられていた。
そして白依の脳裏には、先ほどよぎった過去の光景がまだ残っていた。
天井の隅に張られた蜘蛛の巣。
そこに絡まり、もがき、やがて動かなくなった蛾。
ゆっくりと近づいてくる巣の主。
あの時に見たものと、今目の前にあるものは、あまりにもよく似ていた。
「……巣ですか」
焔羅が、噛み砕くように呟く。
その声は小さいのに、白い糸に覆われた空間の中で妙に生々しく響いた。
「てか、主。この廊下、長すぎません?」
焔羅が周囲を見回しながら、じわりと眉を寄せる。
白依は答えず、ただ前を見たまま歩を進めた。
言われるまでもなかった。
この家の間取りは、蘭丸から渡された資料で頭に入っている。
外から見た造りも、中へ入る前に確認していた。
本来なら、ここまで奥行きのある家ではない。
それなのに――中は明らかに異様だった。
長い。
ただ長いだけではない。
進んでも進んでも、家の奥へ入り込んでいる感覚が薄い。
同じような白い糸の壁、床、天井が続き、距離感そのものが曖昧になっていく。
外から見た杣木邸の大きさ。
頭に入っている間取り。
そのどちらとも、まったく噛み合わない。
この家の内側は、すでに外見通りの空間ではなくなっていた。
まるで、巣の主の都合だけで引き延ばされた腹の中を歩かされているようだった。
焔羅の尻尾の火が、落ち着かなげに揺れる。
「……やっぱり、普通じゃないですね」
白依は小さく返す。
「最初から普通ではない」
その声だけが、白い糸に覆われた長い廊下の奥へ、静かに沈んでいった。
「でも、これが何かの巣なら、そいつを倒せばいいだけですね!」
焔羅の声音は、どこか楽観的だった。
白依はそれに何も返さない。
楽観的ではある。
だが、間違っているとも言い切れなかった。
巣である以上、主はいる。
そして、この異様な空間を生み出している原因がその主にあるのなら、倒すべき相手もまた明確だ。
だから、その言葉自体を否定する気にはなれなかった。
それよりも、白依には別に気になることがあった。
村へ足を踏み入れた時から、ずっと感じていたもの。
あの、謎の視線だ。
家の中へ入り、奥へ進むにつれて、その感覚はさらに濃くなっていた。
強く。
そして、多く。
ひとつではない。
白い糸に覆われた空間の奥。
壁の向こう。
天井の裏。
あるいは、自分たちの足元から。
無数の何かが、じっとこちらを見ている。
そんな気配が、絶え間なく肌にまとわりついてくる。
白依は足を止めず、赤い瞳だけをわずかに動かした。
この家の中にいるのは、“主”だけではない。
しばらく進んだ、その時だった。
奥の方から、かさ、かさ、かさ――と、乾いた無機質な音が聞こえてくる。
二人は同時に足を止めた。
「……主」
焔羅が低く呼ぶ。
「ああ」
白依も短く応じる。
音はひとつではない。
重なっている。
細かく、速く、絶え間なく。
何かが、無数に這い回っているような音だった。
焔羅が警戒を強め、奥へ向けて炎を放つ。
照らし出された先では、壁も床も異様に膨らんでいた。
白い糸に覆われた面が、あちこちで不自然に盛り上がっている。
まるで内側に何かを詰め込んだ袋のように。
しかも、それはただ膨らんでいるだけではなかった。
どく、どく、と。
生き物の臓のように、脈打つように動いている。
そして次の瞬間――
ぶち、と。
糸の膜が裂け、膨らみのひとつが弾けた。
中から溢れ出したのは、黒い蜘蛛。
一匹、二匹ではない。
塊のように詰まっていたそれらが、どっと零れ落ちるように床へ広がる。
床を埋め、壁を走り、天井からも這い出してくる黒い影。
それらがばらばらに動いているのではなく、まるでひとつの意思に従う群れのように、真っ直ぐ白依たちへ殺到してくる。
かさかさ、かさかさ、かさかさ――
乾いた脚音が重なり合い、白い糸に覆われた空間そのものがざわめいているようだった。
それはもはや“蜘蛛がいる”という程度の光景ではない。
蜘蛛の集合体。
黒い濁流みたいにうねりながら、白の中を呑み込むように迫ってくる異形の群れだった。
別の膨らみも、またひとつ弾ける。
さらにひとつ。
さらに奥でも。
まるで卵嚢か肉袋のように蜘蛛を孕み、次々と群れを吐き出していた。
焔羅が目を見開く。
「うわ、気持ち悪っ……!」
白依は眉ひとつ動かさず、迫り来る黒い濁流を見据えた。
この家の中にある白は、巣そのもの。
そして、その内側に脈打っていたものは――獲物ではなく、巣の主が育てた無数の仔だった。
「ど、ど、どうします!?我、あんなのに飲み込まれたくないですよ!?」
慌てふためく焔羅の声が上擦る。
いつもの勢いのまま押し切れる相手ではないと、本能で察したのだろう。
だが、そんな焔羅をよそに、白依は静かに思考を巡らせていた。
迫ってくる蜘蛛の群れ。
壁や床に脈打つ膨らみ。
この家の内側そのものを塗り替えた白い糸の巣。
ただ数が多いだけではない。
この空間そのものが、相手に有利なよう作り変えられている。
ならば無闇に暴れれば、それだけ相手の思う壺だ。
焼くか。
潰すか。
突破するか。
白依の赤い瞳が、迫り来る黒い濁流の奥を見据える。
探すべきは群れではない。
この巣を張り、この空間を維持している“核”だ。
それを見つけて断たなければ、いくら目の前の蜘蛛を払っても終わらない。
「押し通る。焔羅、入れ」
「はい、よろこんで!」
次の瞬間、焔羅の身体が青白い火となってほどけ、白依の内へ滑り込む。
力が満ちる。
白依は静かに息を整え、脚に力を込めた。
迫り来る蜘蛛の群れ。
壁も天井も、まだ次の群れを吐き出そうと脈打っている。
そのすべてを真正面から見据えたまま、白依は重心を落とし、腕を前でクロスする。
――ぼんっ。
空気が爆ぜるような音がした。
次の瞬間、白依の姿が前へ弾ける。
黒い蜘蛛の群れが行く手を埋めていようと、そんなものはまるで障害にならなかった。
踏み込みと同時に床が軋み、白い糸が散る。
白依はそのまま真正面から群れの中へ突っ込んだ。
ぶちぶち、と。
踏み潰される音。
弾き飛ばされる音。
砕けた脚と潰れた胴が白い糸の上に飛び散り、黒い濁流だった群れが強引に割られていく。
蜘蛛たちは四方から這い寄り、脚へ、裾へ、身体へ取りつこうとする。
だが、焔羅を憑依させた白依の速度と膂力は、それを許さない。
蹴散らす。
踏み砕く。
押し潰す。
ただそれだけで、目の前の群れは道の形に裂けていった。
白依は一切足を止めない。
無数の蜘蛛をものともせず、その黒い奔流を真っ向から突っ切っていく。
『主、凄すぎです!』
内側から、焔羅の興奮した声が響く。
白依はそれに答えない。
ただ前だけを見据え、白い糸に覆われた廊下をひたすら駆け抜ける。
背後では、踏み潰され、弾き飛ばされた蜘蛛たちがなおもかさかさと這い回り、遅れて追いすがってくる気配があった。
だが、焔羅を宿した白依の速度に追いつけるものではない。
白い床を蹴るたび、空気が裂ける。
壁も天井も、流れるように後ろへ飛んでいく。
そうしてしばらく走った末に、ようやく背後から迫っていた無数の脚音が、少しずつ遠ざかっていく。
しかし、蜘蛛の群れの音が遠ざかるにつれ、別の音が耳に入り始めた。
ぶち。
べちゃ。
湿った何かが裂け、潰れるような音。
白い糸に包まれた空間の中では、そのわずかな物音さえ妙にはっきりと響いた。
白依は足を止めず、静かにその音のする方へ向かう。
ぶち。
べちゃ。
一定ではない。
だが途切れもしない。
まるで何かを食い破り、
中身を啜り、
また次へ移るような――そんな嫌な規則性があった。
白依の赤い瞳が細まる。
この先にいる。
巣の主か。
あるいは、それに近い何かが。
その音に近づくにつれ、鼻をつく匂いが濃くなっていく。
鉄錆に似た、生温い臭気。
白依は、その匂いを知っていた。
神社で。
黒羽家で。
つい最近、嫌というほど嗅いだばかりのものだ。
「……血の匂い」
白依が低く呟く。
焔羅を憑依させている影響で、嗅覚もまた研ぎ澄まされていた。
湿った空気の奥に混じるそれを、間違えるはずがない。
ぶち。
べちゃ。
耳に届く不快な音が、なおも続く。
そのたびに、血の匂いもまた濃くなる。
何かが裂かれ、
潰され、
喰われている。
そんな光景を、匂いだけで想像させるには十分だった。
白依は赤い瞳を細めたまま、音の奥へと足を進める。
やがて、ゆっくりと速度を落とした。
そのまま慎重に進み、やがてひとつの広くなった空間の手前で足を止める。
そこから先だけ、空気が違っていた。
湿った気配の中に、より濃い生臭さが滞留している。
血の匂いも、あの不快な音も、すべてこの先から流れてきていた。
「焔羅、出てこい」
『え、はい』
白依の内から、するりと焔羅が姿を現す。
青白い火をまとった身体が白依の傍らに降り立った、その直後。
白依は短く告げた。
「後ろは任せる」
「後ろはって……」
焔羅が怪訝そうに眉を寄せながら、来た道の方へ視線を向ける。
そして、みるみるうちに顔を引きつらせた。
白い糸に覆われた通路の奥。
闇に沈んだ先から、またあの不快な音が近づいてきている。
かさ、かさ、かさ、かさ――
無数の脚が擦れる音。
さっき振り切ったはずの蜘蛛の群れが、こちらの位置を捉え直したのだ。
「いやいや!これは我、無理ですよ!」
焔羅が半ば悲鳴みたいな声を上げる。
そのまま焔羅が恐る恐る前へ目を向けた瞬間――今度は別の意味で、さらに顔を引きつらせた。
「うそぉ……」
前にも後ろにも、まともではないものがいる。
その事実を、ようやく目の前の現実として呑み込んだ声だった。
白依はそんな焔羅を一瞥することもなく、広くなった空間の奥を見据えていた。




