第20話 BAR《夜桜》
日はすっかり沈み、繁華街にはネオンが灯り始めていた。
「白依様、申し訳ありませんが――ここでは私の近くを歩いてください」
哀の声はいつも通り丁寧だったが、どこか切迫している。白依は周囲を見渡す。
行き交う人々。眩い光。耳の奥まで刺さるうるさい声。千年の隔たりを、今さらのように突きつけてくる喧騒。
白依は何も言わず、半歩だけ哀との距離を詰めた。
それに、哀の“生暖かい”視線が癪に障る。だが今は我慢する。ここで言い争うほどの意味はない。
「それで。萬屋はどこだ」
その視線を断ち切るように問う。
哀は少し困った顔で、けれどすぐ真面目な表情に戻した。
「えっと……私も話で聞いただけで、実際に行ったことはないのですが」
言いながら、胸元に仕舞っていた黒紫の木札――許可札へ指先を添える。
「『許可札を持って、裏路地に入れば……そこが入口』だと」
哀は背伸びするようにして辺りを見渡す。ネオンの反射が瞳の端で揺れ、吐息が少し浅い。
「とりあえず……あちらの道に入ってみましょうか」
二人は表通りを離れ、少し狭い路地へ入った。
数歩。
――ぶん。
何か、薄い膜を抜けたような感覚が背筋を撫でた。
同時に、表通りの賑やかな雑音が――ぱたり、と途切れる。
まるで誰かが、世界の音量を落としたかのよう。
白依は足を止めず、視線だけを動かす。
後ろを振り返ると、そこには先程と変わらない表通りが見えていた。ネオンも、人の流れも。
なのに。
こちら側だけが、異様に静かだ。
空気の密度が違う。匂いが違う。光の当たり方が違う。
――ここだけ、次元が一枚ずれているような。
哀が小さく息を呑む音がした。
「……入れた、かもしれません」
白依は、前方の闇へ視線を据えた。
そこには――路地へ入った時にはなかったはずの、木製の扉があった。古びた板の継ぎ目は黒く艶を帯び、取っ手だけが妙に新しい。
その上に、ネオンの明かりで怪しく灯る看板。
――BAR《夜桜》
「焔羅」
白依が短く告げると、胸の奥から影がほどけるように焔羅が出てきた。尻尾の青紫の火が小さく揺れ、鼻先が空気を嗅ぐ。
「結界?領域?……なんか、不思議な空間ですね」
焔羅の声は軽い。だが耳は伏せ気味で、警戒が隠しきれていない。
「……ああ」
白依はそれだけ返した。扉から漏れる気配が、湿っている。血でも土でもない、もっと“人の欲”に近い匂いだ。
哀が一歩、前に出る。
木札を握る指先は僅かに硬い。だが声は震えないように作ってある。
「基本、私が交渉してみます。よろしいですか?」
白依は即答する。
「任せる」
その一言に、哀の胸の奥が熱く跳ねた。
許可を貰えた。任せて貰えた。――それだけで、頬が緩みそうになる。
だが哀はすぐに顔を整え、頭を切り替える。
(戦えない分、こういう所で役に立たないと)
生唾を飲み込み、木札を胸元へ一度だけ寄せる。
まるで護符に触れるかのように。
「……入りましょう」
哀が扉の前に立つ。
取っ手へ手を伸ばす直前、白依はその背中を見下ろしながら、ほんの僅かに空気の変化を感じ取っていた。
――扉の向こうから、こちらを“見ている”気配。
歓迎か、値踏みか。
あるいは、どちらでもない。
哀の指が取っ手に触れ、扉が小さく鳴った。
ギィ。
「いらっしゃい」
扉を開けた瞬間、暖色の柔らかい灯りが肌を撫でた。外の夜の湿り気とは別物の、甘く乾いた空気。薬のような匂い、酒の匂い、それに――どこか“結界の内側”の匂いが混じっている。
迎えたのは男の声だった。
けれど、わざと高くしているのが分かる声。軽く、艶を含んで、距離を詰めてくる。
カウンターの向こうに、妖艶な中性的な男がいた。
スーツの上に紫のストール。黒く艶のある髪は、細工の細かい簪でゆるくまとめられている。薄い化粧なのに目元だけ妙に強く、こちらを“測る”圧がある。
白依たちが立ち尽くしたままの数秒を、男は楽しむように眺め――そして、さらりと言った。
「とりあえず座りなさい。黒羽哀ちゃんに――噂の白き童ちゃん」
「……なっ!?」
哀の喉から、思わず声が漏れた。
自分の名が、当たり前のように出たことにも、“白き童”がもう噂としてここまで届いていることに、背筋を冷やす。
男はその反応を面白がるように、唇の端だけで笑う。
「そちらの、わんちゃんもおいで」
わんちゃん、と呼ばれた焔羅の尻尾の火がぱち、と跳ねた。怒りか、警戒か、どちらとも取れる小さな弾け方。
白依は返事をしないまま、勧められたカウンター席へ腰を下ろした。
椅子の脚が、店内の静けさに小さく鳴る。
それに遅れないよう、哀も隣へ座る。背筋は伸ばしているのに、肩だけが僅かに強張っている。
焔羅は迷う素振りもなく、ぴょんと跳ねてカウンターの上へ。
白依と哀の間に陣取るように座り、相手の動きを見逃さない目で男を睨んだ。
男はグラスを拭く手を止めず、あくまで軽い調子のまま視線を滑らせる。
「知ってて来てるとは思うけど一応ね。私はここ《夜桜》の店長、久世蘭丸。で――」
指先で簪の位置をひとつ整え、甘い声で続けた。
「あなたたちは、ここにお酒を飲みに来たのかしら? それとも……」
蘭丸は切れ長の目を細め、白依たちを順に撫でた。
その視線は優しい形をしているのに、刃物みたいに骨の内側へ触れてくる。
哀は一度、息を飲み込み――腹の底から声を整える。
「単刀直入に言います」
言い切った瞬間、カウンター越しの空気が一段硬くなる。
「足がつかない移動手段と拠点。それと――スマホを用意してほしいです」
少しの沈黙。
グラスを拭く布の擦れる音だけが、妙に大きく聞こえた。
その沈黙を“拒絶”と受け取ったのか、哀は畳みかける。
躊躇を見せれば、値札を貼られる――そう分かっている声音だった。
「こちらを」
哀は抱えていた布をほどき、呪刀・刳斬舞をカウンターへ静かに置いた。
木の天板が、重みを受けて小さく鳴る。
刳斬舞はそこにあるだけで、薄い不快感を撒き散らした。
刃が眠っているのに、周囲の空気が“削れる”気配だけが残っている。
蘭丸は笑みを崩さない。
けれど、瞳の奥が一瞬だけ――興味の色に切り替わった。
「……少し触っても?」
「どうぞ」
哀が即答する。
断れば“何かある”と認めることになる。そう判断した声だった。
蘭丸は、ためらいなく刳斬舞を手に取る。
指先が柄を包む所作が、妙に丁寧で綺麗だ。
鞘から、ほんの少しだけ刃を抜く。
――すう。
金属の音は、ほとんどしない。
代わりに、薄い膜が裂けるような嫌な気配が、店内の空気を一度だけ撫でた。
蘭丸の表情は一切変わらない。
薄ら笑いのまま。まるで、危険物に触れている自覚すらないみたいに。
だが白依には分かった。
この男は“怖がっていない”のではない。
怖いものを、怖いと感じる場所が――最初から違う。
刃を鞘に戻す。
カチリ、と静かな音。
蘭丸は刳斬舞をカウンターへ置き、布越しに指先を軽く払った。
汚れを落とす動きではない。“評価を終えた”という仕草だった。
「なるほどねえ……」
その声は甘いのに、体温がない。
蘭丸は白依の顔を見て、それから哀へ視線を戻す。
笑みは崩さず、けれど瞳だけが鋭くなる。
「で。これは“対価”のつもり?」
指先で天板をとん、と叩く。
まるで値札の位置を確かめるように。
「移動手段と拠点とスマホ。――三つとも“足のつかない”という条件」
蘭丸は軽く首を傾げた。
「それが、この刀一本で足りると思う?哀ちゃん」
最後の“ちゃん”が、やけに刺さる言い方だった。甘く呼んで、同時に格付けする声。
焔羅が、低く唸る。
カウンターの上で前足に力を込め、いつでも飛びかかれる姿勢になる。
白依は動かない。
赤い瞳が蘭丸の目元をじっと捉えたまま、ただ一言だけ落とす。
「……足りないなら、何が要る」
蘭丸の笑みが、少しだけ深くなる。
「いいわね。話が早い」
そして、パンっと手を叩く。
「じゃあ条件を二つ出すわ。――1つは“あなたたちの事情”を、もう少しだけ頂戴」
切れ長の目が細まる。
覗き込むような圧が、カウンター越しにじわりと迫る。
「なにに追われてるの?誰に見つかりたくないの?そして――」
蘭丸の視線が、白依の白い髪を撫でるように落ちた。
「“白き童ちゃん”は、何者なの?」
店内の灯りが、ほんの少しだけ暗く感じた。
「……神です」
哀が、ぽそりと落とした。
カウンターの暖色灯が、わずかに揺れた気がした。
蘭丸は反射で瞬きをして――思わず、困った声を漏らす。
「ええと……」
その一音が引き金になったみたいに、哀の勢いが一気に増す。
「見ての通り、白依様は神なのです!私を救い出してくれた――絶対神なんです!」
熱が、言葉になって飛び出した。
信仰の告白。誇り。救われた者の確信。
哀の瞳はまっすぐで、眩しいほどに揺るがない。
蘭丸は、さすがに口を閉じた。
眉だけを上げ、哀を指さしてから白依を見る。
――ねえ、これ、どういうこと?
そんな顔。
白依は、ひとつ息を吐くでもなく、淡々と返した。
「白依は白依だ。神じゃない」
「そんなぁ……!」
哀が食い下がりかけた、その瞬間。
白依の声のトーンが、僅かに落ちる。
「……いいから。あとの説明をしろ」
それは命令だった。
優しさも慰めもない。けれど、迷わせない強さがある。
哀は、はっとして背筋を正す。
「は、はい……」
焔羅は「やれやれ」と言わんばかりに首を振り、鼻先を軽く鳴らした。
哀は一度だけ喉を鳴らし、話を“現実”へ引き戻す。
「既にご存知かと思いますが――兵庫県北部の神社惨殺事件、それと黒羽家全焼事件」
言葉を選ぶ余裕はない。
むしろ選べば、弱さが出る。
「……ともに、やったのは我々です」
蘭丸は、驚かない。
目が一瞬だけ細くなり、“やはりね”と確信しただけだった。
「そうなると、陰務省はもちろん、御三家」
哀の声が硬くなる。
「特に黒杖家が、狙ってくると予想しています」
カウンターの上で、焔羅の尻尾の火が小さく揺れた。
空気がひりつく。
哀は続ける。
「私たちには、情報が足りていません。今の状況を把握するために――それもあって、ここへ来たのです」
蘭丸は、しばらく黙っていた。
グラスを拭くでもなく、指を遊ばせるでもなく。
ただ、何かの計算を頭の中で回しているような沈黙。
やがて、ゆっくりと口角が上がった。
「とりあえず――事情は分かったわ」
さらり、と言って、視線を白依へ滑らせる。
「白き童ちゃんの正体はまだ隠してることがありそうだけど」
そこでわざとらしく肩をすくめ、笑みを深くした。
「“白依ちゃん”って可愛いお名前が分かっただけ、収穫としましょうか」
哀の頬が、ほんの僅かに熱くなる。
焔羅が「うわ、呼び方ムカつく」とでも言いたげに目を細める。
白依は、目を細めただけで返さない。
蘭丸は、カウンターに指先を置き――次の札を切るように言った。
「じゃあ次。あなたたちが欲しいもの――“足のつかないスマホと移動手段”はすぐに用意できる」
一拍置いて、薄い笑みのまま次の条件を言う。
「そこで――二つ目の条件」
蘭丸は指を二本立てたまま、話し始める。
「これは、あなたたちが求める“拠点”に繋がることね。うちは職業柄、呪具や呪物が集まってくるの」
哀の拳に、ぎゅ、と力が入った。
嫌な予感が、胃の底で冷える。
蘭丸は続ける。口調は軽いのに、内容だけが重い。
「その中には“いわく付き物件”なんてものもあるんだけど、全国各地にあって。普通の物件でも管理が面倒なのに、いわく付きとなると――余計面倒でね」
ため息をひとつ。
愚痴の形をしているのに、目は計算している。
「そこで、その物件の“いわくを解決”。それができたら――その物件、自由に使ってもらって構わないわよ」
どう? できる?
そう言わんばかりの表情で、蘭丸は顎を上げた。
カウンターの上で、焔羅の尻尾の火が小さく跳ねる。
哀は息を呑み、白依を見る――が、白依は既に答えを決めていた。
「……わかった」
短い。
躊躇いのない声だった。
その瞬間、蘭丸の顔がぱっと花開く。
わざとらしいほどの満面の笑み。
「交渉成立ね!」
ぱん、と軽く手を叩く仕草。
空気が一段だけ軽くなる――気がしたのは、哀だけじゃない。
蘭丸はすぐに続ける。
「あ、その刀は哀ちゃんが使うといいわ」
「え?」
哀の声が素で漏れた。
刳斬舞を差し出そうとした指が、一瞬だけ迷う。
蘭丸は笑みを崩さないまま、切れ長の目を細める。
「白依ちゃんの価値は“刀一本”じゃ釣り合わないもの。でしょ?」
言いながら、カウンターの上に指先でとん、と線を引くように置く。
「その代わり――これからも、仲良くしてね」
最後の言葉は、甘い。やけに甘い。
けれど“仲良く”の中身は、約束じゃなくて首輪だ。
蘭丸がウインクを寄越す。
哀は、苦笑いしかできなかった。
笑って流すしかない、そういう種類の圧。
その横で、焔羅が小声で白依に囁く。
「主……これ、結構やばい匂いする……」
白依は視線も動かさず、淡々と言った。
「だから行く」
そして蘭丸を、赤い瞳で見つめる。
「その場所と内容を出せ」
蘭丸は嬉しそうに肩を揺らし、グラスをひとつ指で弾いた。
「もちろん」
笑みの奥で、何かが光る。
「――最初の物件“死亡者、行方不明者が増え続けている家”について……」
――――――――――――
陰務省や御三家の動きや事故物件の説明を聞き終え、白依たちは新しいスマホと車の鍵を受け取り、BAR《夜桜》を後にした。
扉が閉まると同時に、店内の空気がふっと緩む。先程まで漂っていた“見られている”感覚だけが、遅れて薄く残った。
カウンターの中で、蘭丸はグラスを一つ磨き直すような仕草をしてから、奥へ向けて声を投げた。
「――呉代ちゃん、もういいわよ」
少し間があって、奥の扉が静かに開く。
出てきたのは、エプロン姿の若い女だった。茶色い髪をまとめ、手には布巾。いかにも“店の子”という装いなのに、目だけが妙に鋭く、足音がない。
「ボス……さっきのが」
呉代と呼ばれる女の声は抑えているのに、喉の奥が乾いているのが分かった。
蘭丸は薄く笑い、さっき白依が座っていた場所を指先で軽くなぞる。
「ええ。白依ちゃん」
言い方は甘い。けれど目は甘くない。
「……想像以上かもね」
その瞬間、呉代の視線が、蘭丸の手を捉えた。
グラスを握る手がわずかに――震えている。
呉代は気づかないふりをせず、むしろ淡々と突き刺すように言った。
「それにしては、大胆だね」
蘭丸が肩をすくめる。否定しない。
呉代は続けた。
「さっき条件で出した物件。参災位保持者が何人も行方不明になって、弐災位保持者すら重度の霊障を負った所でしょ」
“参災位、弐災位”。
その単語だけで、店の灯りが一段暗くなったように感じた。
蘭丸は、うふっ、と小さく笑う。可笑しそうに。楽しそうに。――そして残酷に。
「まあ」
グラスを置く音が、やけに綺麗に響く。
「そのくらいは余裕でやってもらわなきゃ、仲良くする価値ないからね」
呉代は何も言わなかった。言えなかった。
ただ、奥の扉の向こう――もういない白い影の残り香を、無意識に探すように目を細める。
蘭丸は笑ったまま、ぽつりと付け足す。
「……それに。あの子たちが、狙われてるのは確定。なら、早い段階で“使えるかどうか”を測っておかないと」
言葉の最後だけ、少し低くなる。
「“敵になるか味方するか”どちらがお得かしらね」
店内に、もう一度だけ沈黙が落ちた。
外のネオンの明かりがガラスに滲み、夜桜の看板が怪しく瞬いた。




