第19話 痕跡を
灯りを消した部屋は、闇に沈んでいた。
聞こえるのは、哀と焔羅の寝息だけ。規則正しく、ゆるやかで――まるでこの世界が何事もなかったかのように静かだ。
白依は仰向けのまま、右手を見つめた。
封印が解けてから、既に八人殺した。
殺せば殺すほど、迷いも躊躇いも薄れていく。刃が落ちるように、決断が落ちる。音もなく。
――ズキッ。
頭の奥に痛みが走り、白依は眉を寄せる。
身体は哀に隅々まで洗われ、清められた。髪も、肌も、爪先までも。匂いさえ、いつもの“白”に戻っている。
なのに。
白依の目に映る自分の手は、とても汚く見えた。
洗って落ちる汚れではない。こびりついて、骨まで染みているようなものだ。
(じじい……白依は……)
言葉が続かない。続けた瞬間、何かが決定的に崩れる気がした。
哀の父――黒羽具廉。
首を縊り、折った感触は、生々しい。今も掌に残っている。骨が折れた鈍い抵抗、喉の奥の潰れた音、血の匂い。全部。
白依は身を起こし、隣のベッドへ視線を移した。
哀が眠っている。
穏やかな寝顔だった。まるで、ここが一番安全だと言わんばかりに。――自分の父を殺した者の隣で。
あの時の哀を思い出す。
黒羽哀という女は、出会った時からどこかおかしいと思っていた。
白依を神と仰ぎ、遠慮がちかと思えば、平然と距離を詰めてくる。
踏み込むな、と言っても、踏み込めない場所だけを器用に避けて、平気で内側へ手を差し入れようとする。
そして――具廉を殺した時に見せた、あの表情。あの瞳。
「……変な人間」
白依は低く呟き、ボフッ、と音を立てて再びベッドへ横になった。
柔らかい沈み込みが、身体を受け止める。
目を閉じる。
(哀も焔羅も、利用してるだけだ。――それ以上でも、以下でもない)
そう言い聞かせるように、胸の奥へ押し込む。
だが、その“先”を考えようとした瞬間――白依は無意識に、それをやめた。
思考が、すっと暗い水底へ沈んでいく。
闇の中、哀の寝息は変わらず穏やかで、焔羅は小さく鼻を鳴らした。
白依は目を閉じ、静かに眠りへ落ちた。
――
「……焔羅。白依様が起きるまで我慢しなさい」
「でも、我、お腹すいた……」
小声の言い争いが耳に届き、白依は目を覚ました。
薄いカーテン越しの光が、室内をぼんやり白くしている。
「白依様、おはようございます」
哀の丁寧な声。
その直後、焔羅の声が被さる。
「主、おはよう!哀殿!もう食べていいか!?」
(……騒がしい)
そう思った。思ったが――悪い気はしなかった。
哀の困った視線に気づき、白依は短く息を吐き、上体を起こす。
「……食え」
焔羅がぱっと顔を明るくし、尻尾の火をぱちぱち弾ませる。
「やった!」
哀は小さく安堵したように息を吐き、用意していた袋を机へ運ぶ。
それから三人で、黙々と――いや、焔羅だけが元気に――朝と昼の間の食事をとった。
時計を見ると、時刻は昼前だった。
食べ終わった頃、哀が箸を置き、背筋を整える。
“奉公人”の顔から、“段取りを回す人間”の顔へ切り替わった。
「白依様。やはり、ここを出ましょう」
白依は返事をしない。視線だけで続きを促す。
哀は一度、言葉を選ぶように唇を噛み――そして、淡々と告げた。
「昨晩、父が白依様のことを『例の白き童』と言っていました」
白依の赤い瞳が、細まる。
「つまり……白依様の存在が、もう認知されつつあるということです」
「確かに……」
焔羅が、形だけ真剣そうに腕を組む。
だが、その目はどこか眠そうで、腹のことしか考えていない顔でもあった。
哀は続ける。
「スマホは壊れたので、それでの追跡はないと思います。ですが……」
哀の指が、テーブルの上をとん、と叩く。
「このホテルや、移動に使っている車には、ログや情報が残ります。人の世は、そういう形で足跡が残るので……そこをどうにかしようと思います」
白依が短く問う。
「アテはあるのか」
「はい」
哀は迷いなく頷いた。
「ここから西へ進み、愛知県名古屋市にある――“萬屋”なら、あるいは」
「なんだ、それは?」
焔羅の呑気な声。
哀は一瞬だけ焔羅を見て、すぐ白依へ視線を戻す。
「詳細は移動中にお話しします」
そして、決めるように続けた。
「そこなら、スマホも新しくできますし……移動手段も手に入ります。今は一刻も早く動いた方がいいかと」
白依は一拍置いた。
“なら、なぜもっと早く起こさない”という思いが喉まで来たが――飲み込む。
哀は、白依が言葉を飲み込んだことに気づいたのか気づかないのか、ただ真っ直ぐに待っている。
白依は短く答えた。
「……わかった」
哀が馬鹿みたいに買い込んだ白依の衣服や、移動手段の手配で少しのゴタゴタはあったが――結局、移動はタクシーになった。
焔羅を白依の中へ入れ、ホテルのフロントでタクシーを呼んでもらい、夕方頃には名古屋へ到着した。
荷物は一旦、駅のコインロッカーへ預けた。
紙袋の山も、詰め込まれたリュックも、どれも“今の白依”には邪魔でしかない。
白依は当然のように、すぐ萬屋へ向かうものだと思っていた。
だが、哀はロッカーの鍵を確かめ、時間を確認した。
「……まだ、早いですね」
その声音は落ち着いていて、妙に確信があった。
「行かないのか」
白依が問うと、哀は小さく頷く。
「移動中、話せませんでしたし……あちらで詳しく話しますね」
そう言って哀が指さしたのは――カラオケだった。
白依は一瞬、足を止める。
看板の文字、派手な光、入口から漏れる賑やかな声。
「……ここか?」
「はい。今はここが最適かと」
哀はそう言って、迷いなく受付を済ませた。会員だの、機械だの、番号だの――白依には理解できないやり取りを一通り片付け、白依を奥へ案内する。
廊下は薄暗く、扉が等間隔に並んでいる。
どの部屋からも、歌とも叫びともつかない音が漏れていた。
「こちらです」
哀が扉を開けた瞬間。
白依は、目を丸くした。
天井から吊られた――ミラーボールなるものが、ぎらぎらと色とりどりの閃光を撒き散らしている。
壁際の機械は、聞いたこともない爆音の旋律を吐き出し、画面には人や文字が踊っていた。
(……なんだ、ここは)
白依の眉間が、きゅ、と寄る。
「うわっ、眩しっ!主、ここ何!?拷問部屋!?」
内側から焔羅の声が漏れ――次の瞬間、白依の肩が僅かに強張ったのを感じ取ったのか、哀が慌てて操作パネルへ手を伸ばした。
「す、すみません!すぐに止めます!」
ピッ、ピッ、と軽い音。
爆音がぶつりと切れ、ミラーボールの光も沈黙する。
部屋が急に静かになった。
外の廊下の遠い騒がしさだけが、壁越しにぼんやり残る。
哀は息を整え、白依へ小さく頭を下げた。
「……こういう場所だと、周りの音が多く会話が拾われにくいと思いまして。個室で、出入りも人の目が散りますし」
白依はまだ部屋を一瞥し、やがて短く鼻を鳴らす。
「……そうか」
その声に合わせて、焔羅が白依の中からひゅ、と抜け出してきた。
ソファにどさりと腰掛け、しっぽの火を小さく揺らす。
「ふう……やっと外出れた。主の中って安心できな――」
「黙れ」
「はい……」
焔羅がしゅんと縮む。
哀はソファの端に座り、膝の上で手を組んだ。
いつもの丁寧さを保ちながらも、目だけは真剣だった。
「では、改めて。……萬屋の話をします」
白依は黙って頷く。
哀は一拍置いて、言葉を選ぶように続けた。
「結界の綻び、情報の穴……そういうところに、陰の商いが集まります」
焔羅が身を乗り出す。
「陰の商い?」
哀は焔羅を見ず、白依だけを見て言った。
「呪具、呪物、護符、偽造身分、移動手段、拠点……“困った時に必要なものを揃えてくれる場所”があるんです」
そして、哀は小さく息を吸う。
「それが――萬屋です」
白依の赤い瞳が、僅かに細まる。
「……誰がやっている」
哀は迷わず答えた。
「私も聞いた話でしかないのですが、久世蘭丸、という人物です。本名か分かりませんが。表向きは……BAR《夜桜》という会員制の飲み屋です。まあ、趣味でやっているだけで、そもそも許可札を持っていないと辿り着けません」
焔羅が「うわ、怪しい」と顔をしかめる。
「これがその許可札です」
哀はそう言って、机の上に黒紫色の木札を置いた。
木肌は古く、しかし艶がある。光を吸うような色で、触れていないのに“重さ”だけが先に伝わってくる。
「神主の部屋から……拝借しました」
言い方だけは丁寧だ。けれど、やっていることは堂々と“盗み”に違いない。
白依は木札を見下ろしたまま、眉一つ動かさない。
焔羅が、関心とも呆れともつかない声を漏らす。
「哀殿……抜け目ないな……」
哀は小さく笑うでもなく、ただ頷いた。
「萬屋は、“辿り着ける者”しか辿り着けません。道があるのに、気づけない。目の前にあるのに、見えない。そういう結界が張られているそうです」
指先で木札の縁を軽く叩く。
乾いた音がして、部屋の空気が一瞬だけ冷えた気がした。
「この札が、道しるべになります。持っていないと、迷う――というより、永遠に同じ場所を回らされます」
焔羅が青紫の火を小さく揺らし、喉の奥で唸る。
「やだな……主もそういうの嫌ですよね?」
白依は札から視線を動かさず、沈黙で答えた。
「……」
「ただし、札を持っていても“誰でも歓迎”ではないと思います。だから、入ってからが本番です」
白依が初めて札へ手を伸ばす。
哀は一瞬だけ息を止めたが、白依が札に触れると同時に、その黒紫が――ほんのわずか、深く濃くなった。
木札の表面に、見えないはずの紋様が浮いた気がして、哀の背筋がぞくりとする。
(……やっぱり)
哀は、その感覚を飲み込む。
白依は札を指先で挟み、確かめるように一度だけ持ち上げた。
「……これが鍵か」
「はい。鍵であり、通行証であり、招待状です」
焔羅がソファにもたれ、ぼそっと言う。
「盗んだ招待状……」
哀がにこりと笑う。
ただし、目は笑っていない。
「もう持ち主の神主はいませんし、返したくても返せません」
その言い方が、やけに淡々としていて。
焔羅はそれ以上言えず、尻尾の火を小さくして黙った。
白依は札を哀へ返さず、そのまま手の中に収めた。
白依は、静かに問う。
「信用できるのか」
哀は言い切らない。そこだけは、正直に揺らす。
「……完全には。ですが、今の私たちに必要なのは“信用”より“利害”です」
哀の声の芯が、少し硬くなる。
「白依様が目立ち始めています。ホテルも、タクシーも、買い物も――全部、痕が残ります」
白依は、短く答えた。
「面倒な仕組みだな」
「はい。まず必要なものは痕跡を残さないスマホ、移動手段、拠点――この三つです」
哀はそこで一瞬だけ視線を落とす。
「それと、萬屋には“噂や情報”が集まります。正直こちらから情報を与えるのは良くないのですが、陰務省や御三家がどう動いているか。それに、白依様の求める核の情報もあるいは……」
白依の目が、鋭くなる。
「……じじいの核」
哀は頷く。
「可能性は高いです。既に知られはじめてるのなら、こちらからも情報を取りに行くべきです」
焔羅が恐る恐る手を挙げるみたいに言う。
「ね、ねえ哀殿。萬屋ってさ、主のこと売ったりしない?」
哀は即答しない。
その“間”が、逆に本音だった。
「……売る可能性は、ゼロではありません。だから、交渉材料を持って行きます」
白依が、視線を哀の腕の中へ落とす。
哀はそれに気づき、布で巻いた刳斬舞を軽く叩いた。
「呪刀。……御三家の血筋が作った呪具なら萬屋は欲しがると思います」
白依は納得したように息を吐いた。
「……なら、話は早い」
哀は小さく頷いて、最後に言った。
「今はまだお待ちください。……萬屋は夜にしか開かないので」
白依は立ち上がりかけ、やめた。
「……どのくらいだ」
哀が時計を見て答える。
「あと、三時間ほどで動けます」
焔羅が即座に言う。
「飯!」
白依がぎろりと見る。
(哀といい焔羅といい……)
「はあ、なにか食うものはあるか」
「後ほど注文いたしますね」
「……!」
それを聞いた焔羅はソファでぴょんぴょん跳ねる。
哀は、ほんの少しだけ口元を緩め――すぐに真面目な顔に戻る。
「白依様。時間がきたら、萬屋へ向かいましょう」
白依は短く頷いた。
その部屋の外では、誰かの歌声がまた爆ぜる。
けれどこの個室だけは、不思議なくらい静かだった。
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辺りはまだ明るく、人も少ない。
店も開いていない飲み屋街。
路地裏へ入ると、表通りとは別世界のように、廃れたビルがぽつんと立っていた。煤けた外壁、くすんだ窓。人の気配は薄く、空気だけが湿っている。
そのビルの一室。
看板はあるのに、まだ灯りは点いていない。
それでも室内では、一人の美丈夫が鼻歌を歌いながら開店準備をしていた。グラスを拭き、ボトルの向きを整え、椅子を軽く引く。所作は無駄がなく、妙に綺麗だ。
ふと、手が止まる。
美丈夫は顔を上げ、まだ開くことのない入口をじっと見つめた。
「あら、誰かしら?もしかして……ね」




