第18話 火がつく
白依たちは、車へ向けて歩を進めていた。
白依の視線が、哀の腕に抱えられた刳斬舞へ落ちる。
「それ、持って帰るのか」
淡々とした声。
責めでも許可でもない。ただ事実を確かめる響きだった。
哀は刀を抱え直し、鞘に添えた指先を一度だけ整える。
血の匂いも、炎の熱も背に受けたまま――いつも通りの顔を作って答えた。
「はい。……なにかに使えるかも、と思いまして」
言いながら、哀は刳斬舞へ視線を落とさない。
見ると“父”の声が蘇るからではない。
――今はもう、この刃は道具でしかない、と自分に言い聞かせるためだった。
「この刀は“呪刀”ですが、どうやら私にも扱えそうなので……」
口調は丁寧。
けれど声の底には、妙に揺るがない熱があった。
「呪具は、壊すより“持っておく”方が得な場合もあります。もし、使わなくても、捨てるのは……もったいないです」
最後の一言だけ、少しだけ“素”が混じった。
焔羅が小声でぼそっと言う。
「哀殿、なんか変わった?……」
哀は軽く笑う。
白依は刳斬舞を一度だけ眺め、短く息を吐く。
「……好きにしろ」
それだけ言うと、白依は前へ歩き出す。
哀は半歩遅れてついていく。
刳斬舞は腕の中で静かに重く――まるで“帰る先”が決まったのを、当然のように受け入れているみたいだった。
「そうだ、焔羅」
哀の声が落ちる。冷たいようで、優しいようで――どちらとも言い切れない音だった。
「な、なんだ、哀殿?」
「あの屋敷に……火をつけてくれる?」
焔羅が足を止める。耳がぴくりと立ち、尻尾の青紫の火が小さく揺れた。
「え?でも、あそこは哀殿の……」
言いかけた焔羅の言葉を、哀は遮らない。
ただ、にこりと微笑む。
何も言わない。
その微笑みは柔らかい形をしているのに――目に、光はなかった。
それが錯覚ではないことを、焔羅は本能で理解してしまう。
「……わ、分かったよ……」
渋々といった調子で、焔羅は小さく息を吐いた。
ふぅ――。
口から吐かれた焔が、弧を描いて屋敷へ飛ぶ。
青紫の火は空中で赤へと変わり、乾いた木へ吸い込まれた。
次の瞬間、ぱち、と音が弾けた。
炎は一息で走る。
縁側、障子、梁、屋根裏――家の“息”をなぞるように燃え広がり、瞬く間に屋敷は炎上した。
赤が闇を押し退け、周囲の白い塀まで朱に染まる。
熱が夜気を歪ませ、燃える音が遠くの山へ反響していく。
哀は振り返らない。
焔羅も見ない。
ただ、火だけが背後で大きくなっていった。
白依は歩みを止めず、静かに一言だけ添える。
「……周囲の山は燃やすな」
命令は淡い。けれど逆らえない重さがあった。
「は、はいっ!」
焔羅が慌てて焔の勢いを絞り、火が外へ跳ねないように制する。
背後では屋敷が、崩れ落ちる前の呻きのような音を立てていた。
――――――――――――
黒羽家の長子であり、哀の腹違いの兄――黒羽景吾。
景吾は壁にもたれ、息を殺していた。肺がうまく膨らまない。喉の奥が乾き、唾が引っかかる。
(なんだ……なにが、どうなってるんだ……)
震えが止まらない。
理屈じゃない。身体が先に“危険だ”と叫んでいる。
――あの時。
確かに、目が合った。
(……あれは、人間の目ではない。逃げなければ)
それは必然であり、当然の判断だった。
黒羽具廉。
父は尊敬できるような人間ではない。けれど――実力だけは、景吾も認めざるを得なかった。
本家の人間と遜色ない。むしろ、厄介さで言えばそれ以上だと。
その父が。
地を這い、血を吐き、何もさせてもらえず――ただ“転がされていた”。
何を話していたのかは聞こえなかった。
聞こえなくてよかった、とさえ思う。聞いていたら、足が動かなくなっていた。
景吾は走り出していた。
惨めだとか、情けないとか――そんなことを考える余裕はない。
ただ、死に物狂いで。
息を吸うたび胸が痛み、吐くたび喉が焼ける。
(あの落ちこぼれ……一体、なにを連れてきやがった……)
裏口へ回る。あの目に再び見つからないように。
戸を開ける手が震える。鍵を回す音がやけに大きく聞こえ、耳の奥が痺れる。
飛び出す。夜の冷気が肺に刺さる。
木々の隙間を縫うように、必死に走った。
枝が頬を掠め、足元の石が跳ねる。転びそうになっても、止まれない。
背中の皮膚がずっと冷たい。追われている気がして、何度も肩越しに闇を疑う。
――次の瞬間。
背後が、明るくなった。
ふっと熱が立つ。
夜気の匂いが、焦げへ変わる。
景吾は反射で振り返った。
屋敷の方角。
そこから――紅蓮の炎が、空へ噴き上がっていた。
ぱちぱち、と燃える音が遠くても分かる。
梁が折れる鈍い響きが、山肌を伝って遅れて届く。
白い塀まで赤く染まり、煙が黒くのたうつ。
(……本当に、なにを……)
景吾の足が一瞬、止まりかけた。
だが次の瞬間、身体が勝手に動く。
――逃げろ。
頭が命令する前に、骨と筋が命令を実行していた。
景吾は再び前へ向き直り、闇の森へ駆け込んだ。
燃え上がる光が背中を追いかけてくるようで、目の奥が痛い。
景吾は歯を食いしばり、闇の中へ潜るように走り続けた。
「これはこれは。ド派手だねえ」
屋敷の炎に、赤く照らされた影に紛れ男の声が、誰に聞かれることもなくその場で消える。
――――――――――――
東京都――陰務省・総監室。
「ぐあー、やる気出なーい。ここ最近忙しすぎでしょー」
机の上という机の上に書類の山。
その中心で、久遠緋珠は椅子にだらりと沈み、額を机へ擦りつけるように項垂れていた。
「げっ……もう日跨いでるじゃん!?肌荒れしちゃうよー!澪ちゃんいないし、今帰っても――」
言い訳を組み立てかけた、その時。
コンコン。
ノックの音に、緋珠の肩がびくん、と跳ねた。
「っ、ど、どーぞっ!」
勢いよく声を作る。慌てて書類を手元へ寄せ、ペンを握り直す。
――今この瞬間から、真面目に働いてました、という顔を作るために。
ガチャ。
入ってきたのは、相楽澪だった。
「総監――」
「いや、ちゃんと仕事してたよ!ほら!帰ろうとか思ってないよ!」
先手を打つように言い切る緋珠に、澪は一拍置いて、深くため息を吐いた。
「遺憾ながら、総監が一人で真面目に仕事をしているとは思っていません」
緋珠が「ひどっ」と口を尖らせかけた、その先を――澪が切り捨てるように続ける。
「それより」
声の温度が、落ちる。
冗談の入る余地が消えていく。
「黒杖家の分家筋――黒羽家当主、黒羽具廉殿が殺されました。屋敷は全焼です」
一瞬、室内の空気が止まった。
緋珠は固まったまま、引き攣った笑みを浮かべる。
「……ま、じかー」
笑ってるのに笑えていない声。
「こんな時にこれは……もう、確定かなあ……」
澪は頷く。淡々としているのに、言葉は重い。
「はい。あの神社で失踪した黒杖家、分家の女――黒羽哀は、“白き童”と行動を共にし、黒羽家を襲撃したものと思われます」
緋珠は背もたれにぐっと凭れ、天を仰いだ。
喉の奥で笑い損ねた息が漏れる。
「まあ……黒杖家の女の子は皆、家を良く思ってないだろうし。動機は十分、か」
澪が肩を落とし、緋珠も同時に息を吐く。
「「はぁ……」」
ため息が、重なった。
「彼、結構やる部類だと思ってたけど……過大評価だったかな」
緋珠が机の端に頬杖をついたまま、乾いた声で言う。
軽口の形をしているのに、橙の瞳は笑っていない。
澪は即答しない。
書類の束を一枚だけ整え、視線を落としたまま淡々と返す。
「いえ。実際、呪具制作の腕も剣術も……それなりと記憶しておりました」
「それを――」
緋珠の指が机を、とん、と叩く。
遊びの癖のような動きなのに、目だけは鋭くなっていく。
「陸災位保持者が襲撃して、屋敷を全焼させた。……ねえ」
言葉の最後が、笑いに似た息に変わる。
澪は小さく目を伏せた。
「……黒羽哀単独では、まず不可能です」
緋珠は頬杖のまま、視線だけで澪を促す。
澪は続ける。
「白き童――その力でしょう。黒羽哀がその力を利用しているのか、利用されているか。少なくとも、“当主が殺されていた”という点と整合します」
緋珠は、椅子にもたれたまま笑う気配が消え、代わりに、嫌な予感だけが残る。
「……神格反応。消えた木箱の中身。黒羽哀。黒杖家の分家襲撃。……繋がってきたなあ」
澪は答えない。
否定できないからだ。
沈黙。
ホログラムもない部屋なのに、空気だけが青白く冷えたまま、二人の間に張りついていた。
「黒羽家は……全滅?」
澪は首を横に振った。
「いえ。本格的な調査はこれからですが消防の話によれば、確認できた遺体は当主のものだけだったそうです」
緋珠の笑みが消える。
橙色の瞳が細くなり、何かを数えるように沈んだ。
「……息子君は、生き残ったのかな」
言葉は小さい。
けれど、そこに含まれるのは安堵じゃない。
“残った”という事実が、次の火種になる――そう知っている者の声のようだった。
そして、この知らせは陰務省内だけには留まらない。
――――――――――――
ーー黒杖家本邸・主殿。
主殿の空気は、血の匂いが消えきらない。
畳の奥に染みた鉄の気配が、灯りの届かぬ隅でまだ息をしている。
一段高くなった上段の間。
そこに座る男は岩だった。背も、肩も、骨も――人の形をした重石。
その前に、女が額を擦りつけるように頭を下げ、震える声で報告する。
「く、黒羽が襲撃を受け……黒羽具廉殿が死去しました。息子の景吾殿は消息不明です」
沈黙が一拍落ちた。
「黒羽か……」
声は大きくない。
だが腹の底へ響き、畳が鳴った錯覚を起こさせる。
黒杖家現当主、黒杖道玄。
齢六十二。数年前に前線を退いたというが、引いたのは身体だけだ。圧は、まだ“ここ”に居座っている。
「……あの野心家の黒羽が」
道玄は淡々と言い、鼻で息を吐く。
「分家とはいえ、黒杖の血を引く者が。情けないやつだ」
冷たい物言いだった。
死は悼むものではなく、出来損ないの結果として処理される。
道玄は視線も動かさず、次を促すように言った。
「それで?」
「は、はい?」
女は突然振られ、思わず問い返してしまう。
その瞬間、しまったと顔色が変わった。
道玄の口元が、わずかに歪む。
「はあ……これだから女は……」
「も、申し訳ご――」
最後まで言わせなかった。
「殺せ」
言葉が落ちた瞬間、影が動く。
女の身体がびくりと跳ね――次の刹那、頭が畳に落ちる。
どさり、と湿った音。
血は一度だけ畳を濡らし、すぐに広がるのをやめた。まるで最初から“ここで止まれ”と決められていたように。
そして。
道玄の前に、影が傅く。
人の形をしているのに、人の気配がない。
抑揚のない声が、機械の報告のように静かに落ちる。
「襲撃犯は黒羽具廉の娘、黒羽哀と――噂の白き童かと思われます」
道玄は、初めて目を細めた。
「……始末しますか」
「今はいい」
即答だった。
迷いも、怒りもない。興味だけが、底で静かに燃えている。
「監視をつけろ。もう少し――様子を見る」
「は」
影が、頭を垂れる。
「棗様は、どうされますか」
その名が出た瞬間、主殿の空気がわずかに軋む。
「あれは放っておけ」
声の低さが、一段落ちた。
「儂にも……あれは制御できんわ」
影が一拍だけ沈黙し、短く答える。
「……かしこまりました」
言い終わると、影はすっと輪郭を薄めた。
煙に巻かれたように、そこから消える。
残されたのは、道玄と、畳に転がる女の頭と、まだ温い血の匂いだけ。
道玄はゆっくり息を吐き、喉の奥で笑った。
「くっ……くっくっくっ」
低い笑い声が、主殿に響く。
「白き童。新たな素材……それも、極上のものが見つかったかもな」
笑いの中に、期待が混じる。
人を人として見ない目。素材として数える目。
古い血と真新しい血の匂いが混ざり合う主殿で、黒杖の当主は――次の“鍛造”を思い描いていた。
――――――――――――
その頃――白依たちはホテルへ戻っていた。
部屋の空気が、妙に重い。
血の匂いはもうないのに、張り詰めた糸だけが残っている。
「白依様……お願いします」
哀が、床に額を擦り付けていた。
頭を下げている、というより――祈っている。
「……」
白依は答えない。
ベッドの縁に座り、赤い瞳だけで哀を見下ろす。
「どうか、ご慈悲を……」
哀の声は震えているのに、折れない。
息を吸うたびに、祈りの熱だけが濃くなる。
焔羅が、間に入るように尻尾の火を控えめに揺らしながら言った。
「主ー。それくらい許してあげても……」
白依の視線が、すっと焔羅へ向く。
たったそれだけで、焔羅の耳がへたり込んだ。
尻尾の青紫の火も、しゅん、と小さくなる。
「……なんでもないです」
空気がさらに静かになる。
哀が追い打ちのように、もう一度言った。
「お願いします!どうか私に白依様の身を清める許しを!」
白依は深く息を吐いた。
面倒だ、という音がそのまま呼気になって落ちる。
「……はあ」
そして、冷たく問う。
「何が、お前をそこまでさせるんだ」
哀は少し顔を上げる。
その声は、驚くほどまっすぐだった。
「……信仰心、でしょうか」
言いながら、なぜか頬がほんのり赤くなる。
自分で言っておいて。
白依は眉間に皺を寄せる。
「……信仰心で、顔を赤くするな」
「す、すみません……!」
反射で謝って、哀はまた額を床に押し付ける。
焔羅が小声で囁く。
「主、もう哀殿は“そういう生き物”なんです……」
白依は答えず、しばらく哀を見下ろす。
「はあ、早くしろ」
そう言って白依は風呂場へ向かう。
白依が折れた。
「はい……っ。白依様の御心のままに……!」
白依は「やめろ」と言いかけて飲み込み、黙って風呂場へ向かった。
焔羅は哀を見て、ぽつり。
「哀殿、主のギリギリのライン攻めるのうまいね」
「そうですね。まあもしも、愚かにもその一線を超えしまい白依様に処されてもそれはそれで……」
哀は喜色を滲ませた表情で言った。
焔羅は、背筋がぞわっとした。
――――――――――
黒羽の生き残り。
陰務省の手。
黒杖家の監視。
――白依たちの知らぬところで、それらは同じ一点へ向けて伸びていた。
中心は、ただひとつ。
白依。
彼女が目覚めた瞬間から、歯車は噛み合い始めている。
違う目的。違う立場。違う欲。
それでも“集まる理由”だけは一致していた。
捕まえたい者がいる。
奪いたい者がいる。
消したい者がいる。
利用したい者がいる。
守りたいと言いながら、手綱を握りたい者もいる。
黒羽の生き残りは、燃え落ちた屋敷の熱を背に、歯を食いしばって走る。
陰務省は、報告の紙を重ね、地図に赤い点を打ち直す。
黒杖家は、名もない影を放ち、距離を測り、時を待つ。
そしてそのすべてが――
夜のどこかにいる白い影へ、静かに吸い寄せられていく。
誰もまだ彼女の顔を知らない。
誰もまだ彼女の“本当の名”を知らない。
それでも、匂いだけは嗅ぎとれる。
神格の匂い。
器の匂い。
白依の周りへ、糸が張られていく。
目に見えない糸が、闇の底で絡まり合い、やがて一本の網になる。
――それは、偶然じゃない。
そして、白依の隣にいる哀と焔羅は――
その網に引っかかった“証拠”として、一緒に巻き込まれていく。
こうして夜は更けていく。
けれど今も尚、世界のどこかで誰かが“合図”を待っている。




