第17話 他人
白依は目を開け、具廉の手にある刀を観察した。
刃は月光を受けても鈍く、光を返さない。鉄の冷たさではない。粘つくような気配が、刃の縁にまとわりついている。
具廉はその視線を楽しむように、ニヤリと口角を上げた。
「この刀は――私が造った最高傑作だ」
言いながら、ふいと視線をずらす。
風に乗って一枚、枯れた葉が舞い込んできた。
具廉は刃を振らない。
ただ、すっと刃先を差し出し――葉の軌道へ“当てる”。
次の瞬間、葉は消えた。
音もない。
切れたというより、存在が“抜け落ちた”ように、そこだけが空白になる。
しかし、白依には見えていた。
葉が刃に触れた瞬間、抉られたのは葉ではない。
葉の周囲――空間ごと、薄く削り取られている。
切断面すら残らない。
“そこにあった場所”が消えた。
遅れて、地面に小さな破片が落ちる。
葉の両端だけ。ほんの僅かな欠片。
具廉は満足げに頷き、刃をゆっくりと立て直す。
「見ての通り、これはただの刀ではない」
湿った低さが、夜気を撫でた。
「本家の呪具に勝るとも劣らない――」
そして、名を口にする。
「呪刀・刳斬舞」
哀は声も出せず、ただ震えていた。喉が鳴るたび息が途切れ、指先の感覚が薄れていく。
焔羅は哀の前へさらに半歩出て、青紫の焔を小さく跳ねさせながら牙を見せたまま低く唸った。警戒だけが、濃くなる。
――だが。
白依だけは、何も変わらなかった。
赤い瞳は冷えたまま、具廉と刀を同じ温度で見ている。
それが気に食わなかったのだろう。具廉の眉間に、僅かな皺が寄る。
「……なんだ、その反応は」
笑いを作ろうとした口元が、ぴくりと歪んだ。
「ああ。お前のような童には、この刀の力も価値も分からないのか」
嘲る声。
“分からないなら黙れ”という含みを、あえて言葉にしたような響きだった。
白依は、平坦に返した。
「ああ、分からないな……」
そして、淡々と続けた。
「たかが――普通の刀より広い範囲を切る。いや、削るだけの刀に、どれほどの価値がある」
白依の言葉は刃だった。
否定でも評価でもない。ただ“格付け”として落ちた。
具廉の顔が、苦虫を噛み潰したように歪む。
喉の奥で笑い損ねた息が、ぬるく漏れた。
「……その侮辱」
刃を持つ手に、力が入る。
「貴様一人の命では、贖えんぞ」
その瞬間、白依が初めて具廉に反応した。
ほんの僅か、瞳孔が開く。空気が、薄く沈む。
「……贖う、だと?」
声は静かだった。
だが、その静けさの奥に――冷えた怒気が、はっきりと棲んでいた。
ふぅ、と息を吐く。
そして一歩――白依は前へ踏み出した。
「し、白依様……」
弱々しい哀の声が聞こえたがもう遅かった。
それに合わせ、具廉が刳斬舞を振り上げ、踏み込む。
迷いのない太刀筋。袈裟斬り。右肩口から入り、左脇腹を抜ける――“殺すため”の軌道だった。
白依にとって、これは実験でもあった。
神社で槍を手で受けた、あの感覚。
硬さでもなく、痛みでもなく――“通さない”という確かな手応え。
源気。霊力。妖力。呪力。
哀が言った分類は理解した。だが、白依の内側で渦巻くそれが、どれに属するのかは分からない。
白依は指先へ、気を集めた。
名前のないそれを、ただ“指”へ。爪の先へ。
刃が迫る。風が裂ける。
背後で哀と焔羅の声が重なる。
「白依様――!」
「主っ!」
だが白依は、それを無視する。
視線は逸らさない。
――来る。
刃が触れる、その刹那。
ギン。
金属がぶつかるような乾いた音が、夜気を割った。
白依の白い肌を抉り、鮮血を舞わせるはずだった刃が――止まった。
具廉の目が見開かれる。
驚愕が、そのまま声になって漏れた。
「な――!?」
白依は、右の人差し指。
その爪先で――刃を受け止めていた。
刃が噛まない。滑らない。抉れない。
まるで“ここから先は通すな”と世界に線が引かれたように、刀がそこで止められている。
白依は、冷たく言い捨てた。
「爪すら切れん。――なまくらで、何が最高傑作だ」
次の瞬間。
白依の右手が、刃を掴む。
指が刃の腹を握り込み、刀身がきしむ。
そして、左拳。
ためらいのない一撃が、具廉の腹へ叩き込まれた。
「ぐっ……!」
鈍い衝撃音。空気が潰れる。
具廉の手から刳斬舞が離れ、身体が後方へ弾かれる。
――吹き飛んだ。
屋敷の方へ、重い身体が転がり、土煙がどん、と上がる。
白依は掴んだ刀を軽く見下ろし、赤い瞳を細め、それを投げ捨てる。
白依は、ゆっくりと歩いた。
吹き飛ばされた具廉へ向かって。
土煙の向こう。瓦と土にまみれて転がる身体。
具廉は起き上がれず、吐血していた。咳き込むたび、喉の奥から湿った音が漏れる。
白依はその上に影を落とし、見下ろしたまま問う。
「――お前は、神の核を知っているか。……それを使った呪具を」
具廉が、下から白依を睨みつける。
濁った黒い瞳。哀と同じ色なのに、宿っているものが違いすぎた。
「……知るか」
吐き捨てるような一言。
白依の足が、躊躇なく動いた。
脇腹を蹴り上げる。
「――っ」
鈍い衝撃音。具廉の身体が転がり、土に擦れて血が伸びる。
「がはっ……!」
具廉の口から、また赤いものが溢れた。
その様を一瞬も面白がらず、白依は歩を詰める。淡々と、問いを続けた。
「なら、神の核の話は――」
具廉の喉が鳴った。
強がりの形を維持できなくなった声が、息と一緒に漏れる。
「……し、知らん……」
息も絶え絶え。
その姿を見て、白依は小さく舌打ちした。
「……ちっ」
(御三家の血筋とはいえ、分家だから知らされていないだけか。――それとも、隠しているのか)
白依の思考が回る。
ふと、屋敷の物陰へ視線をやった。
そこに潜んでいた“影”が、慌てて引っ込む。
――やはりいる。
最初から気づいていた人の気配。
だが、今この場で具廉が本当に知らないのなら、あれを引きずり出しても“核”の答えには届かない。
無駄だ、と白依は切り捨てた。
そして――
白依の胸の奥に、ひとつの考えが浮かぶ。
殺す。
その言葉が、以前より軽い。
神社での一件から、白依の中で“殺す”という選択肢の扉が、少しだけ開きやすくなっている。
次の瞬間。
「哀!この化け物を止めろ!」
血反吐を吐きながら、具廉が哀へ叫んだ。
声は掠れているのに、命令だけは濁らない。――長年そうしてきた声だ。
哀は、思わず一歩後ずさる。
理解が追いつかない。
言葉が、頭の中で滑って噛み合わない。
(私が……白依様を止める?なぜ?白依様が……化け物? 何を言っているの……)
具廉は咳き込み、口の端から血を垂らしながらも、なお怒鳴った。
「何をしている、役立たず!早くしろ!殺すぞ――ぐっ……!」
言葉の途中で、声が潰れた。
白依が、具廉の首を掴んでいた。
気配もなく、瞬きより速く。
指が喉仏の両側へ食い込み、骨の硬さを確かめるように力が込められる。
具廉の身体が、びくりと跳ねた。
白依は低い声で言う。
「お前――あいつの父親なのだろう」
そのまま、無理やり具廉の身体を起こした。
首を掴んだ手だけで持ち上げられ、呻きが喉の奥で裂け、空気がひゅ、と漏れた。
だが具廉は、醜く叫び散らかした。
「黙れ、化け物!あれは私の物だ!それがどうした!!」
その言葉に、白依の指がさらに締まる。
骨が、きしむ音がした気がした。
具廉の眼が血走り、唾が赤い泡になって口元に溜まる。
白依の声は静かだった。
けれど静かな分だけ、底が冷たい。
「自分の子を“物”と呼び――あまつさえ、殺すだと……」
一拍。
白依の胸の奥で、何かが噛み合う。
(……やはり、あいつらの系譜か。哀の母もそういうことだろうか……)
赤い瞳の瞳孔が、ゆっくり開いた。
その奥の赤が、どろりと黒く濁るように見える。
具廉が喉を掻きむしるように暴れた。
爪が白依の手首に当たっても、傷もつかずビクともしない。
「あ、がっ……やめ……ろ……!」
血を吐きながら、具廉はなおも手足をばたつかせ、血が白依の頬に飛ぶ。
けれどその抵抗は、虫が藻掻く程度の軽さでしかなかった。
ゴキリ。
骨が折れた。
潰れた。――そんな鈍い音が、夜の庭に木霊した。
そして、吐息のような声が聞こえた。
白依が振り返る。
門前で――哀が立っていた。
両手を胸の前で組み、祈るような姿勢。唇はわずかに開き、息を漏らしながら――恍惚の笑みを浮かべている。
あの神社のときと、同じだった。
先程までの震えは止まっていた。
けれど落ち着いたわけじゃない。怖さを克服したわけでもない。
“違うもの”に塗り替えられている。
哀の黒い瞳は――目の前で父が死体になっている光景を見ている目ではなかった。
むしろ、父など最初から視界に入っていないかのように、焦点が白依だけに固定されている。
熱が、そこにある。
恐怖ではない熱。救われたと言い切る目。縋りではなく、確信の目。
白依の胸の奥が、嫌にざらつく。
(白依は、お前の父を殺したのだぞ……)
その横で焔羅が、尻尾の火を小さく揺らしながら一歩退いた。
若干――引いている。
「……哀殿」
焔羅の声は、いつもより低かった。警戒と困惑が混ざっている。
しかし、哀にその声は届いていない。
ただ、吐息のように笑って――祈りの形のまま、白依を見つめ続けていた。
この時――いや。
白依と出会った、その瞬間から。
哀はもう、どこか壊れていたのかもしれない。
思い返せば、すべてが速すぎた。
神社の者たちは哀を踏みにじり、笑い、汚し、息をする理由さえ奪っていった。
そして今、目の前にいる白依は――それらを、当たり前のように“処した”。
元凶だった父。
恐ろしくて、声を聞くだけで身体が凍りつくほどだった父すら。
この世から消し去った。
救いだ。
救い以外の何だというのか。
――神の救いと呼ばずに、何と呼ぶ。
哀の胸の奥で、痛みがじわりとほどけていく。
長年こびりついていた恐怖の芯が、白依の指先一つで砕け散ったように。
(ああ、白依様)
息が漏れた。声にならない祈りだけが、喉の奥で震える。
(貴方様は、なんと尊く――)
言葉が追いつかない。
“清い”では足りない。
“正しい”では足りない。
それでも、哀の中で一番近い音が、その二つだった。
(なんと、清く……なんと、正しいのでしょうか……)
月光が、白依の白い髪を撫でる。
血の匂いも、夜の冷たさも――哀の視界からは剥がれ落ちる。
見えているのはただ一つ。
月に照らされた純白。
穢れではない。化け物でもない。
哀の世界を終わらせ、同時に始めた“神”だけ。
哀の瞳に映るのは――
この世のすべてを裁いてもなお、微塵も揺れない、純白の神だった。
その熱を孕んだ瞳は、白依ですら一瞬だけ気圧されそうになるほどだった。
赤い瞳が僅かに細まる。
殺意でも、警戒でもない。――ただ、理解できないものを測る目。
哀は、組んでいた手をゆっくり解いた。
指先が震えているのを隠すように、手のひらを一度だけ擦り合わせる。
そして――いつも通りの顔を作る。
口角を柔らかく上げる。
呼吸を整える。
背筋を伸ばし、頭をほんの少しだけ下げる。
「……白依様」
声も、丁寧だった。
いつもと同じ、奉仕の形。従者の形。
でも。
その瞳だけが、違った。
以前の哀の目は、恐怖と諦めで濁っていた。
“許し”を求める目で、いくらでも折れる目で、いくらでも謝る目だった。
今の瞳は――熱が芯になっている。
白依を見上げるその黒い瞳は、逃げない。
縋りながらも、沈まない。
一度燃えたものを、二度と消すつもりがない色をしていた。
哀は微笑む。
その微笑みは、変わらない。いつも通りに見える。
けれど、その奥には――
崩れた世界の瓦礫の上で、ただ一つ拾い上げた“信仰”が、静かに据わっていた。
「ここは……離れた方が、よろしいかと」
哀はそう言いながら、地に転がった呪刀――刳斬舞を拾い上げた。
刃先に宿る不快な気配を、まるで“危険物”ではなく“道具”として扱う手つき、指は震えていない。
鞘も回収し、脇に抱える。
そして白依へ歩く。
血と焦げと湿った土の匂いの中、足音だけがやけに静かだった。
白依の傍まで来ると、哀はポケットから白いハンカチを取り出す。
折り目の残った清潔な布。
「失礼します」
許可を乞うでもなく、当然のように。
けれど乱暴ではない。硝子細工に触れるように、優しい手つきで――白依の頬に付いた血を拭った。
白依の赤い瞳が、哀を捉える。
拒むなら今だ、と身体が言う。けれど、動かない。
哀の狂気的とも言えるその眼が、これで殺されるのならそれもまた良しとするような。
血が布へ移り、白が赤に染まる。
哀は汚れたハンカチを、躊躇なく――父だったものへ投げ捨てた。
布が肉の上に落ちる音は、軽い。あまりにも軽い。
哀は視線を一度もそこへ落とさない。
そこに“父”はもういないかのように。
「……さあ」
哀の声はいつも通り丁寧だった。
けれど、その丁寧さの奥から、何かが消えていた。
恐れ。ためらい。
「ホテルへ戻り、身を清めましょう」
命令ではない。提案の形。
なのに逆らう隙を与えない音だった。
焔羅は小さく喉を鳴らし、引いているのか、感心しているのか、自分でも判別できない顔をしている。
白依は、哀の手元――鞘に収まった刳斬舞を一度だけ見た。
次に、哀の瞳を見る。
黒い瞳は澄んでいる。熱がある。
そして、もう戻らない色をしていた。
白依は短く息を吐く。
「……ああ」
それだけ言って踵を返す。
哀は半歩遅れてついてくる。以前みたいに、怯えて距離を測る歩幅ではない。
「あれは、お前のなんだ」
白依は歩みを止めずに言った。
視線は前へ向けたまま――けれど問いは、確かに未だ“物陰”に隠れている者を指していた。
哀は一瞬だけ、呼吸が止まる。
ほんの僅かな間。言葉を探すというより、返答の形を選ぶ間だった。
「……他人です」
短く、切るように言い切った。
そこに情も嫌悪も乗せない。説明もしない。関係を断つ言葉だけ。
白依は、それ以上掘らない。
「そうか」
返事は淡い。
だが、その淡さが――“了解”の代わりになる。
血と闇を背に、三人は“帰る”ために歩き出した。




