第15話 使い道
白依たちはホテルへ戻った。
部屋に入るなり、焔羅は紙袋を漁って、からあげを頬張った。口いっぱいのまま、勢いよく聞いてくる。
「そういえば主! 力は得られたのですか!」
白依は、掌を握り締める。
指先に、皮膚の下に――噛み砕いたものの“残り”が、まだ熱として残っていた。胸の奥で、何かが静かに満ちている。
「ああ」
短く返す。
その一言を待っていたように、哀が恐る恐る口を開いた。
「白依様……その力は、どういうものなんですか?」
「どういう意味だ」
白依の声は淡々としている。
ただ、問うだけの声なのに、哀はびくりと肩を震わせた。すぐに言葉を探し、視線を泳がせる。
「あ、えっと……霊力とか、妖力とか、呪力とか……力にも種類があるじゃないですか」
焔羅が口の端にからあげの油をつけたまま、誇らしげに胸を張る。
「我は妖力!」
「知らん」
白依の一刀両断だった。
焔羅の尻尾の火が、しゅん、と小さくなる。
哀も言葉を詰まらせ、口を開けたまま固まった。
白依は少しだけ目を伏せ、事実だけを落とす。
「白依は、じじいから“気”と習った」
「……そ、そうですか」
哀は小さく頷いた。
納得したというより、覚えるしかない、という顔だった。
焔羅は納得いかないように頬を膨らませ、からあげをもぐもぐと噛みながらぼそりと言う。
「……主、雑すぎません?」
白依は答えず、もう一度、掌を握った。
内側で静かに増えた力は、名前より先に――確かな“重さ”としてそこにあった。
白依は、自分の考えをまとめるためにも、一度言葉にして説明することにした。
「多分、白依には……霊力とか妖力とか、そういう固定の力はない」
哀と焔羅が、同時に首を傾げる。
顔に「?」が浮かぶのが見えた。
白依はそれを気にせず続ける。
「白依の体質だが――」
視線を焔羅へ落とし、短く命じた。
「焔羅。中へ入れ」
「え、えっ。い、いまですか?」
焔羅は戸惑いながらも、白依の言葉に逆らわない。
ふわり、と影のように形がほどけ、するりと白依の中へ沈んだ。
その直後。
哀は、息を呑んだ。
白依の爪が――伸びた。
人間のものではない。
華奢な白い指先から獣の鉤爪のように生え、鋭く、黒く、硬質な艶を帯びていく。
そして、指先から腕へ――焔羅と同じ青紫の焔が、薄く纏わりついた。
室内の空気が、一瞬だけ張り詰める。
白依の中から、焔羅の驚愕の声が響いた。
(な、なにこれ!?主――!)
白依は淡々と告げる。
「じじいが言うには、白依は“依代体質”らしい」
言いながら、白依は爪を引っ込める。
同時に、焔も静かに消えた。
「……もういいぞ」
その声に反応して、焔羅が白依から飛び出す。
勢いよく床に着地し、尻尾の火をぱちぱち弾かせながら叫んだ。
「主!そんなことできたんですか!」
白依は答えず、ただ焔羅を一瞥しただけだった。
――そのとき。
哀が、ひとつの可能性に辿り着く。
声は震えていない。観察の目になっていた。
「……なら。あの老婆霊の怪異も、使えるのでしょうか?」
白依は首を横に振る。
「使えない」
即答だった。
「そもそも、封印が解けてからの変化で詳しくは知らないが……霊や妖の“力”は、その根本――核に宿っている」
白依は胸の奥へ指を差し入れるような仕草をして、言葉を続ける。
「だが白依が力を得るには、取り込み……その核を砕く必要がある」
哀の背筋が、ぞくりと冷える。
白依の声は淡々としていた。説明しているだけの声だ。
だからこそ、そこに嘘がないと分かる。
「だから、その能力は核と共に失われる」
白依は、まるで当たり前の理屈を述べるように言う。
「残るのは……純粋な源気だけだ。白依に渡るのは、それだけ」
焔羅が「ほへー」と間の抜けた声を漏らす。
難しい話は半分も理解していない顔だった。
だが哀は違った。
それがどれだけ恐ろしいことか、理解してしまった。
能力を奪えないにしろ。
取り込んでしまえば――それ即ち、白依の勝利が確定する。
相手は器の内側へ落ち、逃げ場を失い、抵抗も、術も、牙も――“振るう”ことができなくなる。
そして白依は、源気を得る。
核が砕かれれば存在は消え、残るのは力ではなく“燃料”だけだ。
名も、意志も、在り方も――粉々になって、二度と戻らない。
哀の胸の奥が、冷たく締まる。
(これがもし――人間に向けられたら)
想像した瞬間、背中が粟立った。
喉がひゅ、と鳴って、呼吸が浅くなる。
白依の言う「砕く」は、霊や妖に限った話ではなかった。
白依が、器が受け入れられるなら、理屈は同じだ。
人間もまた、源気を持つ。
核があり、命があり、意志がある。
それらが“砕かれる”なら――残るのは、ただの空だ。
哀の頬に、汗が伝った。
冷たい汗だった。
怖さで滲むのに、どこか熱を帯びている。
哀は白依を見上げようとして、できなかった。
視線を上げれば、赤い瞳に吸い込まれてしまう気がしたから。
室内は静寂に包まれた。
次の瞬間。
リンリンリンリン――。
哀のスマホが鳴った。
反射で手が伸び、画面を確認する。
知らない番号。
心臓が跳ねる。
「え……」
(誰――)
一瞬で、幾つもの光景が頭をよぎった。
実家。神社。死体。金庫。消えた車。
――全部、繋がってしまう気がする。
間違い電話かもしれない。
営業かもしれない。
そう分かっているのに、人間は後ろめたいことがあると、呼吸が勝手に乱れ、動揺してしまう生き物だ。
哀は震える指で、着信を切ろうとした。
その時だった。
画面にまだ触れていないのに――勝手に、通話が繋がる。
スピーカーから、湿った低い声が流れた。
「……哀か?」
その一声で、哀の身体が凍った。
過去の記憶が強制的に呼び起こされ、背骨の内側を、冷たい針が走る。
肺が縮み、息が吸えない。汗が一気に噴き出し、指先から温度がなくなる。
(うそ……なんで……なんで、この人が……)
切りたい。
切らなきゃ。
なのに指が言うことを聞かない。
「……す、すみ――」
言いかけた瞬間。
バキッ。
乾いた破砕音。
「あ、主?」
焔羅の間の抜けた声が、遅れて耳に届く。
白依が、哀の手からスマホを奪っていた。
そしてそのまま――握り潰した。
黒い板は、指の間で歪み、ひび割れ、砕けた。
画面の光が一度だけ瞬いて、ぷつりと消える。
通話も、そこで終わった。
哀は息も絶え絶えに、白依の手の中の破壊されたスマホだったものを見る。
「し、白依様……一体、なにを……」
白依は答えない。
砕けた残骸を床へ落とし、哀を見下ろした。
赤い瞳が、冷たく哀を捉える。
そこに映っているのは――弱く震え、恐れで染まった哀。
白依の胸の奥で、理由のない苛立ちが跳ねた。
虫唾が走る、というのとは違う。
もっと――腹の底がざらつく感じ。
白依の声が落ちる。怒気を孕んだ、低い声。
「今の、なんだ」
哀は反射で頭を下げようとした。
謝らなきゃ。怒らせてしまった。全部、自分が悪い。
その動きを――白依が止めた。
「やめろ」
短い命令。
それだけで、哀の身体がぴたりと固まる。
「謝るな」
「……え……」
哀は顔を上げかけて、途中で止まる。
理解が追いつかない。
白依はもう一度、同じ問いを突き刺す。
「今のは、なんだったんだ」
その声に引かれるように、哀はようやく白依の目を見た。
赤い瞳。
冷えているのに、どこか熱がある。
――不思議と、気持ちが落ち着いた。
先程までの過呼吸が、収まる。喉の奥がまだ痛いのに、言葉だけは出た。
「今のは……」
息を吸って、吐く。
「……私の父です」
哀の反応を見るに――父を、相当恐れている。
風呂場で見た、哀の痣と傷跡が脳裏をよぎる。
(……なるほど)
白依は、そこでようやく腑に落ちた。
腑に落ちたのに、理解はできない。
白依にとって“父”とは、命を賭して守ってくれた人だ。
雪の夜に、震える手で握ってくれた人だ。
だから、今目の前で哀が見せた震えは――白依の中のどこかを不快に撫でた。
(……さっきの苛立ちは、なんだった)
理由のないざらつき。
胸の奥で跳ねた黒いもの。
白依は、それを無理やり頭から追い出した。
今は考える必要がない。考えたら、余計な熱を呼ぶ。
哀が、息を詰まらせたまま言う。
「白依様……申し訳ありません」
まただ、と白依は思う。
謝罪が癖になっている。
それでも、哀の次の言葉は切実だった。
「今すぐにでも、ここを離れた方がいいかもしれません」
白依は眉を寄せる。
「なぜだ」
哀は唾を飲み込む音が、はっきり聞こえるほどだった。
それから、声を絞り出す。
「……きっと、神社での件で――姿を消した私に用があるのだと思います」
指先が震え、膝の上で拳が固くなる。
「車も……神社の物ですし」
哀は一度だけ目を伏せる。
自分で“罪状”を読み上げているみたいに。
「今ので……位置も掴まれたかと……」
その言葉の終わりが、かすれて消えそうだった。
白依は黙って哀を見下ろす。
――位置を掴まれた、というのは恐らく正しい。
“父”がただの一般人なら、知らない番号でここまで的確に来る理由は薄い。
この女がここまで怯える理由も、薄い。
焔羅が、白依の足元で尻尾の火を小さく揺らした。
離れる――それは、逃げること。
逃げるのは、悪い選択肢ではない。
けれど、逃げる相手が“かつての陰陽師の子孫”だと思うと、胸の奥がざらついた。
「……忌々しい」
思わず、口に出た。
その声を聞いた瞬間、哀がびくりと跳ねて、反射的に小さく丸まるように土下座した。
「申し訳ありません……申し訳ありません……」
「……はあ」
白依は目を伏せ、息を吐く。
「お前に言ったんじゃない」
淡々と言い捨てても、哀の肩は震えたままだ。
見ている方が疲れる。胸の奥が、また嫌にざわつく。
白依は、低く問う。
「お前の家はどこだ」
「え、えっと……」
哀の声が引っかかる。
白依は詰めるように続けた。
「ここから近いのか」
哀は喉を鳴らし、震える息で答える。
「……香坂トンネルの、さらにその先、兵庫と岡山の県境……です」
白依は少しだけ考えた。
逃げるだけなら、真逆の方向へ行けばいい。
だが、逃げ続ければ追われる。追われ続ければ、目的の邪魔にもなる。
それに――。
白依は結論を落とす。
「……里帰りとやらをするか」
焔羅の尻尾の火が、ぱち、と弾けた。
なぜか嬉しそうに尻尾を振っている。
「おお!主、殴り込みってやつ!?」
白依は焔羅を視線だけで黙らせ、哀へ向き直る。
哀は、理解できない顔をしていた。
恐怖と困惑で、瞳が揺れている。
「……白依様、それは……」
白依は遮る。
「立て。白依を早く連れてけ」
――――――――――――
兵庫県と岡山県の県境。
その山の麓に、和風の屋敷があった。
塀は高く、門は重い。
庭は手入れされすぎていて、夜の匂いすら“管理”されているように見える。
縁側を、どたどた、と荒い足音が走った。
床が軋み、障子が小さく震える。
がらっ。
戸が勢いよく開かれ、空気が一気に流れ込む。
「父様!あの落ちこぼれが見つかったのですね!」
声の主は若い男だった。
焦りと興奮が混じった声。
熱だけで頭まで回っていない――そんな音だった。
奥の間には、ひとり。
闇を背負うように座り、手元の茶を揺らしもしない。
黒い着物が、蝋燭の灯りを吸って沈んでいる。
「ああ」
返事は短い。
だが、その一音で、部屋の温度が変わる。
「なら、俺が向かいます!」
男が一歩踏み出す。
武功を立てる気満々の顔だ。
“父に認められる”という餌に、喉が鳴っている。
「いや」
低い声が落ちた瞬間、男の足が止まる。
「その必要は無い」
父は、微笑んでいた。
優しい笑みではない。
刃を鞘に収めたまま撫でるような――冷たい笑み。
「もしかすると、手土産を持って帰ってくるかもしれん」
男の目が見開かれる。
「手土産……?」
父は、茶碗の縁を指でなぞる。
「そうだ」
笑みが、ほんの僅かに深くなる。
「それは――黒杖での地位を上げるほどの土産を、な」
“土産”という言葉が、ぞっとするほど軽い。
人を、物のように扱う口ぶり。
無事に戻るかかどうかではない。
何を持って戻るかだけが、価値。
男は息を呑んだ。
反射で拳を握りしめる。爪が掌に食い込む。
「……父様、それは……」
「黙れ」
父は目も向けずに言った。
「お前は何もするな。じっとしていろ」
その一言で、男の背中から熱が抜ける。
肩が落ち、悔しさが唇を噛ませる。
父は続けた。
声音は変わらない。愉しげですらある。
「落ちこぼれは、落ちこぼれなりに使い道はあるものだ」
茶碗が、かちり、と小さく鳴った。
その音がやけに大きく響く。
「……戻ってくる。戻ってこない。どちらでも構わん」
言い切ると、父はふっと息を吐く。
「だが――」
最後の言葉だけが、少しだけ甘い。
「“帰ってくる”なら、せめて何かを持って帰ってきてもらわなければな」
男は、喉の奥で唾を飲んだ。
外では風が鳴る。
庭の木が揺れる。
けれど部屋の中だけが、妙に静かだった。
まるで、帰ってくる“土産”を待つために――最初から静けさが用意されているように。
父は茶を飲み干し、茶碗を置く。
かちり、と乾いた音。
その音は、合図のようにも聞こえた。
誰も口にしない。
誰も動かない。
ただ、闇だけが濃くなっていく。
夜は、まだまだこれから更けていく。




