第四十七話
覚悟はしていた。
あの男と一孝が一緒にいる所を目撃した瞬間、千絵は既に一つの結論を得ていた。
だが、すぐにそれを受け入れることは出来なかった。何かの間違いであって欲しい。そう思いながら一孝の部屋を探った。しかし、出て来たのは千絵の予想を裏切るものではなかった。
一孝の部屋にあった一冊のファイル。その中には死神との契約書、そして、百合の手術代が記された明細が入っていた。
この二つが何を意味しているのか。そんなことは考えなくてもすぐ分かる。千絵は全身から力が抜けていくのを感じた。
それからしばらくして家の外から車の音が聞こえて来た。それは一孝の車の音だった。早く部屋から出なくては。そう思いながらも、千絵は体を動かすことが出来ずにいた。
家の扉が開く音が聞こえ、ゆっくりと足音が近づいて来た。そして、部屋の中に一孝が入って来た。
一孝は千絵の前にあるファイルを見ると、苦しげに表情を歪めた。その顔を見て、千絵は涙腺から涙が出てくるのを感じた。もはや疑う余地はない。涙が零れそうになるのを必死に抑えながら、千絵は一孝に尋ねた。
「どうして、こんなことしたの?」
「それは……」そう言い掛けて、一孝は開きかけた口をすぐに噤んだ。
「百合のため?」
「え?」
「この明細。ここに書かれている金額って、百合の手術に掛かった費用なんでしょ?」
「……ああ」
「やっぱり……」千絵は小さな声で呟く。「じゃあ、医療データを提供する代わりに、百合の手術代が免除されるって話は? あれは、嘘だったの?」
「すまない」
「そう。……なら、ここに死神との契約書があるのは、つまり、そういうこと?」
その問いに対し、一孝は、「そうだ」と観念した様に答えた。
千絵も一孝も直截、口には出さなかったが、この部屋で初めに目が合ったときからお互い同じ認識を得ていた。百合の手術代を支払うため、一孝は死神に命を売っていた。
だが、もう一つ、どうしても確認しておかなければならないことがあった。それを聞くべきかどうか。千絵は悩んでいた。聞けば何かが終わってしまう。そんな予感があった。
一孝は百合の手術の日、仕事を理由にその場に居合わせなかった。あの時、もし、一孝がいてくれたなら、千絵はあんなに苦しい思いをしなくて済んだかもしれない。それどころか千絵が死神になることもなかったかもしれない。
そんなあり得ない未来に思いを馳せる度、千絵の中で一孝への憎しみが膨らんでいった。あの時、一孝が一緒にいてくれさえすれば、こんなことにはならなかったはずなのに。その憎しみは次第に方向性を失い、ことあるごとに一孝に怒りを向けるようになっていった。
あの人のせいで。
全部あの人が悪い。
何もかもあの人が。
それが理不尽な怒りであることは自分でも分かっていた。あまりにも矮小で醜い。そんな感情を千絵はどうすることも出来ずにいた。今や千絵の怒りの感情はほぼ一孝に直結するようになっていた。
だが、もし、あの日、一孝があの場所にいなかったことに仕事以外の理由があったのなら。
その可能性は十分に考えられた。そもそも、娘の一大事に一孝が仕事を優先するなど本来なら考えられないことだった。一孝がなぜあれほどまで必死になって働いていたのか。それくらい千絵も本当は気付いていた。
一孝は十華が死んだのは自分のせいだと思っている。そして、その償えない責任を果たすため、彼は必死に働き千絵たちを守ろうとしていた。
そんなこと、ずっと前から知っていた。知っていながら千絵はそれに気付かないふりをしていた。千絵にとって一孝は家族よりも仕事を優先する冷徹な人間でなければならなかった。
しかし、もう分かってしまった。一孝はそんな人間ではない。彼は百合の命を救うため自らの命さえ死神に売り渡していた。それが正しいかどうかなど、どうでもいい。ただ、分かっているのは、自分の父親は昔と何も変わっていなかったということだ。
それに気付いてしまった以上、千絵には真実を確かめるよりほかに道はなかった。
「ねえ、一つ、聞いてもいい?」沈黙を破って、千絵が言った。
「何だ?」
「あの手術の日、どうして一緒にいてくれなかったの?」
「そういう契約だったんだ。命を売るのとは別に、私は百合の手術に立ち会わないという契約をしていた。その代わりに百合の手術を執刀できる医師を用意してもらうことになっていた」
「それって、こっちからお願いしたの?」
「いいや。向こうからだ」
「そっか」
千絵は得心した様にそう答えると、立ち上がり、部屋の外へと向かった。
そのまま部屋を出て行こうとする千絵を一孝が呼び止める。
「千絵。すまなかった」
「何が?」
「今回のこともそうだが、今までのことも。十華が死んでから、ずっとお前をほったらかしにしてしまっていた」
「仕方ないよ。仕事だったんだし。それに、私たちのためだったんでしょ?」
「え?」
「分かってたはずだったのに……」千絵は扉の前で俯くと、小さな声で言う。「ごめんなさい。お父さん」
扉を開けた千絵は足早に自分の部屋に向かった。
今はこれ以上、面と向かって一孝と話す勇気がなかった。
誤解がすべて解けたわけではない。
わだかまりもまだ残っている。
それでも今まで千絵を苛んでいた一孝への憎しみだけは綺麗に消えていた。
代わりに、新しい後悔が生まれてしまった。
自室に戻った千絵はベッドに入ると、布団を頭まで被った。今はとにかく早く眠ってしまいたかった。そうしないと、自分に対する怒りと羞恥で狂ってしまいそうだった。
※
翌日。
千絵はいつも契約で使う寂れた公園まで足を運んでいた。
そこにはすでに那由多の姿があった。
まるで今日、千絵がここにやって来ることをあらかじめ分かっていたように。いや、那由多はきっと分かっていたはずだ。そうでなければ、彼があんなに迂闊な真似をするはずがない。
千絵は那由多の前まで進むと、いきなり彼の頬を張った。これには流石の那由多も目が点になっていた。
「これは手厳しい。まあ、仕方のないことだとは思いますが」
「どういうことですか?」千絵は那由多の軽口を無視して尋ねた。「なぜ、父と契約を……」
「順序が逆ですね。あなたのお父様の命を買い取ったから、あなたに死神になって頂いたのです」
「言っている意味が分かりません」
「そうですか? あなたなら、今の説明で十分理解できたと思いますが」
「理解できても、納得できません」
「それはいくら言葉を弄しても同じだと思いますが。まあ、いいでしょう。一から説明致しましょう」那由多は肩を竦めると、滔々と話し始めた。「まず、私とあなたのお父様との間で契約がありました。その目的は娘さん、つまり、あなたの妹さんの命を救うため。しかし、いくらお金があってもそれだけではどうにもならない。私はオプションとして、妹さんの手術を執刀出来る医師を用意すると提案しました。その代わりにあなたのお父様には手術に立ち会わないよう条件を出しました。なぜか分かりますか?」
「いえ」
「あなたと交渉するためです。あの契約の目的は妹さんの命を救うことにありました。ですが、手術の成功率はそれほど高くない。そのため最悪の場合に備え、保険を用意することにしたのです」
「それが私だったと?」
「はい。もし、手術が失敗に終わった場合、あなたと交渉する予定でした。あなたに死神になってもらう代わりに、妹さんの命を助けるという交渉をね。その時、もし一孝氏があの場に居たら、きっとそれを阻止しようとしたでしょう。それでは妹さんは救えない。だから、彼にはあの場を外してもらったわけです」
「でも、もし、私がそれを断ったら?」
「あなたは断りませんよ」那由多は確信に満ちた顔で言う。
「でも、それなら、父とまで契約をする必要はなかったはずです。私が死神になれば、それで百合の命は助かったはずでしょう?」
「いいえ。残念ながらそう上手くはいきません。我々が扱っているのはあくまで命だけですから。病気の治療は専門外です。病気が完治しないまま、命を繋ぎ止めてもそれは生き地獄でしかないでしょう? それでは、妹さんを救ったことにはなりません」
「百合のためと言いたいんですか?」
「ええ」
「それは随分と……、律儀なんですね。吃驚しました」
「もちろんですよ。常に顧客の立場に立つことが商売の基本ですから」
「そうですか」
「ご納得頂けましたか?」
「いいえ、全然」千絵ははっきりとそう答える。
「でしょうね」那由多はおかしそうに笑った。「それで、あなたはこれからどうするおつもりですか?」
「それは……」
「もう、辞めにしますか?」
「辞めませんよ。辞められるわけ、ないです」
「そうですか。では、これからもよろしくお願いします」那由多はそう言うと、千絵に手を差し出す。
その手を無視して、千絵は踵を返した。
今の会話の中に一体どれだけの真実が含まれていたのだろう。千絵は歩きながら考える。那由多の吐き出す言葉はいつだって、嘘と欺瞞で満ちている。
少なくとも千絵には、そんな那由多の口から出た言葉をすんなりと信じることは出来なかった。
百合を助けるため。そのために那由多は一孝と契約を交わし、千絵を死神にしたと言った。しかし、彼は以前、こうも言っていた。
『あなたを選んだ私の目に狂いはなかった』
ならば、那由多は最初から千絵を死神にするつもりだったのではないのか。そのために一孝は命を売ることになったのではないか。そう考えると、まるで彼の掌で踊らされているような気分になった。
死神になったこと。それ自体に後悔はないつもりだ。仮にそれが那由多によって謀れたものであったとしてもその答えは変わらないだろう。
それでも人の命を弄ぶようなこの男に対して、何か言ってやらないと気が済まなかった。
千絵は足を止めると、那由多の方を振り返る。
「那由多さん。あなたにとって命って何ですか?」
精一杯の皮肉を込めて言ったつもりだった。
だが、その問いに那由多は、「愚問ですね」と退屈そうな顔を浮かべて答える。
「人は交換さえ可能なら、どんなものにも商品として値段を付けることが出来ます。それは命だって例外ではありません。そして、私にとって命とはお客様からお預かりしている商品。それ以上でもそれ以下でもありません」
予想通りのくだらない答えだ。
この男は徹頭徹尾、死神なのだと再認識する。
「聞いた私が莫迦でした」
千絵は忌々しげにそう言うと、公園を後にした。




