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第四十六話

 幸福な時間を思い出す時、そこには必ず十華の笑顔があった。

 医者を送った帰り道、その途中にある交差点で、一孝の運転する車は信号待ちの渋滞に捕まっていた。右折ランプの無いその交差点ではこのような渋滞が度々発生する。いつもならそれを避けて別の道を使うのだが、今日はそのことを完全に失念していた。だが、気持ちを落ち着かせるにはちょうどいい。一孝は懐から煙草を取り出すと、それに火をつけようとライターを翳した。すると、

『煙草吸ったら離婚しますから』

 不意に亡き妻が言った本気とも冗談とも取れない脅し文句が頭の中で響いた。潔癖症の十華は煙草を毛嫌いしていた。そんな所は千絵とよく似ている。千絵も一孝のスーツについた煙草の臭いを嗅ぐと露骨に嫌そうな顔を見せる。

 一孝は咥えていた煙草を箱に戻すと、それを箱ごと握り潰した。十華が亡くなってから吸い始めた煙草だったが、いい機会かもしれない。このあたりで止めておかないと、いつか自分が死んだとき、煙草の匂いをあの世まで持って行きかねない。そうしたら、あの世で妻に三行半を突き付けられることになるだろう。それだけは御免こうむる。

 前の車が動き始めると、一孝は徐々にアクセルを踏み込んだ。開いた窓から入って来る風が心地良く、おかげで気分が大分楽になった。

 目の前で千絵が倒れた時は生きた心地がしなかった。十華に続いて百合、そして千絵までも。なぜ、自分の家族ばかりがと運命を呪いたくなった。幸い、千絵が倒れたのは心因性のストレスからくるもので、しばらく安静にしていれば大丈夫だろうと医者は言っていた。しかし、あの年頃の女の子がストレスで倒れるなど余程のことだ。医者も心当たりはないかと聞いて来たが、一孝はその問いに答えることは出来なかった。おそらく千絵の心労の原因となっているのは自分だ。一孝はそう考えていた。

 十華が亡くなった後、仕事に忙殺される日々が続き、気が付けば千絵との親娘関係は修復不能になっていた。今ではまとも目を合わすことも口をきくこともほとんどない。百合が間に立ってどうにか場を治めてくれてはいるが、それもあまり効果は見られない。

 今年は百合が高校に進学し、来年には千絵が高校を卒業する。その時は千絵を解放してやるべきなのかもしれない。自分と同じ家に居たら千絵はずっと苦しみ続けることになる。それでは何のために今まで必死でやって来たのか分からなくなってしまう。ハンドルを握る手に力が入るのを感じながら、一孝は昔のことを思い出す。

 十華の患っていた病は非常に特殊なものでそれを完治させるには莫大な費用が掛かった。

そうでなくても治療を続けるために高額な医療費が掛かる。耕治はその費用を賄うため仕事を変え、がむしゃらになって働いた。そのせいで十華の見舞いに行く機会も減ってしまった。

 なぜ、あのとき、十華の傍に居ることを選ばなかったのか。仕事を変え、少しばかり稼ぎが増えたところで、焼け石に水でしかないことは分かっていたはずなのに。今思えば、それは単なる現実逃避でしかなかった。仕事に逃げ、彼女の死から目を背けていた。

 若かった。いや、弱かった。それでも当時の一孝にはまだ守らなければならないものがあった。千絵と百合。この二人の娘だけは何があっても守らなければ。十華の死後、一孝は死に物狂いで働き続けた。同じ過ちを繰り返さないようにするためには金が要る。

 一孝は昔から人付き合いが下手で、何か手に職をと思って選んだのが自動車の整備工だった。だが、もうそんなことを言っていられない。もし娘たちに何かあった時、金がなければどうすることも出来ない。そのためならどんな仕事であろうと、出来ることは何だってやった。どれだけ残業続きになろうとも、稼いだ分だけ強くなれる気がした。

 それが幻想であったと気付いたのは、百合が十華と同じ病に罹ったことを知った時だった。十華が亡くなった時に比べ、一孝の稼ぎも増えてはいたが、それでも百合の病を治すために要する莫大な費用を賄うには遠く及ばなかった。

 結局、何も変わっていない。

 そんな自身の無力さに一孝が打ちひしがれていた時だった。

 あの死神の足音が聞こえて来たのは。



 百合が入院してからというもの一孝は仕事に身が入らずにいた。こういう時こそ自分がしっかりとしなければならないというに情けない話だった。

 その日、一孝は商品の説明を聞きたいという顧客の相手をしていた。相手は痩身の男性で熱心に一孝の説明を聞いていた。だが、一孝の方はどうしても説明に集中が出来ずにいた。百合の病気を治すため、何か打つ手はないのか。そんなことばかりが頭の中を駆け巡っていた。

『何か、ご不明な点はございませんか?』一通りの説明が終ると、一孝は相手にそう質問した。

 すると、相手の男性は柔和な笑みを浮かべて、『心、ここにあらず、という感じでしたね』と言った。

『何か心配事でも?』

『あ、いえ……。申し訳ありません』すっかり見透かされていたことに恐縮し、一孝は頭を下げた。

 だが、相手の男性は一孝を責めることはなく、『いいえ』と首を横に振った。

『もし、良かったら。その心配事、私に話して頂けませんか?』

『え?』

『私ならあなたの力になれるかもしれません』

『そんな……。心配事なんてありませんよ。すみません、余計な心配をお掛けしてしまったみたいで』

『いいえ。あなたには心配事があるはずです。それもとても重大な』男性は確信に満ちた口調で言った。『そうですね、例えば……、家族に関わることとか』

『そんなことは……』

『図星、ですね?』

 一孝は軽く息を吐き出すと、肩を竦ませた。

『なぜ、分かったんですか?』

『職業柄、あなたの様な方をたくさん見て来ていますので。経験則、というのでしょうか。何となく、相手の悩みが分かったりするんです』

『それはすごいですね』一孝は素直に驚く。『失礼ですが、お客様はどのようなお仕事を?』

『そうですね、一言で言えばブローカーでしょうか』

『ブローカー?』

『ええ。まあ、扱っているものは少々特殊なんですが』

『へえ、どうのようなものを扱っているんですか?』

 一孝が何気なく尋ねると、相手の男性は微かに目を細めて答えた。

『命です――』

『……あの、すみません。今、何て仰いました? 命って聞こえましたが?』

『はい。たしかにそう申し上げました』

『まさか。命のブローカーなんて。それじゃあ、まるで……』

それ以上を言葉にするのを一孝が躊躇っていると、相手の男性その先を口にする。

『死神のようですか?』

『ええ。でも、そんなはずありませんよね。すみません、おかしなことを言って』

『いいえ、お気になさらず。……事実ですから』

『え?』

一孝が阿呆面を晒したまま固まっていると、相手の男性は愉快そうに笑った。そして、身を乗り出すと、一孝の耳元で小さく囁いた。

『天音一孝さん。あなた、娘さんの命を助けたくはありませんか?』



 自らを死神と言ったその男の名は那由多と言った。彼は一孝の命の一部と引換えに百合の手術代を賄える金額と、必要であればその手術を執刀できる医師を用意すると言って来た。

 その申し出は一孝にとって天の救いのように感じられた。自分の命を少しだけ差し出すだけで、百合の命を救うことが出来る。ならばたとえ相手が死神であっても迷う必要など何処にもない。一孝は死神との契約に応じることにした。

 それから程無くして那由多は本当に百合の手術を執刀できる医師を探し出して来てくれた。一孝は百合に死神のことは伏せて、手術を受けられるようになったことを伝えた。それを聞いた百合は手術を受けることを決め、あとはその日を待つだけになった。

 ただ、那由多は一孝との契約にあたり、一つだけ条件を出して来た。それはオプションとして百合の手術を執刀できる医師を用意する代わりに、手術の当日、その場に近づかないようにするということだった。

 それを聞いた一孝は最初、どうにか別の条件に変えることは出来ないかと相談した。しかし、那由多はこの条件が飲めないなら、契約は出来ないと言った。一孝は仕方なく那由多の出した条件を飲むことにした。その条件を飲むだけで百合の命が救われるなら安いものだと思った。それに百合には千絵がついている。千絵は自分と違い、亡くなった十華によく似てしっかりしている。千絵がいてくれるのであれば百合も大丈夫だろう。

 だが、それが大きな間違いであったと、後になって思い知らされた。千絵はたしかにしっかりしている。学業は優秀だし、人付き合いもきちんと出来る。長女としての責任感からか、十華が亡くなってからは、その傾向がよりはっきりと表れるようになった。その姿はまるで生きている頃の十華を彷彿とさせた。それでも千絵はまだ十代の女の子なのだ。実の妹の命が掛かった手術の日。その場に一人残された千絵が何を思い、何を感じたのか。それは想像に難くない。きっと千絵は今も一孝を憎んでいる。なぜ、あんなに大事な時に傍に居てくれなかったのかと。

 少し考えれば分かることだった。だが、一孝はそれを放棄した。千絵の気持ちを考えず、自分が楽になることを優先した。

 日ごとに十華の面影を増す千絵に見つめられる度、一孝は自分が責められているような気持ちになった。十華を救えなかったのはお前のせいだ。娘にそう言われているような気がして、一孝は少しずつ、千絵と距離を空けるようになっていった。そして、表面上だけの親娘関係を続けて来た結果、肝心なときに千絵が何を求めていたのかに気付くことが出来なかった。否、気付かないふりをしたのだ。千絵ならきっと大丈夫と、自分に都合よく解釈し、千絵と向き合うことを避けた。

 娘たちを守るため。

 同じ過ちを繰り返さないため。

 そう自分を偽って仕事に逃げ続けていた。

 牽強付会も甚だしい。

 それに気付いたのは百合の手術が終ってからしばらくしてからのことだった。

 夜遅くに帰宅した一孝は明かりの点いていないリビングで千絵がぼんやりとテレビを眺めているのを見つけた。千絵は一孝が帰って来たことに気付くと一瞥を寄越し、またすぐにテレビに視線を戻した。その時、千絵が向けて来た顔を見て一孝はようやく自分の過ちに気付いた。

 ――あんな目をする子だったか?

 たとえどんな理由があっても、家族を蔑ろにしてはいけなかった。

 一体、いつから千絵はあんな顔で人を見る様になっていたのか。

暗く沈んだ瞳、真一文字に閉じられた唇、まるで感情を失ったようなその顔からはしかし、抑えきれない哀しみが溢れていた。

 あんなもの子供が作っていい顔ではない。

 一孝はすぐに仕事を変えることを決意した。このままでは手遅れになる。そんな予感がした。そして、その予感は今日、現実のものとなった。

 千絵は何かを抱えている。それが何なのか一孝には分からない。もしかしたら一孝自身がその原因となっている可能性もある。もし、そうなら、最悪、千絵と離れて暮らすことも視野に入れなくてはならないだろう。

 家に到着した一孝は車を駐車場に停めると、重苦しい息を吐いた 。何にしても、一度、千絵とはきちんと話をする必要がある。そんなことを考えながら玄関の扉を開けた。そのままリビングへと向かおうとすると自分の部屋から明かりが漏れていることに気が付いた。出掛ける前、部屋の電気はたしかに消したはずだった。一孝は部屋の前まで行くとゆっくりと扉を開けた。

 すると、部屋の中で千絵がへたり込んでいる姿を見つけた。その前には見覚えのあるファイルが拡げられていた。

 それを見て一孝は千絵がすべてを知ってしまったことを悟った。 

 案の定、一孝に気付き、こちらを振り向いた千絵の目には涙が浮かんでいた。

「どうして?」震える声で千絵が言う。「どうして、こんなことしたの?」

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