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第四十五話

 父の手が好きだった。

 油で汚れてボロボロになっても、その手が千絵は好きだった。

 千絵がまだ幼い頃、一孝は町の小さな自動車整備工場に勤めていた。毎日、塗料で汚れたツナギを着て帰って来ると、彼は必ず千絵を抱き上げて、「ただいま」を言った。そんな二人を母親の十華はいつも優しげな瞳で見守ってくれていた。その頃の記憶を千絵ははっきりとは覚えていない。だが、幸せだったということははっきりと覚えていた。それは十華が病で倒れるまでずっと続いた。

 十華が病気になったのは千絵が小学校三年生のときだった。その頃から、一孝は以前勤めていた自動車工場を辞め、慣れない営業の仕事に就き始めた。似合わないスーツに身を固め、毎晩遅くに帰って来るようになった。

『お父さん。次のお休み、お母さんのところにお見舞いに行こう?』

『ごめんな千絵。その日、お父さんお仕事だから。お前と百合だけで行って来てくれるか?』

『……うん、分かった』

『すまないな、千絵』一孝はそう言って千絵の頭を撫でた。『まだ子供のお前にお母さんの看病や百合の面倒まで任せてしまって』

『子供じゃないよ。私、家のことだって自分で出来るんだから。……料理はちょっとダメだけど』

『私に似たんだろう。私も料理がまるで出来ないから。お母さんはあんなに上手なのにな』

『ねえー』

『ご飯もちゃんと作ってやれたらいいんだが……。コンビニの弁当ばかりじゃ流石に不味いよな』

『大丈夫だよ。コンビニのお弁当おいしいし、色々あるし。それにお母さんが退院するまでのがまんだもん』

『そうだな。じゃあ、お母さんが退院するまで、家のことはよろしく頼むな』

『うん、まかせて!』

 だが、十華の病状が回復することはなかった。そして、千絵が小学校四年生のとき、十華は静かに息を引き取った。

 それからだった。一孝が何かに憑りつかれたように働くようになったのは。彼が家に帰って来るのは寝るときだけ。それ以外の時間はほとんど仕事に費やしているようだった。

『お父さん、こんなところで寝てたら風邪ひくよ?』

 夜遅く。リビングのソファーで寝ていた一孝に千絵はそう声を掛けたことがあった。だが、一孝は、『大丈夫だ』と答えたきり、そのまま朝までそこで寝ていた。

 千絵は一孝に毛布を掛けると、脱ぎ散らかしてあったスーツをハンガーに掛けた。そのスーツからはきつい香水と煙草の匂いがした。一孝は十華が亡くなってから煙草を吸うようになっていた。だが、香水は使わない。その彼のスーツからなぜこんな匂いがするのか。同世代の子たちより少しだけ成熟の早かった千絵は、そこから母ではない別の女の匂いを嗅ぎ取った。

 お母さんが亡くなったばかりなのに、どうして他の女の人と?

 そんな猜疑心に襲われた千絵の目には、ソファーで眠る一孝が別の誰かに見えた。

 その後も一孝は度々、同じような臭いをスーツに染みつけて家に帰って来るようになった。千絵はその臭いを嗅ぐのが堪らなく嫌だった。知らない誰かがこの家に上がり込んでいるような気がした。

 中学校に進学する少し前 、千絵は一度だけ、そのことを一孝に言ったことがある。

『ねえ、お父さん』

『何だ?』

『今の仕事ってさ、変えることって出来ないの?』

『無理だ』

『どうして?』

『どうしてもだ……。なぜ、そんなことを聞くんだ?』

『えっと、それは、ほら、お父さん仕事変えてからずっと帰って来るの遅いし。それに……』千絵はそこまで言うと、勇気を振り絞って聞いてみた。『あ、そういえばさ、お父さんって、今、誰か付き合ってる人とかっているの?』

 気軽に、何気なく聞いたつもりだった。

 だが、言った瞬間に後悔した。

 あんなに怖い顔をした一孝を見たのは、後にも先にもあのときだけだった。

『何だそれは?』

『え?』

『何を言い出すかと思えば……。お前は何か? 俺が他所に別の女を作ってるとそう言いたいわけか⁉』

『ちがっ……。そういうつもりで言ったんじゃ』

『じゃあ、どういうつもりだ‼』

『それは――』

 千絵はその後、怖さのあまり泣きじゃくり、まともに会話にはならなかった。

 今思えば、あれがきっかけだった。

 それからというもの、千絵と一孝はお互いに一線を引き、余計な干渉をしないようになった。



 目を覚ますと、千絵は自分のベッドで寝ていた。

 少し頭痛がする。嫌な夢を見たせいだろうか。千絵は頭を押さえて考えた。もう忘れたつもりでいた過去の記憶。それがなぜ今更のように夢に出て来たのか。

「あ、そうか。私……」自分が倒れたということを思い出した千絵は頭を押さえながらそう呟く。

 一孝と那由多が一緒にいたのを見た瞬間、千絵は嫌な予感がした。それは口にするのも恐ろしい最悪な予感だった。

 だが、不思議だ。

なぜ、その予感を最悪と感じるのか。

「あんな人のことなんて、どうでもいいはずでしょ?」千絵は自分に言い聞かせるように言った。

 それは千絵が心の均衡を保つために無意識に取った自己防衛の手段だった。

 どうでもいい。そう割り切らなければ、これから直面するであろう事実に向き合うことは出来ないと分かっていた。

 千絵は体を起こすと、部屋の外に出た。そして、階段を下りて一階のリビングへ向かった。リビングのソファーでは百合がテレビを見ていた。百合は千絵が下りて来たことに気付くとこちらにやって来た。

「お姉ちゃん、もう平気なの?」

「ええ」

「びっくりしたよ。いきなり倒れちゃうから」

「ごめんなさい。心配かけて 」

「それは別にいいんだけど……」百合はそう答えると、少し言い辛そうに続ける。「でも、お父さんにはお礼を言っておいたほうがいいと思うよ」

「え?」

「あのとき、お姉ちゃんを背負って家まで運んでくれたのお父さんなんだよ。それからすぐにお医者さんも呼んで来てくれて」

「そう、なの?」

「うん」

「それで、あの人は今、どこに?」

「お医者さんを送りに行ってる。さっき出てったばかりだから、戻って来るにはもう少し掛かると思うけど」

「そう……」

 千絵が俯いてそう答えると、百合が顔を覗きこんで来た。

「お姉ちゃん。こういう時くらい素直にだよ」

「そうね、そうする」

「あれ? 本当に素直だ」百合が吃驚して言う。「お姉ちゃん、やっぱりどこか悪いんじゃないの? もう一回、お医者さん呼んでもらう?」

「私は元から素直です!」

 千絵は百合の頭を掴んで乱暴に揺する。百合はしばらくされるがままになっていたが、やがて、千絵が解放すると、二階の自室へと戻って行った。百合がいなくなると、千絵は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。それをコップに移して一杯飲む。そして、覚悟を決め一孝の部屋へと向かった。

 なぜ、那由多が一孝と一緒にいたのか。その答えはきっと一孝の部屋にある。出来れば何かの間違いであって欲しい。そんな期待を胸に抱きながら部屋の扉を開けた。

 千絵は薄明りの中、本棚やクローゼットを確認した後、机の引き出しを開けてみた。すると、一か所だけ鍵の掛かった引き出しがあるのを見つけた。

 こういうとき、一孝ならスペアキーをどこかに隠してあると千絵は踏んだ。遺憾だが、一孝と千絵の行動パターンはよく似ている。千絵は一孝がモノを隠しそうな場所を探した。すると、案の定、スペアキーはパソコンのキーボードの裏に張り付けられていた。

 その鍵を使って、千絵は机の引き出しを開けた。中にはいくつかのファイルや封筒などが入っていた。それらを千絵はパラパラと確認して行く。その途中で千絵の手が止まった。                              

「……どうして?」

 千絵はそう声を漏らすと、その場に沈み込んだ。

次回は、2026年04月26日 17時10分から、三話投稿で完結の予定です。


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