第四十二話
人の命がこんなに軽い訳がない。
そう思っていた時期が千絵にもたしかにあった。
だが、最近はそんなことも考えなくなって来ていた。事務的に鎌を振り下ろし、札束の詰まったアタッシュケースを渡す。淡々とその作業を繰り返すうちに、千絵の中から少しずつ何かが抜け落ちていった。
そして、年の瀬も迫った十二月、いつものようにクライアントから命を買取るため、大鎌を振り下ろした千絵はその手にあるべき感覚がほとんど無くなっていることに気付いた。
人の命を刈り取った時に感じる痛みや苦しみ、そうした罪の意識が千絵の中で決定的に薄まり始めていた。
始めはただの勘違いと思っていた。しかし、次の仕事でも、その次の仕事でも千絵は以前のように吐き気を催したり、全身から血の気が引くような感覚に見舞われることはなかった。
慣れてきている。
人の命を刈り取ることに。
それはつまり千絵の中で人の命の価値が小さくなってきているということだ。
『ただ、商品を買い取る。それだけを考えて下さい』
那由多は以前、千絵にそう言った。人の命は商品だと、彼は千絵にそう言った。それが千絵には許せなかった。人の命は商品などでは決してない。何物にも代えることが出来ない大切なものなのだ。
それなのに、
「どうして……」
今年最後の仕事を終えた千絵は、ついさっきまで鎌を持っていた手を見つめて、そう呟いた。その手には何の感覚も残っていない。あるのは冬の冷たさだけだった。
言いようのない恐怖が千絵を襲った。このままでは自分は本当に死神になってしまう。
そんな恐怖を抱えたまま千絵は新年を迎えた。
そこに一件の仕事が入った。
クライアントの名前は葛西耕治。
千絵は那由多から渡された資料を見て目を見開いた。
間違うはずもない。それは以前から百合が世話になっていた、あの葛西耕治だった。
なぜこの人が命を?
頭に湧いたその疑問を千絵はすぐに振り払った。考えたところでどうしようもない。分かったところで自分にはどうすることも出来ない。
「百合、あなたは強いね」資料を見つめながら千絵は言った。
自分はずっと、何も出来ないままでいる。
そして、契約の日となり、千絵は葛西家へと赴いた。といっても、実際に耕治の家に足を運んだわけではない。
耕治は体が悪く、妻である沙織なしでは外出することもままならない。だから、耕治の負担にならないよう、葛西家の玄関と普段契約のときに使う公園を繋げておいた。
どういう理屈かは未だに分からないが、死神はこのような不可思議な技術を多数保持していた。
千絵は耕治をその公園に招くと、そこで契約を行った。
契約書と引渡金額の確認。その一連の作業を千絵は淡々と行った。余計な感情が業務に支障を来すことになるのは、経験上よく分かっていた。
だが、契約書にサインを書いてもらう段になって、突然、手が震え始めた。最初は勘違いかと思った。もうずっとこのような感覚からは遠ざかっていた。命を刈り取ることに対する罪悪感。それが千絵の中に戻り始めていた。しかし、だからといって、ここで手を止めることは出来ない。職務放棄はすなわち百合の死を意味する。
千絵は視線で耕治に最後の意思確認を行った。すると、耕治は静かに頷いてから、「お願いします」と言った。
それを聞いた千絵は覚悟を決めるように一度目を閉じた。そして次の瞬間、死神として耕治の命を刈り取った。
耕治が亡くなったのはそれからしばらくしてからのことだった。
次回は、2026年04月24日 18時10分 投稿予定です。




