第三十九話
千絵が自宅の扉を開けると、家の奥から慌ただしい足音が聞こえて来た。
「お姉ちゃん⁉」
「百合、どうしたの? そんなに慌てて」
「どうしたのじゃないよ! まったく……」安堵と怒りがないまぜになったような声で百合は言った。「お姉ちゃん、茉里奈先輩の家から急に帰っちゃったって聞いて、何かあったんじゃないかって心配してたんだから」
「茉里奈から連絡があったの?」
「うん」
「そう……」
「……本当に心配したんだよ」
「ごめん」
「まあ、無事だったからいいけどさ。それより、茉里奈先輩に連絡したほうがいいよ。先輩も本当に心配してたから」
「そうね……。あっ、そういえば、携帯、荷物の中だ」
千絵は今になって携帯電話を荷物ごと茉里奈の家に置いて来てしまったことに気付いた。
「私の携帯、貸してあげるよ。茉里奈先輩の番号も入ってるから」
千絵は百合から携帯電話を借りると、茉里奈に電話をかけた。
『もしもし、百合ちゃん?』茉里奈はワンコールで電話に出た。
「ごめん、私……」
『千絵? あんた、家に着いてたの?』
「うん、いま着いたとこ……。その、ごめんね。急に帰ったりして」
『ほんとだよ、まったく。心配したんだから』
「ごめん……」
『それで、体調のほうは大丈夫?』
「あ、うん」
『そう。ならいいんだけど……』
茉里奈がそう言うと、それから数秒の沈黙が生まれた。
「本当にごめんね」千絵はもう一度、謝った。
『そんなに何度も謝らなくてもいいって。具合が悪くなったんじゃ仕方がないし。それよりこっちこそ一人で帰しちゃって悪かったわ。無理やりにでもお父さんに送らせれば良かったのに、あの時のあんた、あっという間にいなくなっちゃったから、それも出来なくて――』
電話の間、茉里奈は終始、千絵を心配していた。
だが、千絵は結局、一番肝心なことを謝ることが出来なかった。謝罪をすることさえ許されない痛みを抱えたまま、千絵は通話を終えた。
「ありがとう」
「あ、うん」百合は千絵から携帯を受け取ると、おずおずと尋ねる。「お姉ちゃん、夕食はどうする? 今日作ったカレーなら残ってるけど」
「今はいいわ。食欲湧かないし」
「まあ、そうだよね。体調、悪いみたいだし」
「うん。今日はシャワー浴びたらすぐ寝るから」
「分かった」
千絵はタオルと着替えを用意するとすぐに浴室に向かった。そこでびっしょり掻いていた汗をシャワーで洗い流していると、不意に目頭が熱くなるのを感じた。今までどれだけ人の命を刈っても、涙を流したことはなかったのに。千絵は自分の願望を叶えるために人の命を刈っているということを自覚していた。そんな自分に涙を流す資格などないとずっと思っていた。
だが、今はそれを抑えることが出来なかった。千絵は背中を丸めると引き攣るような鳴き声を上げた。その声も涙も熱いシャワーが流してくれた。だが、罪の意識だけは洗い流すことは出来なかった。
翌朝、千絵が目を覚ますと、時刻はすでに昼近くになっていた。今日が休日でなかったら完全に遅刻だったところだ。
昨夜はベッドに入ると、すぐに眠ってしまった。それから目を覚ますまで夢一つ見ることなく、おかげで久しぶりに気持ちのいい朝――もう昼だが――を迎えることが出来た。こんなに眠ったのは久しぶりのことだった。
千絵が一階に下りると、百合がリビングで勉強をしていた。いつもは自室で勉強をしているはずなのになぜだろう。千絵が不思議に思っていると、百合がこちらに気付いた。
「あ、お姉ちゃん。やっと起きて来た」
「おはよう」
「もう、お昼だけどね」百合が冷静に突っ込みを入れる。「体調のほうはどう?」
「ええ。一晩寝たら良くなったわ」
「そっ。なら良かった」
百合はそう言うと柔らかく笑った。
その顔を見た千絵の口が勝手に動いた。
「あの、百合、悪かったわね」
「昨日のことなら気にしなくてもいいよ」
「いえ、そうじゃなくて、その、先月のこと……」
それを聞いた瞬間、百合の顔が強張るのが分かった。
だが、百合はすぐに元の顔を取り戻すと、「いいよ」と答えた。
「もう気にしてないから。それに私も余計なことをし過ぎたかなって思ってたし」
「そう?」
「うん」
「ならよかった」千絵はほっとして言った。
すると、お腹の虫がぐぅーっと、音を鳴らした。そういえば、昨日の夜から何も食べていない。
「あ、そろそろお昼だね」茉里奈がわざとらしく話題を変える。「昨日のカレー、まだ大分残ってるからお姉ちゃんも食べてよ」
「……了解」
「じゃ、すぐ温め直すね」
百合がキッチンに行くと、千絵はリビングのソファーに倒れ込むようにダイブした。何であのタイミングでお腹が鳴るのか。ここ最近、醜態ばかりを晒しているだけに、今のは地味に心が傷ついた。
はあ、と千絵が重苦しい息を吐き出すと、キッチンからクスクスと笑い声が聞こえた。
「なに笑ってるのよ?」
「ううん、別にだ。ただ、最近、そういうお姉ちゃん見てなかったから」
「ごめんなさいね。ダメな姉で」千絵は拗ねたように言う。
一度、空気が弛緩すれば以前の姉妹に戻るのは、あっという間だった。ずっと悩んでいたのが馬鹿みたいだ。
それからリビングでカレーが温まるのを待っている間、千絵は百合がやりかけにしていた英語の宿題に目を移した。いくつかスペルミスがある。あとで教えて上げよう考えていると、ふと、気になっていたことを思い出した。
「ねえ、百合?」
「なに?」
「そういえば、どうして今日はここで勉強してたの?」
すると、百合は、「ただのきまぐれ」と、笑って答えた。




