第三十八話
夏休みが明けて、九月中旬。
放課後になり、帰宅の準備をしていた千絵に茉里奈が言った。
「ねえ、千絵、今週末なんだけど、何か予定ある?」
「別にこれといって予定はないけど」
「本当? なら、一緒に勉強会しない?」
それを聞いて千絵は首を傾げた。
茉里奈は一学期の期末テストで学年一位を取っている。その彼女が、わざわざ千絵と一緒に勉強会などするメリットが見当たらない。
だが、その申し出は千絵にとって有り難いものでもあった。
夏休み最後の日の一件があってからというもの、千絵は未だに百合と仲直りが出来ずにいた。
千絵は少しだけ考えてから、茉里奈の誘いを受けることにした。
正直なところ、今は百合と一緒にいると息苦しい。
その日の夜、夕食を一緒に取っていた百合に週末、茉里奈の家で勉強会をすると伝えた。
「泊まりになる予定なんだけど、大丈夫?」
「あ、うん。大丈夫だよ」百合は笑って答えた。「こっちのことは心配いらないから」
「そう。じゃあ、悪いけど、行って来るわね」
こんな会話は今まで何度もして来た。
それなのに、今は会話の表面上だけを攫っているような心地の悪さがあった。
ただ、百合と話しているだけなのに。
どうしてこんな気分になるのだろう。
そんな悩みを抱えたまま、千絵は週末の勉強会を迎えた。
そこで、千絵は茉里奈から最近、元気がないと指摘された。
表に出しているつもりはなかったが、茉里奈には見抜かれていたらしい。理由を問われた千絵は適当に誤魔化そうとしたが、結局、観念して先月末にあった出来事を話すことになった。
父親との関係が良くないこと。
そのせいで久しぶりの家族での食事に水を差してしまったこと。
あまつさえ、百合に八つ当たりのような態度を取ってしまったこと。
いずれも友人に話すには恥ずかしい内容だったが、茉里奈はその話をきちんと聞いてくれた。そして、姉妹喧嘩をしたことがあまりない千絵のために的確なアドバイスもくれた。
死神になってからというもの、気持ちが荒むようなことばかりだったが、信頼できる友人が出来たことは千絵をとても勇気づけた。
すべてを話すことは出来ないが、打ち明け話が出来る友人がいるというのは、思いのほか心強いものがあった。
茉里奈の誘いを受けて、ここに来て本当に良かったと思った。
それなのに、なぜ、よりにもよって。
「茉里奈の父です」
そう言った男性の顔を千絵はよく覚えていた。
それは一ヶ月ほど前に千絵が命を刈り取った人物だった。
よりにもよって茉里奈の父親だったとは。
全身から血の気が引き、気が付けば、千絵は逃げるようにして柏木家から飛び出していた。
※
どれくらい走り続けていたのだろうか。
足が棒のようになり、もう一歩も動けない状態になってようやく、千絵は自分があの公園までやって来ていたことに気付いた。
そこは一見すればただの寂れた公園だが、実際は死神が契約の際に使う儀式の場でもある。死神との契約はこのような人目につかない場所で行われる。千絵もここで何人もの人と契約を交わして来た。
茉里奈の父親もその一人だった。
――ドウシヨウ?
乱れた呼吸が落ち着き始めると、途端に頭の中から声が聞こえて来た。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
「……どうすればいいの?」
怯えるように頭を抱えた千絵は、呪文のように同じ言葉を繰り返す。そうすることですべてがなかったことになればと祈るように。
だが、契約は履行されてしまった。
もう、取り消すことは出来ない。
死神との契約にクーリング・オフはない。
それでも何か手はないのか。行き詰まりになるばかりの思考に千絵が頭の中を支配されていると、ゆっくりとこちらに近づく足音が聞こえて来た。
ここは本来、死神とその関係者以外足を踏み入れることは出来ない。そんな場所で聞こえて来る足音が誰のものであるかなど、考えるまでもなかった。
「おや、珍しいですね。今日はオフの予定だったはずですが」
それは今一番聞きたくない人物の声だった。だが、同時に今一番会わなければならない人物の声でもあった。
「那由多さん」
「こんばんわ」顔を上げた千絵に那由多は笑いながらそう答える。「どうしましたか? こんな所で」
「……どうすればいいですか?」千絵は何の前置きもなく尋ねる。
「はい?」
「この前、命を刈った人。私の友達の父親でした」
那由多はそれを聞くと、小さく頷き、「そうですか」と言った。
「それは運がありませんでしたね」
「運?」
「ええ。この業界も狭いですからね。時折、そのような事案に当たることもあります」
「そんな……」千絵は立ち上がると、那由多の腕を掴んだ。「どうにかならないんですか?」
「どうにか、とは?」
「何とか、あの契約を破棄することは」
「それは不可能です」那由多はピシャリと言い切る。「一度履行された契約は取り消すことは出来ません。それはあなたもご存じのはずです」
「分かってます。けどっ!」
「それに仮に契約の取消が可能だとしても、おそらく、相手方はそれを望まないでしょう」
「え?」
「お忘れですか? 我々と契約するには書面上だけでなく、本人の精神的な同意も不可欠だということを。たとえ一部であっても自分の命を売るのです。それ相応の覚悟がなければ出来ません。我々と契約される方々は、皆一様にそれなりの理由をお持ちなのですよ」
理由、命を売る理由。
茉里奈の父親が命を売った理由。
それは一体、何だったのか。千絵は必死に頭を巡らせた。
だが、結局、答えは出て来なかった。
「あなたは本当に適性がありますね」懊悩する千絵に向って那由多が言った。「弱くて脆い。まさに人間そのものです」
「どういう意味ですか⁉」
「そのままの意味ですよ。あなたは本当に人間らしい。死神をするには打ってつけの存在です。やはり、あなたを選んだ私の目に狂いはなかった。」
一人、悦に入った様に言う那由多を千絵は鋭く睨み付ける。しかし、そんな視線を軽く受け流し、那由多は話を続ける。
「ですが、あなたのその中途半端な優しさだけは、どうにかしなくてはなりませんね。あなたは、顧客に対して少々情を持ち過ぎるきらいがある」
「そんなこと……」
「無自覚ですか? それとも気付かないふりをしているのでしょうか? いずれにしても、このままではそう遠くないうちに破綻しますよ」那由多は確信に満ちた口調で言う。「それではあなたも困るでしょう?」
「私が?」
「ええ。あなたはなぜ、死神になったのですか?」
言われて千絵は思い出す。
「百合を、助けるため……」
「そうでしょう」那由多は力強く頷く。「なら自分が何を優先すべきなのか。あなたはそれを考えなければなりません」
百合の命を救う。
そのためなら自分は何でもすると、あのとき誓った。
千絵は那由多を見上げると、「分かっています」と言った。
「それなら結構」那由多は満足そうに笑って答える。「直にまた新しい仕事が入ります。くれぐれも、今、私が言ったことを忘れないよう肝に銘じておいて下さい」
「……はい」
「では、失礼します」那由多はそう言って、公園の出口に向かおうとした。しかし、「ああ、そう言えば、天音さん」
「何ですか?」
「あなた、星は好きですか?」
「いえ」
千絵が即答すると、那由多は残念そうに肩を竦める。
「そうですか。私は結構好きなんですけどね」
そう言い残し、那由多は今度こそ、その場から去って行った。
それを見送ったあと、千絵は今日から嫌いになった星空を見上げた。
次回は、2026年04月21日 2話 投稿予定です。




